飯島さんの本業は「フードスタイリスト」。
それは、レストランの料理人とも、
雑誌や書籍、テレビで活躍する料理研究家とも、
そしてテーブルコーディネーターとも、
ちがう仕事なんです。
そのちがいって、なんだろう? 
そして、どうして飯島さんは
「フードスタイリスト」になったのかなあ。
長いおつきあいの飯島さんに、
あらためてそんな話をおききしました。
最初は、飯島さんへのインタビュー、
そして後半は、
ファッションデザイナーの児玉洋樹さんといっしょに、
飯島さんとつくったあたらしいアイテムのお話を
していきますよー!

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前編

フードスタイリスト
という仕事

──
飯島さんについて、世の中のみなさんには
「料理の人」というイメージがあるかもしれませんが、
「フードスタイリスト」というお仕事なんですよね。
その「スタイリスト」の部分が、ひょっとして
あまり理解されていないのかも? と思ったんです。
でもじつはその部分が
飯島さんの仕事でとても大きな役割なんだということを
お伝えしておきたいなと。
飯島さんはいつから「フードスタイリスト」なんですか?
飯島
先生に師事したころからですね。
──
もともとは栄養士の学校に行かれていたんですよね。
そこから、どうして、その道に? 
そこで「フードスタイリング」の授業があったとか。
飯島
いえ、勉強したのは料理と、栄養についてです。
栄養士の資格を取ると、
その知識をいかせる職業としては、
給食や病院食をつくる仕事などがあるんですが、
わたしは料理が好きでその道に行こうと思ったので、
なんとなく方向が違うかなと感じていました。
けれどもそれがどんな仕事なのか、
その当時は、はっきりと、分からなかったんです。
そんなとき、料理の雑誌ですてきなページを見て、
ひらめいたんですね。
「こんな仕事をやりたい」と。
──
雑誌の料理ページをつくるお仕事ですね。
飯島
はい。けれども、就職雑誌には
そんな職業の募集は載っていなかったんです。
当時はインターネットもなかったですし、
本を見て編集部に電話をかけるということも思いつかず、
アルバイトの雑誌をめくって、
料理の記事も扱っていますよ、という
本の編集の会社に面接に行ったんです。
──
編集制作会社ですね。
飯島
そういう面接を何社か受けているなかで、
ある会社のかたが言ってくださったんです。
「あなたは編集じゃなくて、
料理を現場で作りたいんですね?」と。
そして、料理をつくるなら、と、
知っている先生をその場で紹介してくださいました。
──
すごい!
飯島
そうしたら「明日どこそこに面接に来てと言っているから、
行ってらっしゃい」と。
‥‥そういうことって、今では
なかなか考えられないですよね、本当に。
──
はい、ないと思います。
それで、その料理の先生のところに、
面接に?
飯島
そうです。そうしたら
「明日から来てください」って言われました。
──
その方が、飯島さんが
「先生」と呼んでいる方なんですか。
飯島
そうです。その先生のところから独立をしたので、
私にとっては最初で最後の「先生」です。

──
その方が、飯島さんがいまなさっているような、
CMであるとか、映画の料理をつくっていたんですか。
飯島
いえ、私が就職した当時は、まだでした。
旦那さんがカメラマンで、奥さんが私の先生で、
2人で組んでスーパーのチラシに載せる
料理写真を撮っていらっしゃった。
たとえばすき焼きのお肉のセールに向けて、
すき焼きをおいしそうに作って撮影する、
というようなことです。
先生は食器もたくさん持っていらして、
撮影には手持ちの食器を使われていたので、
料理もスタイリングも一手にやっていました。
ところが私の先輩にあたるアシスタントの方が
私が入ってすぐに辞められてしまったんです。
残ったのは、わたしと、もう1人いたアシスタントだけ。
──
えっ! それは心細いですね。
飯島
就職して1週間目のことだったんです。
ものすごいプレッシャーでした。
そして仕事を始めてわかったんですが、
結構厳しい世界だったので、
体力も気力もないと続けられない。
そういうことって入ってみないと分からないですよね。
──
もう1人の人というのは‥‥。
飯島
私と同じ学校だった子が
たまたまそこでアルバイトで勤めていたんです。
その子は先生のスタイリングの助手になり、
私は料理メインで働くことになりました。
──
飯島さんがまだ、
20歳そこそこの頃ですよね。
いきなり、料理。

