『MOTHER』というゲームには音楽が欠かせません。
1989年に発売されたシリーズ1作目の『MOTHER』、
そして1994年に発売された『MOTHER2』。
ゲーム史に残るであろう2作の音楽を手掛けた
ミュージシャンの鈴木慶一さんに、
「『MOTHER』のおんがく」についてうかがいました。
6月22日に配信される記念すべきLIVEが
ますますたのしみになるインタビューです!

>鈴木慶一さん プロフィール

鈴木慶一(すずき・けいいち)

1951年、東京生まれ。
1970年頃より音楽活動を開始。
1972年「はちみつぱい」結成。
1976年「ムーンライダーズ」結成。
バンド活動の傍ら、CM音楽の制作や楽曲提供、
幅広い音楽プロデュースを手掛ける。
『MOTHER』と『MOTHER2』のゲーム音楽も担当。
映画音楽では北野武監督の『座頭市』、
『アウトレイジビヨンド~最終章~』で
日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。

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第1回 奇跡的なタイミングだった

──
今年で『MOTHER2』が30周年です。
1作目の『MOTHER』からは35年が経ちますが、
いまもファンの方の心のなかに
『MOTHER』や『MOTHER』の音楽は
特別な存在として残り続けています。
たくさんの音楽をつくってきた慶一さんは、
『MOTHER』の音楽がこんなにも長く
愛されているのはなぜだと思いますか。
鈴木
音楽については、つくったのが
奇跡的なタイミングだったというのは間違いないね。
私はゲーム音楽をつくるのがはじめてだったし、
いっしょにつくった田中宏和さんは、
当時任天堂でプログラマーとして
怖いもの知らずという感じだった。
糸井さんも、ゲームつくるのは初めてだったでしょ。
だから、「はじめて」の人と
「プロフェッショナル」な人たちとの融合だった。
その融合がうまくいった、ということでしょうね。
──
ああ、なるほど。
鈴木
たとえば、エリアのマップを見るだけでも
私はおもしろかったし、
糸井さんから出てくるセリフやことば、
景色もおもしろかった。
それまでのゲームって、RPGだったら、
敵が出てきてもドラゴンとか、
中世的なイメージだったわけだよね。
ところが『MOTHER』は、
アーリーアメリカンな風景を持ってきた。
そうすると音楽も、
クラシックとは縁の遠い曲調でいい。
ご存知のように、それまでのゲームは、
ファミコンの機能の問題で、
音を同時に3音しか出せなかったから、
アルペジオで「タラリロリロリロ♪」
というものがほとんどだった。
そうすると、どうしても
クラシックっぽくなってしまう。
で、そうじゃないものをつくろうというときに、
田中宏和さんに能力を発揮していただいた。
そういうタイミングも、よかったんでしょうね。
──
いま思えば、いろんな要素が偶然に重なって。
鈴木
うん。当時は、糸井さんも私も、
いろんなゲームをやっていた。
だから、自分たちがつくっているゲームが
それまでのものよりもおもしろい、
ということもわかってくる。
だからつくっている最中、すでに、
「これはおもしろいね」
っていう自負はありましたよ。
だからこそ音楽も、クラシックでなく、
ポップミュージックの音楽づくりになった。
──
あの、もしも、糸井が
最初に書いたシナリオの世界観が、
現代のアメリカじゃなくて
『ドラゴンクエスト』みたいな
中世の世界観だったら、慶一さんも田中さんも
そこに乗っかったんでしょうか?
鈴木
どうかな(笑)。
たぶん‥‥乗っかっただろうね。
──
ああ、そうですか。
鈴木
でも、仮に中世の風景でつくったとしても、
糸井さんはそのころすでにあったRPGとは
違うものをつくるだろうということは、
まあ、想像がつくというか。
どういう理念でつくったとしても、
糸井さんならふつうのことはやらないでしょうね。
そもそも、クラシック的なものを
得意としているわけじゃない私に
わざわざ頼んでるんだから、
やっぱり、そういうものを
やりたかったわけじゃないんだろうし。
──
かといって、アメリカンな音楽、
ポップミュージックだけしかできない人だったら、
『MOTHER』の音楽のこの豊かさは
出ないような気がします。
慶一さんの音楽の幅があるからこそ、というか。
鈴木
そう、だから、微妙に入り混じってるんだよね。
アメリカンな音楽とはいっても
オールディーズ感のないものだし、
イギリスの音も鳴っている。
サウンドトラックはロンドンで録音しているし。
だから、アメリカ的な音楽を
つくっているふりをしながら、
イギリス的な音楽を作っていたということか(笑)。
──
共作者だった田中宏和さんは、
当時、レゲエにハマっていたそうですし。
鈴木
そうだね、レゲエとかダブにハマってた。
だから、田中さんと私は、
音楽の好みですごくフィットしたんだ。
イギリスの音楽が好きで、
あとアメリカの音楽のことも、
深いところまでよく知っている。
そんな音楽マニアのふたりが組んで、
私の狭い家でコチャコチャコチャコチャ
つくっていったわけだから、
じつはかなりマニアックなものに
なりがちな状況だったとは思う。
でも、田中さんと協議した結果、
マニアックな曲は戦闘シーンとかにつかって、
メインで流れる曲は
ポップミュージックにすることになった。
だから、曲ができると、
「この曲、どこに合う?」とか、
「このシーン向けにつくったけど、
違うところのほうがいいかな」とか、
話しながらつくってましたね。
基本、私は一生懸命、曲をつくる。
それを田中さんが打ち込んで音源にしながら、
プロデュースしてたわけだ。
まあ、いいコンビだったと思いますよ。
──
それは、どういうプロセスだったんでしょう。
その場面のグラフィックが先にあったのか、
設定や仕様だけしかないのか。
鈴木
砂漠とか地底とかは、
そういうシーンがあるとわかってた。
で、つくっている途中で画ができてきて、
サンプルの基板が届くわけ。
で、そのサンプルをさして、
その場面を見ながら曲をつくる。
あのときはギターをつかうことが多かったかな。
「こういうのつくってます」って弾いてみせて、
田中さんも「この戦闘シーンはこういう曲で」って、
じぶんがつくっているのを聞かせてくれて、
「あ、こんなことできるんだ」とか。
だから、なんか「バンドつくろうか」
というふうにして集まった、
初期の段階みたいな感じだったよ。
「どんな音楽好きなの?」とかさ。
──
じゃあ、新人のバンドが
デビューアルバムをつくるみたいに、
初期衝動を原動力にして。
鈴木
そうだね。
私はバンドやってから長かったけど、
ゲーム音楽というのははじめてだったから。
田中さんも任天堂でのゲーム製作は長いけど、
こんなふうにつくったことはなかっただろうし。
──
つまり、音楽歴としてはベテランのふたりが、
はじめてバンドをやっているような。
鈴木
そういう感じだったと思いますね。

(つづきます)

2024-05-14-TUE

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