『MOTHER』というゲームには音楽が欠かせません。
1989年に発売されたシリーズ1作目の『MOTHER』、
そして1994年に発売された『MOTHER2』。
ゲーム史に残るであろう2作の音楽を手掛けた
ミュージシャンの鈴木慶一さんに、
「『MOTHER』のおんがく」についてうかがいました。
6月22日に配信される記念すべきLIVEが
ますますたのしみになるインタビューです!

>鈴木慶一さん プロフィール

鈴木慶一(すずき・けいいち)

1951年、東京生まれ。
1970年頃より音楽活動を開始。
1972年「はちみつぱい」結成。
1976年「ムーンライダーズ」結成。
バンド活動の傍ら、CM音楽の制作や楽曲提供、
幅広い音楽プロデュースを手掛ける。
『MOTHER』と『MOTHER2』のゲーム音楽も担当。
映画音楽では北野武監督の『座頭市』、
『アウトレイジビヨンド~最終章~』で
日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。

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第2回 制約があったほうが張り切れる

──
1作目の『MOTHER』のときの音楽づくりは、
やはり、わからないことだらけだったんですね。
鈴木
そうですね。
とくに私はゲームの音楽をつくったことがないから、
自分がつくっているものが
最終的にどんな音になるかがわからないし、
どうすれば思う音になるのかもわからない。
──
なるほど。
鈴木
だから、たとえば、田中さんに
「ここにはエコーが欲しいんだよね」
とか無理を言ったりするんだけど、
彼は技術を駆使して、ファミコンのソフトなのに
ちゃんとエコーをつけるんだ。
まあ、エコーのような効果をね。
くわしくいうと、トンってひとつ鳴らしたあとに、
ちっちゃい音をもう1個ずらして鳴らす。
そうすると、3音+ノイズしか出せない
ファミコンでもエコーになるわけ。
そんなのゲームで聞いたことないから、
「それ、どうやってるの?」って驚いて。
──
ゲームファンも同じように驚きました。
ギターのチョーキング
(押弦した指で弦を押し上げて、
音の高さを変える演奏技法)とかもありましたし。
鈴木
あれも、データ上ですこしずつ音程を上げていく、
ということを細かくやってるんだよね。
で、そういうことができてしまうと、
今度は「コードを弾く感じ」もほしくなってくる。
そうしたら田中さんは、和音を鳴らすときに、
少しずつずらしてそれを表現したんだよね。
同時には3音しか鳴らせないんだけど、
ずれていればもっと鳴らせるからね。
だから、データ上では、細かく「ずれ」をつくる。
それをぜんぶ自然に聞こえるようにしているという。
──
ということは、じつは、
あるべき拍に対してジャストでは鳴ってない。
鈴木
鳴ってないけど、ジャストに聞こえる。
同時には絶対に鳴らないんだけど、
大きくはずさないからそう聞こえる。
すごい工夫だよね。
──
結果的に、それがバンドっぽいというか、
人のサウンドっぽくなっていることも。
鈴木
そうだね。
なんだろう、ノリが人間っぽい、というかね。
──
しかも、ソウルのグルーヴとか、
ジャズのスウィングというよりは、
やっぱりバンドのノリに近いような気がします。
鈴木
うん。それは、
ドラムとベースを前提にしているからだろうね。
『MOTHER』の音楽をつくるときに、
まず私はドラムとベースが
どういう音なのかを確認したから。
つまり、ドラムとベースがある音楽を
つくっていこう、というふうにはじめた。
もちろん、ない曲も結果的にできたけれど。
──
なるほど、なるほど。
お話をうかがっていると、
ファミコンというとても制約の多い環境を
慶一さんはむしろおもしろがってるというか。
鈴木
そういうところはすごくあったよ。
そもそも、音楽をつくるための容量が
限られているから、そこをどうするかとかね。
──
容量というのは、
ゲームソフトの、ROMカートリッジの。
鈴木
そう。グラフィックで
すでにたくさん容量を使っているからね。
いま思い出したけど、砂漠のシーンで
「緑があるところから砂漠に入った瞬間に
音楽を変えた方が絶対にいい」と思ってね、
それを提案するんだけども、
「ちょっと容量がないんですよ」って。
それで、これは何度か話してることだけど、
私はグラフィックの方に、
お願いのお手紙を書いたの。
──
それは、ほんとに、紙のお手紙を(笑)。
鈴木
そうです。
「そんなにたくさんの容量はいりません。
すこしだけくれればリピートしてつくりますから、
お願いいたします。」って。
そしたら、容量をすこし貰えて、
「これで音楽を変えられるぞ!」っていうのが
ムチャクチャうれしいわけだ。
そういうのって、
ほんとうにわずかなことだけれども、
「ここでちょっと変わったね」とか、
そういったことがすごくうれしい。
『MOTHER2』になるとカートリッジの容量も増えて、
そういうやりくりに関しては
ラクになったんだけど、私も田中さんも、
制約があったほうが張り切れるんですよ。

──
ああ、なるほど。
鈴木
制約があるなかで
どう工夫していくかということが、
できあがったときに大きなうれしさに変わるからね。
だから、そういう意味では、
1作目の『MOTHER』のことはとくによく覚えてる。
『MOTHER2』は製作の規模も大きくなったけど、
『MOTHER』は私と田中さんの
ふたりだけでつくったようなものだから。
──
実際、慶一さんのご自宅に機材を持ち込んで、
ふたりでつくっていたそうですね。
鈴木
うん。家でつくって、できあがったら、
夜、そのデータを持って
糸井さんの事務所へ行って聴いてもらう。
毎晩のようにつくっては持っていって‥‥。
田中さんの自宅は京都だったけど、
あのころ、週に3日は東京にいたんじゃないかな?
──
以前の取材で、
田中さんが最初に泊まったホテルが
ラブホテルだったとうかがいました。
鈴木
そうそう(笑)。
最初、田中さんが私の家に来て、
どんな人が来るかわからなかったんだけど、
長髪だったからそれだけで
けっこう安心したんだよ。
で、コンピューターを置いて、世間話をして、
「ちょっとやってみよう」って
さっそく音楽づくりをはじめて。
一段落したときに
「どこのホテルに泊まってるの?」って聞いたら、
「シャトー◯◯」って言うんだよ。
で、「えっ? それ、ラブホテルだよ?」って。
──
気づかずに泊まってた(笑)。
鈴木
そう。会社の人は、
私の家の近くにあるホテル、
っていうので予約したらしいんだけど。
まだネットも携帯電話もない時代だから、
わからなかったんだろうね。
しかたなく別のホテルをとったんだけど、
田中さんの荷物はまだラブホテルにあるわけ。
で、一緒にタクシーに乗って
荷物を取りに行ったんだんだけど‥‥
ふたりで入るのもなんだな、と(笑)。
けっきょく、田中さんがひとりで荷物を取って、
そのあと糸井さんの事務所に行って、
別のホテルにチェックインし直したんだよ。
──
(笑)

(つづきます)

2024-05-16-THU

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