ラグビーの歴史上初、選手とレフリーの両方で
オリンピックに出場する桑井亜乃さん。
この夏、パリ五輪で笛を吹くことになる
彼女の挑戦をニュースで知り、しびれました。
どれだけの努力をしてきた人なんだろう、と。
目の前の夢を次々に叶えてきた桑井さんが
大切にしてきた言葉は「強く、美しく」。
ひたむきに突き進む彼女の秘密にせまります。
担当は、ほぼ日の下尾(しもー)です。
ほぼ日の「にわかラグビーファン」な私たちにも
桑井さんのお話はとってもわかりやすく、
パリ五輪の見どころまで、教えていただきました。
桑井亜乃(くわいあの)
1989年10月20日生まれ。北海道幕別町出身。
日本ラグビー協会公認レフリー。
パリ五輪2024マッチオフィシャル。
7人制ラグビー元日本代表。
選手とレフリーの両方で五輪出場は
ラグビー界では世界初。
桑井さんのX
https://x.com/ano1020
桑井さんのInstagram
https://www.instagram.com/ano.1020/
- ──
- 桑井さん、お目にかかれてうれしいです。
今日の格好を見ると、
7人制ラグビーの元日本代表で
レフリーとしてグラウンドで走る姿とは
イメージが変わりますね。
- 桑井
- はい、今日は素敵な衣装を着せていただきました。
でもハイヒールは、もうそろそろ
脱ぎたくなってきました(笑)。
あ、でも足元も写りますかね。
それじゃあ履いたままで大丈夫です!
- ──
- ラグビーのお話に入る前に、
桑井さんご自身のことを知りたいなと思って、
幼少期のお話からお伺いします。
小さい頃は外でよく遊ぶお子さんだったんですか。
- 桑井
- 外にばっかりいましたよ。
習い事もしていたので、
家にいることは、ほぼなかったと思います。 - 北海道で育ったので
小学生のときは、夏は陸上の練習で、
冬にはアイスホッケーをやっていました。
その他にも日本舞踊、習字、ピアノ、
塾にも通っていました。
いろいろと、やらせてもらっていましたね。
- ──
- メチャクチャ忙しい子だったんですね。
- 桑井
- 毎日、何かしらの習い事が終わったら、
そのまま陸上か、アイスホッケーに行く生活でした。
なんでそんなに習い事をしていたかというと、
ぜんぶ、姉のマネをしていたんです。
日本舞踊は、3歳から中学3年生までやっていました。
- ──
- わあ。かなりしっかり習われていたんですね。
小さいころは、どんな性格でしたか?
- 桑井
- 負けず嫌いな性格だったと思います。
マラソンで、いちばんにならなきゃ気が済まないとか。
あとは、活発に動き回る子でした。
- ──
- アスリートらしい性格ですね。
好きな食べ物は何ですか?
- 桑井
- 肉が好きです。
- ──
- 肉は、塊で?
- 桑井
- 塊です(笑)。
あとは何が好きって言われたら‥‥、
クレープが好きです。
- ──
- 肉と真逆なんで、びっくりしたんですけど。
- 桑井
- ほんとはクレープって言いたい!
- ──
- ぜひ言ってほしいです(笑)!
- 桑井
- もっとそう言いたいんですけど、
我慢するときもあるので。
クレープ屋さんがやりたいぐらい、
クレープが大好きです。
クレープって小さいときの憧れじゃないですか。
アイスとかソフトクリームみたいなのが
入っているのが好きです。
あと、シンプルにバターシュガーがいい!
- ──
- 美味しいですよね。
そういえばラグビー観戦にも
クレープって合いそうですね。
- 桑井
- あっ、そうそう!
実は、いつか叶えたい夢のひとつが、
ラグビー場にしかない
移動販売のクレープ屋さんを作ることなんです。
夢というか、目標に近いかな。
小さい子たちに
「あのクレープが食べたいから、
ラグビーを観に行きたい!」って
言ってもらえるようなクレープ屋さんを作れたら、
おもしろいんじゃないかなと思っているんです。
- ──
- ああ、いいですね。
いつか食べに行きたいです。
- ──
- 話が戻るんですが、
陸上部に入ったのも、お姉さんの影響ですか?
