20年間、村上春樹さんの小説を
デンマーク語に訳してきた
メッテ・ホルムさんに聞きました。
翻訳とは何か、について。
それは単に、機械がするように
言葉を別の言葉に置き換えること、
では、やっぱりなかった。
言葉と言葉の間に、
みんなが渡れる橋を架けるような、
一枚の布を織るような営みでした。
メッテさんが愛してやまない
村上さんの小説のことについても、
いろいろと、うかがいましたよ。
担当は「ほぼ日」奥野です。
メッテ・ホルム
翻訳家。デンマーク生まれ。二人の娘の母。
コペンハーゲン大学で文学修士号と人類学学士号を取得。
2001年以降、
デンマークで出版されたすべての村上春樹作品の翻訳を
手がける。
翻訳歴は、『⾵の歌を聴け』、『ねじまき⿃クロニクル』、
『スプートニクの恋⼈』、『ノルウェイの森』、
『海辺のカフカ』、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、
『1Q84』、『騎士団長殺し』など多数。
その他にも、
⼤江健三郎、吉本ばなな、川上弘美、東野圭吾などの
作品を翻訳。
今後は、
村⽥沙耶⾹、多和⽥葉⼦の作品の翻訳も決定している。
- ──
- メッテさんを追ったドキュメンタリーを
拝見したんですが、
村上春樹さんの小説を翻訳するに際して、
どの言葉を選んだらよいか、
徹底的に突き詰めている姿に驚きました。
- メッテ
- そうですね、それは。
- ──
- デビュー作『風の歌を聴け』の冒頭
「完璧な文章などといったものは存在しない。
完璧な絶望が存在しないようにね。」
を訳す場面だったので、
とりわけ慎重だったのかもしれませんが、
翻訳家仲間と相談したりして。 - あの繰り返しで、
1冊の翻訳本がつくられているのかと思うと。
- メッテ
- でも、どれだけやっても、後悔します。
- ──
- しますか、後悔。
- メッテ
- 読めば読むほど、直したくなってくる。
- ──
- 翻訳とは、そういうものですか。
- メッテ
- 何度も直して直して‥‥
いちばんはじめに選んだ言葉に、
たどりついたりする。
- ──
- めぐりめぐって。
- メッテ
- 翻訳ってどうしても、そういうもの。
いつだってそう。 - だって、
「完璧な文章は存在しない」でしょ(笑)。
- ──
- 「完璧な絶望が存在しない」ように(笑)。
- メッテ
- でも、すばらしい本は、
100年とか200年、生きるじゃない。 - でも、翻訳された本はそうじゃない。
いずれ死にます。
- ──
- 死ぬ‥‥。
- メッテ
- つまり、わたしが翻訳した本は、
将来、他の人が
訳し直すことになると思います。
- ──
- それは、時代が変わると、
デンマーク語も変わっていく、から?
- メッテ
- それもそうだし、翻訳っていうのは、
どうしても、わたしの見方‥‥
ようするに、
翻訳者の影響が強く出てしまいます。 - わたしの見方がそぐわなくなったら、
次の時代の翻訳者が、
翻訳し直さなければならないと思う。
- ──
- メッテさんが、翻訳をするときに、
大事にしていることって何ですか。
- メッテ
- そのこと、村上さんにも聞きました。
- 答えはすごくシンプルで、
とにかく読みやすくなきゃダメって。
- ──
- ほおお。
- メッテ
- わたしも、
翻訳されましたという本じゃなくて、
もともと
デンマーク語で書かれたような‥‥
読んでいて、
そういう気持ちになる本が理想です。
- ──
- なるほど。
- メッテ
- ただ、そんなふうに訳そうとすると、
ときに、
アンフェイスフルになることもある。
- ──
- アンフェイスフル‥‥不誠実?
- メッテ
- たとえば‥‥
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
という長編小説のなかの、
「ハードボイルド・ワンダーランド」では「私」、
「世界の終り」では「僕」、
だけど、デンマーク語にはふたつの「I」はない。 - どうする?