修行時代のこと

──
そのお仕事は忙しかったんですか。
飯島
そうですね。
先生の旦那さんがカメラマンだったので、
いろいろなグラフィックの
料理の撮影が入っていましたね。
そして、そのうちに、CMのお話が来たんです。
映画はもともとなさっていたんですけれど、
2、3年に1回くらいだったようです。
──
多くはなかったんですね。
飯島
というのも、当時の映画では、
料理が出るシーンを撮るのに
フードスタイリストを使うことが
多くはなかったと思います。
──
以前、お話しなさっていましたね、
それまでの映画における料理は
「小道具」のようなものだったと。
飯島
そうです。「消え物」と言うんです。
味がどう、見た目がどう、というよりは、
撮影を待たせないよう
すぐ出せるように準備しておくものだった。
だから、ちょっとくらい乾いてもかまわない。
──
おいしそうに食べるのがお芝居の技術だから、
料理がおいしいかどうかは別、みたいな?
飯島
そうかもしれないですね。
‥‥とは言いつつも、小津安二郎さんの
映画を見ると、「おいしそう」という表現も、
ちゃんとなさっているんですよ。
実際においしいのかどうかは
今となってはわからないことですけれど、
きっと美術さんが頑張って
つくられたんだろうなあと想像するんです。

──
なるほど‥‥。
話を戻しますと、最初の就職先で、
飯島さんは仕事の経験のないまま
いきなり料理の担当になり、
緊張しながらも仕事をする日々がはじまったと。
厳しい世界で緊張しつつ、
「とにかく一所懸命やるんだ!」ということですよね。
そんななかで、「これは面白いなぁ!」
みたいなことも、あったんですか。
飯島
最初は「先生が喜んでくださったらそれでいい」
という気持ちだったと思いますよ。
不思議なんですけれど、
私は自分のために何かをやるというよりも、
「与えられたものを、どうやったらより良くできるか」
ということが楽しいようなんです。
もちろんそれは自分のためなんですけれど‥‥。
先生は「こういう料理をお願いします。
分からなかったら、本を見たり、わたしに聞いてね」
とおっしゃる。でも今みたいに
試作、試食をいっぱいすることはできなかったので、
本番に向けて一発勝負でやるしかない、という感じでした。
だからそれが喜ばれればうれしいし、次の仕事につながる。
──
先生は「おいしくなくても、きれいなほうがいい」
という人じゃなかったわけですね?
飯島
そうですね。そうじゃなかったんです。
もちろん、クライアントによっていろいろなんですよ。
映画では自然な料理が求められても、
その当時(1990年代)のCMでは
見た目においしそうな料理のほうが
求められていたと思います。
だからたとえば撮影寸前に見た目がよくなるよう油を塗る、
ということもありました。
そんな中で自分でも「CMってこういうもの」と
割り切って仕事をしていたんですけれど、
クライアントさんや監督によっては
「やっぱりそれは嫌だなぁ」という人が
いることに気が付きました。
もっとナチュラルでリアルなほうが好まれる現場もあると
徐々に気が付いていくんです。
先生に喜ばれさえすればいいと思っていたのが、
外の声に気付き始めたわけですね。
──
先生の「向こう側」が見えてきたんですね。
たとえば先生が不在で、
ひとりで任されることもあったんですか?
飯島
はい、先生の仕事が重なったりすると、
ひとりで現場に行くこともありました。
でも今思うと、先生も、よく、
入ってきたばかりの20代の子に
ひとりで行かせてくださったなと思うんですけれど、
思えば、それが先生の才能なんですよね。
──
飯島さんを信頼していたんですよ。
飯島
うーん? 信頼するというところまでは、
まだ行っていなかったかもしれません。
少しはあったとは思いますけれど。
──
先生の目の前で
「この料理を作ってみて」みたいな、
試験めいたことはなかったんですか。
飯島
それが、なかったんですよ。
──
そうですか。
私たちが飯島さんという人に会うと、
そのすがた、手の雰囲気、いろんな角度から
「絶対この人はおいしいものを作るにちがいない!」
という確信をもつんですけれど、
先生にも、そういうことがあったのかもしれませんよ。
飯島
そうだと嬉しいです。
先生はとても鋭いかたでしたから。