- 桑井
- そうですね。
姉が4つ上と、7つ上にいて、
ふたりとも陸上をやっていたので、
小学校に入る前から親について、
送り迎えに行っていました。
ジッとしていられなかったので、親が
「土手を一周走ってきたら、お菓子を1個買ってあげる」
と言ってくれた約束から始まりました。
それがだいたい2キロか3キロくらいかな。
子どもだから
お菓子を買ってもらえるご褒美が楽しみで
走っていたのがきっかけですね。
それからマラソン大会の幼児の部で
3キロマラソンを完走して。
それが私の陸上人生のスタートですね。
- ──
- すごい! 小学校に入る前から3キロも。
最初は長い距離を走っていたんですね。
- 桑井
- 最初は長距離でしたね。
小さいときからやってきたことが
どんどん積み重なって、
違う種目に変わっていきました。
小学校の間は800mやマラソンをやっていて、
中学校になってからは走幅跳へ。
そこから、ちょっと膝を故障したこともあって、
リハビリ中でもできる競技で試合に出ることになり、
投てき種目なら出られることがわかったんですよ。
中学生のうちは投げるものもまだ軽かったのもあって、
投げたら飛んで(笑)。 - そこから投てき種目に、転向していきました。
中学校で砲丸を投げたのを見た高校の先生が、
その高校に呼んでくださったんです。
それから高校で砲丸投から円盤投に変わって。
円盤投は、高校から大学卒業まで、やりきりました。
- ──
- 後にラグビーへの転向もあるわけですが、
桑井さんは陸上をされていたときから
変化に柔軟だったんですね。
- 桑井
- 小さいころから、いろんな競技を体験していたので、
体の動かし方を身につけていたっていう感じです。 - 高校2年生のときに国体で入賞したので、
中京大学に入ることができました。
4年間、円盤投をやったんですけど、
大学では、あんまりいい成績が出なかったです。
- ──
- そこでやりきった感覚はありますか?
- 桑井
- もうここまでやって伸びなかったら、
伸びないだろうなっていうところまで、やりました。 - 中京大学の投てき種目といえば、やっぱり、
室伏広治さんという存在が大きかったんです。
世界でたたかう人と一緒に、
トレーニングしたり、ご飯を食べたり、
いろんな話をさせてもらったりして、
より世界っていうものを近くに
感じさせてもらっていたんです。
そこで私のレベルと世界のレベルは、
ぜんぜん違うところにあるということに気がつきました。 - 室伏さんは、すごい人だなって。
こういう人、かっこいいな、こういう人に憧れるなって
思いながら大学時代を過ごさせてもらいました。 - 大学を卒業してからラグビーを始めたときに、
やっと室伏広治さんが、言っていたことが
理解できるようになりました。
いざ、自分が世界で戦うようになってから、
だんだんと理解が深まっていったんです。
- ──
- どんな言葉だったんですか?
- 桑井
- 「力を入れるけど、力むな」です。
正直、円盤投をしていた頃には
何を意味しているのか、わからなかったんですけど、
ラグビーを始めたときに「あ、なんかわかる気がする」
と感じることができた瞬間があったんです。
そこから「あ、こういうことか!」と。
- ──
- 桑井さんがラグビーと出会ったのはいつですか?
- 桑井
- 私は中京大学の体育学部出身で、
当時は円盤投の選手だったので
競技として触れたことはなかったんですけど、
授業の一環でラグビーをしたんです。
めちゃくちゃおもしろいスポーツあるじゃん!
と思ったのがきっかけですね。 - ちょうど、リオ五輪の正式種目に決まったころで、
ラグビー部の先生が
「絶対にラグビー、やった方がいいよ!」
って、ずっと誘ってくださったんです。
でも「私は、陸上をしに大学に来たんで」と言って、
「卒業するときに決めます」と話しました。 - そして大学生活が終わるころ、
地元に帰って学校の先生になるか、
まったくゼロからのスタートだけど、
ラグビーをやるかの二択になったときに、
私はチャレンジしたいなと思ったんで、
ラグビーの道を選びました。
- ──
- 未経験ながら、ラグビーの道へ。
かっこいいですね。
- 桑井
- 最初はラグビーを支援してくださる会社に就職しました。
ただ、働きながらラグビーの練習をしていたので、
会社で仕事しながら練習もあって、
練習が終わったらまた会社に戻る
という生活で寝不足もつづいてしまい‥‥。 - 日本代表の候補に入れたときに、
このままじゃ、五輪は厳しいなと思ったんです。
もっといい環境をさがして、
立正大学の大学院に行きました。
学校自体が16時くらいからのスタートだったんで。
それまでの時間にトレーニングができるようになりました。
- ──
- ラグビーをやるぞって決めた時点で、
リオ五輪までは、あと何年でしたか?
- 桑井
- ちょうど4年でしたね。
そのときの私は、いち早く代表になること、
そして代表に居続けることを目標にしていました。 - 実際に、競技をはじめて1年目で代表に入って、
2年目は選ばれたり選ばれなかったりと、
はがゆい経験もしました。
3年目にやっとスタートから出られる選手になって、
そのままリオ五輪へ、という感じです。
(つづきます)
ヘアメイク:佐々木麻里子
スタイリスト:坂能翆(エムドルフィン)
衣裳協力
ピアス・ブレスレット:perlagione
ブレスレット:Kinoshita pearl
2024-07-24-WED