南伸坊さんの『私のイラストレーション史』の
刊行を記念して、シンボーさんとイトイが
「イラストレーション」をテーマに
公開対談をおこないました。
連載の「黄昏」では、他愛のない冗談で
笑いあってばかりのふたりですが、
今回は笑いを交えながらも考えさせられる、
ものづくりの話になりました。
昔の話がたくさん登場して、
チョットややこしい‥‥だけどおもしろい、
いくつもの発見のある話だと思います。
どうぞ、読んでみてください。
南伸坊(みなみしんぼう)
1947年東京生まれ。東京都立工芸高等学校デザイン科卒業、美学校・木村恒久教場、赤瀬川原平教場に学ぶ。イラストレーター・装丁デザイナー・エッセイスト。雑誌「ガロ」の編集長を経て、フリー。主な著書に『ぼくのコドモ時間』『笑う茶碗』(共にちくま文庫)、『装丁/南伸坊』(フレーベル館)、『ねこはい』(青林工藝舎)、『本人伝説』(文春文庫)、『おじいさんになったね』(海竜社)『くろちゃんとツマと私』(東京書籍)などがある。
- ●1947年
シンボーさん生まれる。 - ●1948年
イトイ生まれる。 - ●1964年
日本の「イラストレーション」はじまる。
東京イラストレーターズ・クラブの結成。
世間的に「イラストレーション」が認知されるはじまり。 - ●1965年
「話の特集」創刊。
アートディレクターは和田誠さん。
誌面に登場する人の人選にも大きく関わる。
高校生のシンボーさん、心を掴まれる。 - ●1968年
『ガロ』に、つげ義春さんの「ねじ式」掲載。
シンボーさん、突然変わった
つげさんの画風に衝撃を受ける。 - ●1968年
状況劇場「腰巻お仙」公演。
糸井重里、横尾忠則さんが手がけた
公演ポスターを見て、気分が悪くなる。 - ●1969~70年
シンボーさん、「美学校」へ。
木村恒久さん、赤瀬川原平さんのもとで学ぶ。 - ●1972年
シンボーさん、『ガロ』で働きはじめる。
のちに編集長になる。 - ●1976年
『ガロ』で糸井重里と湯村輝彦さんの
「ペンギンごはん」の連載がはじまる。 - ●1980年
シンボーさん、フリーになる。
横尾忠則さんの「画家宣言」。 - ~中略~
- ●2019年
『私のイラストレーション史』刊行。
- 糸井
- 1960年代半ばに誕生した「イラストレーション」が、
横尾忠則さんの活躍もあって70年代に広く浸透した。
だけど、それをもう一度脇に追いやったのは、
また横尾さんだと思うんです。
80年代はじめに「画家宣言」をしたじゃないですか。
あれは
「ぼくはもう、グラフィック・デザイナーとか
イラストレーターじゃないからね」
という表明というか。
*横尾忠則さんの「画家宣言」
‥‥「画家宣言」以前の横尾忠則さんは「グラフィック・デザイナー」として知られていた。1980年7月、ニューヨーク近代美術館でのピカソ展に衝撃を受けた横尾さんが、絵画制作の方向へ自身の道を見い出したことを新聞記者に語り、それが「宣言」として記事になった。それを「画家宣言」と呼んでいる。
- 南
- みんな、そういう意味だと思うよね。
- 糸井
- そう捉えたし、横尾さん自身も
「自分をこのまま循環させていたら
面白くないぞ」
と思ったわけだから。
みんなが「イラストレーション」という言葉を
当たり前にしたときに、
横尾さんが逆の意味でもう一回
「イラストレーション」について問いかけたんです。
- 南
- ボクはあの「画家宣言」については、
横尾さん本人に限らず、
イラストレーターたち自身の問題としても
意味があったと思うんです。
80年代のはじめって、イラストレーターが職業として
固まってきた頃なんですね。
もともとイラストレーターというのは、
それぞれが自分の表現したいものを
描いていたはずが、
だんだん「広告の中で役割を果たさなければ」とか
思い込むようになってきた。
クライアントのほうも
「こうしてくれ」「ああしてくれ」を、
どんどん具体的に言うようになって。
- 糸井
- 言えばやってくれると思うようになったんですね。
つまりイラストレーターの仕事が
「機能を雇っている」と考えられるようになり、
絵を描くことが「商品」として独立した。
- 南
- クライアントの企業の人は、当然、頭が資本主義だ。