スタイリングをはじめる

──
もう1人、一緒に仕事をしていた、
同じ学校出身でスタイリング担当の方とは、
お互いに磨き合ったような関係だったんですか。
飯島
そうですね。
──
飯島さんはスタイリングというところは、
そこから勉強なさったという感じでしょうか。
飯島
私は自分が料理を仕込んだり、
作ったりするほうだったんですけれど、
それが一段落すると食器のほうも手伝いに行くんです。
それで働きはじめて2、3年くらい経った頃、
「たまには奈美もやってみなよ」と
先生がおっしゃってくださって、
広告の‥‥、ちょっとしたものですよ、
そんなに大きいことを任されたわけではないですが、
スタイリングをすることが出てきました。
「今回、お正月の風景だからセットしてみて。
「シチュエーションはこういう感じで」と言われるんです。
私も、先生がイメージするものが
なんとなく分かるようになっていたので、
一つはそのイメージで作って、
もう一つは自分だったら、という20代の感性で
「こういうのはどうですか」って、
ふたつのスタイリングを提案しました。
──
すごい! ふたつも?!
飯島
あ、いえ、
「先生はきっとこういうのを選ぶだろうな」というものと、
「自分だったらこういうのもいいかな」という迷いを
そのまま出しただけなんです。
でも、そうすると、結構、自分がやったほうを
先生が選んでくださったりして。
──
なるほど。
飯島
今になってみると先生の気持ちも分かるんですけれど、
若いのが、私はこうです! みたいな主張だけ
持って来られても困っちゃいますよね。
ちゃんと王道、スタンダードを理解したうえで
「こちらもいかがですか?」と提案していたのが、
よかったのかなって思います。
自分で言うのもなんですけれど、
私、結構、アイデア、たくさん思いつくんです。
──
そうですよね。ミーティングで考えが袋小路に入ると
「じゃあ、こういうの、どうですか?」
って、すぐに新しいアイデアを出されますよね。
それで、その最初の仕事は、
何年間、続けられたんですか。
飯島
7年間くらいです。
──
その間に映画の世界も? 
伊丹十三監督の作品に参加なさっていたんですよね。
飯島
はい、『大病人』『静かな生活』
『スーパーの女』を撮られた頃です。
──
それで7年。独立のきっかけというのは?
飯島
自分の力を試したくなったということですね。
自分の名前で現場に行って責任を持ってやることは、
大変だろうけど挑戦したくなりました。

独立、そしてチームをつくる

──
いまから30年近く前は、おそらく、
徒弟制というか、独立して一人前、
みたいなところがあったでしょうね。
逆に、今、飯島さんは
7 days kitchenという会社をつくられて、
フードスタイリストを幾人も育てつつ、
チームで仕事をするスタイルになっています。
それも興味深いことなんです。
飯島
独立してしばらくした頃、
自分よりも若い世代のスタッフが
アシスタントとして参加してくれたんですが、
ベテランになっても独立をせずにやっていきたい
という気持ちがある人もいることに気づいたんです。
もちろん独立をしてもいいんですよ、
けれども、同じチームでやるからこそ
味わえることというのも、たくさんあると。
だからちゃんといい環境にしてあげたいと思いました。
1人でやるのは大変だというのは、
やってみて本当に思ったことなので、
会社にいながら個人の名前で仕事ができる
環境をつくれたらいいなと考えたんです。

──
じゃあ、会社の仕組みから、考えたんですか。
飯島
はい。最初は個人でやっていたんですが、
会社にしたのは、複数の撮影を請け負うと、
その日にちがかぶることがあるんですよ。
とくに季節もののCMは、撮影時期も近いので、
私が行けないときは誰かに頼まなきゃいけない。
だから会社にして、社員がいたほうがいいなと。
──
「飯島さんがいいんですが」
という人はいませんか。
飯島
はい。それはとてもありがたいことなんですが、
7 days kitchenの
フードスタイリストたちは優秀ですから、
ちゃんとそれぞれの名前で仕事が来るようになるほうが
私としても嬉しいんです。
ですから数人で撮影に参加するときも。
私は現場のカメラ前に張り付かずに、
裏で料理を作って、みんな前に出し、
うちのスタッフの優秀さをアピールしますよ。
それが成果をあげると、
「次も飯島さんのところのスタッフさんで」
とおっしゃってくださるようになる。
また、打ち合わせだけわたしが参加し、
現場は任せる場合もあります。
さらに直接の指名をいただくことも出てきました。
そういうときには報酬で還元するようにしています。
──
「会社にいながら、それぞれが
独立したフードスタイリストとして
やりがいがあるように」という仕組みを
つくられているんですね。
すごく面白いです、このお話。
飯島
そうですか、つまらない話ばかりじゃないですか。
──
そんなことありません。
今若くて、未来が見えなくて、
モヤモヤしている人たちにも響くように思います。
それで、今日、あらためて
お聞きしたいなと思っていたのは、
フードスタイリストの
「スタイリング」の仕事のことなんです。
そういうのって「アウトプット」のお仕事ですよね。
そのためにはふだんのインプットが
相当必要な仕事なんじゃないかなと思うんですが、
飯島さんはどうやって勉強なさっているのかなと。
飯島
そうですね‥‥、
そんな勉強だとか言うほどのことじゃないんですよ。
旅行に行って食器を見たり、
いろんな方のお家にお邪魔したりすることが
かなり、インプットになっていると思います。
地方のおばあちゃんちに行くこともあれば、
すごくおしゃれな都会のお部屋を訪ねることもあって、
本当にいろいろなものを見ています。
だから「勉強しました」というよりは
いろんなものを見たり、食べたり、
その場所まで行ったりすることじゃないでしょうか。