- ──
- あー‥‥わからないです、さっぱり。
- メッテ
- 以前、アメリカの翻訳者で、
その問題に自由なやり方で取り組んだ人がいて、
彼は「時制」を変えました。 - 「ハードボイルド・ワンダーランド」は過去形、
「世界の終り」は現在形で訳した。
- ──
- うまく想像できませんが、
それは、かなり読んだ感じが変わりそうですね。
- メッテ
- はい、ふたつは、とてもちがう雰囲気になった。
- その意味での効果はあったけど、
でも実際、作品に対しては不誠実だと思います。
- ──
- たしかに。
- メッテ
- これは村上さんに限らずですが、
日本語って、過去形と現在形が混ざりますよね。
- ──
- 混ざりますね。ひとつの文章のなかでも。
- しかもそれが厳密な時系列の表現というよりも、
雰囲気とか気持ちの表れだったりします。
- メッテ
- 他の言葉では、あまり見られない特徴です。
- なので、日本語から別の言葉に翻訳するときは、
だいたい過去形を使うんです。
- ──
- ええ。
- メッテ
- わたしも『1Q84』で、
BOOK1、BOOK2を翻訳し終わって、
BOOK3に入ったとき、
「青豆」のチャプターが、いつのまにか
「現在形」になっていることに気付きました。 - わあ、最初の2冊もそうだったかのなあって、
心配になって見返したら、そうじゃなかった。
- ──
- おお、よかった(笑)。
- メッテ
- でも‥‥その『1Q84』を英語に訳した
アメリカの翻訳者は、
時制のことをあまり重視せず、
小説を終始一貫、過去形で訳したんです。
- ──
- 英語としては、
きっと、そのほうが「自然」なんでしょうが。
- メッテ
- そう‥‥でも、いちばん大事なことは、
最後の最後、
「天吾」のチャプターも現在形になる。 - それによって、2人は同じ世界に入っていく。
それって、とても大事なことでしょう。
- ──
- 物語にとって。そうですよね。
- ある言葉を別の言葉に置き換える作業は
機械的にはできないし、
1対1の対応関係があるわけじゃないと。
- メッテ
- あと、『1Q84』の「ふかえり」の言葉には、
漢字が使われていないでしょう。 - でも、デンマーク語には、漢字はないんです。
そこでもまた工夫が必要になります。
- ──
- そうか、漢字を使わないことの意味、
それによって伝わる何かを、
デンマーク語の場合にどう伝えるか。 - それって、どうしたんですか?
- メッテ
- 文頭でも大文字を使わず、
あとは句読点やクエスチョンマークも入れず、
ただ、小文字をつなげました。
- ──
- それで「ふかえり」の話し方を再現した。
- メッテ
- そう。
- ──
- そういうデンマーク語を、
ふつうのデンマークの人が読んだときって、
どういう気持ちになるんですか。
- メッテ
- わかるんだけど変。ちょっと変に聞こえる。
- ──
- お話を聞いていると、翻訳って、
言葉と言葉の間に、橋を架けているような。 - それも、きちんと人が通れる橋を。
- メッテ
- うん、そうね。
- ──
- 人が自由に行き来できる橋にするために、
メッテさんは、
意味でなく「雰囲気」に作用する部分にも、
気を配っているような‥‥。
- メッテ
- その人の‥‥音。
- ──
- 音?
- メッテ
- うん。あのね、その作家の文章の‥‥、
サウンド、うーん‥‥。
- ──
- そういうものがあるんですか。
- メッテ
- その作家の「音」‥‥としかいえない。
- わたしは、翻訳を通じて、
そういうものを探っていると思います。
(つづきます)
2019-10-18-FRI
-
20年にわたり、村上春樹さんの小説を
デンマーク語に訳してきた
メッテ・ホルムさんのドキュメンタリー。
映画のなかのメッテさんは、
村上さんの一語一句を、
どのデンマーク語に置き換えたらいいか、
世界中の村上作品の翻訳家と議論し、
よりよい訳を求めて来日までしてしまう。
翻訳というものは、そこまでの、
たいへん大きな責任を伴う営みなんだと
わかりました。
10月19日(土)より全国ロードショー。
上映館は、新宿武蔵野館、
ヒューマントラストシネマ有楽町、
YEBISU GARDEN CINEMA‥‥など。
くわしくは公式サイトでご確認を。