「金出してる方が主導権握るべき」って
考えるようになってった。
そして描く側も、ある意味萎縮して、
自分からはみ出すことをしなくなっちゃった。
だけど1960~70年代は、
イラストレーターたちの「自分がこれを描きたい」とか
「こういうのが面白い」といった気持ちが、
すごくはみ出してた。
みんな
「自分たちには、依頼するほうの想像以上に
面白いことができる」
という気持ちもあったと思う。
- 糸井
- もちろん仕事というのは基本的に
「役に立つ」ところで頼んでて、
そこに対して「役立ち賃」をもらうわけです。
それは表紙だろうが挿絵だろうが、
広告であろうが看板であろうが同じで。
でも仕事には
「賃が発生しなくてもやりたいんだよ」
という部分も、実はあって。
- 南
- そう。
賃より前に、描きたいものがあるんだよ。
- 糸井
- そのとき『話の特集』や『ガロ』みたいな場所が、
そういう人たちの行き場として
「やりたいことをやってください。
ギャラはないですけどね」
ってことをやってたんですね。
- 南
- そういうことですね。
- 糸井
- だからその‥‥
「商品にならなくてもやりたいことがある」
って、なんだろうね。
- 南
- ああー。
- 糸井
- ぼくなんかは、ずっとそういう仕事のしかたと
関わりがあるから、
そこはいまも同じ感覚でいるわけです。
だけど、その感じがなくなってから
ライターやイラストレーターになった人は
「タダ(無料)の仕事はしちゃだめだ」とか、
互いに戒め合ったりしてるんです。
「プロなんだから、ぜったいにタダで
やっちゃだめです」とかって。
- 南
- うん、うん。言うねえ。
- 糸井
- そのロジックも成立するとは思うけど、
人が生きるっていうことは、タダなんで。
人が生きてて、こどもの頭をなでたり
「あーん」してごはんを与えたりすることに、
「これをやったから幾らもらえる」ってことは
ひとつもないわけで。
そして、そのあたりにつながる表現の幅は、
お金をもらえる表現よりも圧倒的に広いんだよね。
だけどいま、若い人たちがみんな
「技術が金になるかどうか」で
やることの範囲を絞っちゃってるから、
ちょっと「楽しい?」って聞きたくなる。
- 南
- 「描いてるときに自分の世界として楽しい」
っていうのは、
もちろんあると思うけどね。
でも、もっとできるはずのことに
自分から壁を作っちゃってるっていうか。
- 糸井
- そう。そういう感覚があるんです。
- 南
- 1950年代に、哲学者の鶴見俊輔さんが
「限界芸術論」という考え方を出していたんです。
芸術家が絵を描くとかの
一般的に芸術と考えられているものだけでなく、
普通の人がラクガキしたり、折り紙したり、
早口言葉、言ったり、鼻歌、歌ったりとかも、
「限界芸術」という芸術行為なんだって。
- 糸井
- 家ごはん、ですよね。
- 南
- そう! うまいこと言うなあ。さすがだね。
そうだ、食い物にするとわかりやすいよね。
大衆食堂にあたるような「大衆芸術」や、
料亭の料理にあたる「純粋芸術」も
あるんだけれども、家ごはんもある。
*「限界芸術論」についての、大づかみの補足
‥‥プロがプロに向けておこなう芸術が「純粋芸術」、プロが一般の人にむけておこなう芸術が「大衆芸術」、一般の人が一般の人にむけておこなう芸術が「限界芸術」。
- 糸井
- はい、はい。
- 南
- 鶴見さんは限界芸術を
「そこから力を吸い取ってくるようなことを
するのが、大衆芸術や純粋芸術の力になる」
って言ってる。
- 糸井
- 「そこを大事にしてないと、枯れちゃうよ」
ってことだよね。
- 南
- そう、そう。
それはものすごく大事なことだと
思うんですよね。
つまりお金が発生してくる前のところだ。
(つづきます)
2019-11-19-TUE
-
私のイラストレーション史
1960──1980
南伸坊 著
シンボーさんが、自身の小六から
「ガロ」の編集長時代までの
経験を振り返りながら、
1960年~1980年の期間における
日本のイラストレーション史を
綴ったエッセイ。
さまざまな作品などをシンボーさんが
自身のタッチで模写した、
美しいカラーイラストも魅力です。