徹底追求型レシピ本『LIFE』

──
そういえば味の探求もそうですよね。
『LIFE』の最初の三巻までは、
みんながいちばんおいしいと思う味を探して、
ハンバーグならハンバーグで
いろんなお店を食べ歩くことから
レシピづくりをはじめていましたよね。

飯島
みんながおいしいと言うところを調べて、
自分が行ったことがあっても、もう1回、
アシスタントと2人で食べに行きましたね。
1つのレシピのために
だいたい4、5件、食べ歩きました。
──
都内に限らず、地方遠征もして。
飯島
ビーフシチューのときは、
私が好きな京都の洋食屋さんに行って、
ちょこちょこ質問して、
ヒントをもらったりしていましたね。
麻婆豆腐のときも、本当に四川の麻婆豆腐なのか、
日本の町中華的な、
片栗粉で少しとろみを付けているものなのか、
「その中間もいいよね」なのか、食べ歩いて、
試作のときも本格寄りと町中華寄り、
バランスを変えてそれぞれ2つずつつくってみたり、
さらにそれをまた違う日に、細かく
「これをもうちょっとこうしてみよう」と、
それこそ勝ち抜き戦みたいにして考えましたね。
──
すさまじかったなと思います。
飯島
レシピの本を出すのって、
有名な料理研究家のかたや料理人の方だと思うので、
フードスタイリストという裏方の私に、
糸井さんから機会をいただけたことがうれしかったんです。
もうこれは一生に一度だというつもりで、
気合いを入れて頑張ろうって。
──
いま読み返すと、最初の3巻、
ほんとうに細かいんですよ、レシピ。
飯島
世の中にいっぱい、
基本的な料理の本ってあるじゃないですか。
それを考えると、無名の私が本を出しても
ちゃんと売れるのか心配だから、
自分がいつもこうですよということじゃなくて、
とにかくみんながおいしいと思える料理、
必ず再現できるレシピを目指そうと。
──
そうでしたよね。そして、『LIFE』は
飯島さんといっしょにシチュエーションを考えて、
それに合うスタイリグをお願いしました。

飯島
楽しかったですね。たとえば、
「太巻き」という料理にしても、
「どんなシチュエーションの太巻きか」を考えて。
それも自分たちの共通の思い入れを考えて
意見を出し合って‥‥。
たまたま私の元アシスタントが地方の魚屋さんの娘で、
地元に行くとお母さんが帰りに太巻きを持たせてくれる、
というエピソードがあったので、それいいね、と。
太巻きだったら帰りの電車や飛行機でも食べられるし、
家に帰ってからも食べられるし、
ちょっと時間がたっても、むしろ作りたてよりも
味がなじんでおいしいよという、そういうので、
生のお刺し身などは入れずにおこう、とか。
──
そうすると、それをつくる食卓はどんな姿か、
飯島さんからのスタイリングの提案も、
ぼくら、毎回、楽しみでした。
「スタイリング込みが『LIFE』です」
ということなんですよね。
飯島
「実家らしさ」を表わしたくて、
食卓にペン立てとか、
よく分からないレースの上にのっている小物とかハガキ、
そういうものがあふれているスタイリングをしたら、
糸井さんが見て「‥‥これは、何?」(笑)。
そういうのがないおうちもあるんだ! って驚きました。
──
きっと糸井さんの家にはなかったんですね。
飯島
人の家に行くと、大体あると思っていたのに。
塗りの箱みたいな中に、
雑貨がごちゃごちゃ入っているような‥‥。
──
あるいは常に調味料が出ている家とか。
飯島
ですよね。
──
シチュエーションによって照明もかえました。
夜食だったら窓に幕を張って暗くして。
飯島
シチュエーションがあって、
普通の料理がおいしそうに見えるというのが
私の特徴だと思ったので、
そこは、1回ずつ、がんばりましたよね。
ああ、楽しかった。料理って思い出しますよね、
餃子をみんなで作ったなとか。
私、そういう本をずっと作ってみたかったんです。
──
『LIFE』の飯島さんのすごさ、
あらためてみんなに分かってほしいです。

フードスタイリングの仕事の流れ

──
さてフードスタイリストのお仕事の依頼を受けたとき、
飯島さんがどんなことをなさるのか、
流れを教えていただけたらと思います。
飯島
仕事の流れですね。いいものがありますよ。
これ──。

──
これはなんですか?
飯島
以前、わたしの仕事というテーマで
小さな展示をしたことがあったんです。
そのときにつくっていただいたボードなんですが、
仕事はこんな流れなんですよ。
まず発注が来て、企画会議をして、
私がメニューを考えます。
撮影までの間には食器を選んだりして、資料を提出、
また打ち合わせをして、具体的に
「食器はこんなのにします」
「もうちょっとここを考えてください」とか、
やり取りがあって、撮影になりますね。

──
プロデューサー、美術デザイナー、コピーライター、
クリエイティブディレクター、監督、カメラマン、
照明技師、フードスタイリスト、スタイリスト、
ヘアメイク‥‥こんなに大勢の人々が関わるんですね。
これはCMであっても映画であっても近い感じですか?

飯島
そうですね、近いですね。
映画やドラマだと、料理をするのが役者さんや
タレントさんだったりするので、
料理の指導をすることもあります。
──
映画やドラマには、最初の段階から
『LIFE』と同じように
シチュエーションというのがもうあるわけですよね。
どんな人たちが、どんな環境で
ご飯を作って食べるのかという。
飯島
そうです。それによってメニューと食器を考える。

──
そのためには原作を読み込んだりとか、
時代背景を考えたりとか。
確か太宰治が原作の映画のフードスタイリングを
担当なさったときは、
その時代の「お米」について
随分研究したとおっしゃっていましたね。
飯島
松たか子さんが主役の
『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』ですね。
その当時の状況って正直分からないじゃないですか。
当時のご飯が玄米なのか白米だったのかも。
その辺を調べて、こうしますと監督に伝えたり。
連ドラの『ごちそうさん』のときもそうでした。
台本には「パルフェ」と書いてあるけれど、
明治時代のパルフェというものの資料が
あんまりないんですよ。
戦争で当時の資料も焼けちゃって‥‥。
時代考証の人も、建築や文化のことはわかっても、
料理に詳しい方があまりいらっしゃらない。
だから自分たちで古い本を探したり、
当時からある資生堂パーラーとか千疋屋に電話をしたり。
でもやっぱり資料はなかったんですよ。
──
明治時代のパルフェを覚えている人は
すでに鬼籍に入られていますしね‥‥。
飯島
あの時は苦労しましたね。
──
そういう経験を積み、成果を着実に出されていくと、
お仕事がたくさん来るのではないかと思います。
飯島
とてもありがたいことなんですけれど、
わたし自身が有名になりたいと思って
やっていることではありませんから‥‥。
──
飯島さんは大勢のスタッフの1人であって、
その飯島さんはまた7 days kitchenという
チームの1人であって、ということですね。
そうか、飯島奈美というブランドで
看板や広告塔を引き受ける選択肢もあるけれど、
あえてそこは‥‥。
飯島
そうですね。そこは興味ないんですよ、正直。
──
ありがとうございました。
あ、児玉さんがいらっしゃった。
「SUPER LIFE MARKET」の
あたらしいアイテムのお話を、
いっしょにしましょうか。
児玉
こんにちはー。
いいものが、できましたよ!
飯島
わぁ。

(つづきます)

2022-12-15-THU

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  • 飯島奈美さんと児玉弘樹さん、
    そして「ほぼ日」がいっしょにつくった
    エプロンの新色とエコバッグは
    12月20日(火)午前11時より
    「ほぼ日ストア」で販売開始です。
    どうぞおたのしみに!