1989年、ファミコン用ソフトとして
記念すべき一作目の『MOTHER』が
発売されてから33年が過ぎました。
『MOTHER2』や『MOTHER3』に比べると、
開発時の様子を伝えるものが
とてもすくない『MOTHER』ですが、
このたび、『MOTHER』のロゴや
あの真っ赤なパッケージのデザインを手掛けた
髙田正治さんに取材することができました。
あのロゴがどんなふうにできたのか、
地球マークの元になっているもの、
そしてあの頃のさまざまなエピソード。
たいへん貴重な話を聞くことができました。
後半には糸井重里も乱入します。

>髙田正治さんプロフィール

髙田正治(タカタ・マサハル)

クリエイティブディレクター、
アートディレクター、タイポグラファー。
1955年、広島県生まれ。
1980年、アートディレクター浅葉克己氏に師事。
「不思議、大好き。」「おいしい生活。」といった
西武百貨店の年間キャンペーンの
グラフィックデザインを担当。
1990年、アートディレクターとして独立。
以後、企業の広告を中心に写真集のプロデュースなど、
いろいろなアートワークに携わる。
その他、東日本大震災で被災した
波座物産の復興プロジェクトに参加。
現在、企業のブランドデザインを中心に活動。
日本文理大学情報メディア学科非常勤講師。

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第1回 糸井重里との出会い

──
『MOTHER』のタイトルロゴや
あの赤いパッケージをデザインした
髙田正治さんにお話をうかがいます。
本日はよろしくお願いします!
髙田
はい、よろしくお願いします。
もうこんなおじいちゃんなんだけどねぇ(笑)。
──
いえいえいえ(笑)。
まず、『MOTHER』のロゴを髙田さんが
デザインすることになった経緯から
うかがってよろしいでしょうか。
髙田
わかりました。
ええと、そもそもぼくは、デザイナーじゃなくて
広島で自動車の整備士をやっていました。
‥‥こんな昔の話からはじめて大丈夫?
──
どうぞ、どうぞ。

髙田
自分にとってデザインの入り口はというと、
レコードのジャケットだったんです。
中学生とか高校生のころ、
ブリティッシュロックや
ハードロックがすごく好きで。
当時30cmのLPレコードを買うために
いろいろなアルバイトをしたお金で、
デザインがカッコいいレコードを、
いわゆる「ジャケ買い」につぎこんで集めてました。
でも、地元広島の工業高校の
自動車整備科に入っていて美術も音楽の授業もなく、
デザインとは無縁だったんですよね。
工業高校を出た後、地元の日産プリンスという
自動車のディーラーに入社したんですが、
ちょうどそのとき日産自動車の広告で
「ケンとメリーのスカイライン」っていう
キャッチコピーとビジュアルが
印象的な広告が出ていたんですよ。
当時の車の広告はカッコよさを追求した
無骨なイメージがあったので、
いままでとはぜんぜん違う、
ものすごく優しいおしゃれな広告で、
ぼくは衝撃を受けたんです。
その広告は、のちにぼくの師匠になる
浅葉克己氏が当時在籍をしていた
ライトパブリシティという広告制作会社が
つくったものでした。
──
浅葉克己さんは、1980年代に
糸井重里といっしょにたくさんの
すばらしい広告をつくった方ですね。
髙田
はい。
で、ぼくは、車に乗るのは好きだけど、
機械をいじるのはそんなには好きじゃない
っていうことに気づいて。
それで車のディーラーを辞めて、
広島のデザイン学校に入ったんです。
そこで出会った同級生で大親友が
先に東京に出ていて、
浅葉克己デザイン室に入るんですね。
ぼくはというと、デザイン学校を卒業して
広島のデザイン会社に務めていました。
するとある日、東京に出た彼から、
「西武百貨店の広告をやっているチームの
デザイナーが辞めることになったので来ないか」
と誘われたんです。それが1980年のことです。
──
それで、広島から東京に。
髙田
ええ。ぼくが西武チームに入ったときは、
ちょうど糸井さんが
「じぶん、新発見。」とか、
「不思議、大好き。」という
西武のキャンペーン広告をやっていました。
で、そのあとにドーンといったのが、
「おいしい生活。」ですよね。
──
おおー。

髙田
糸井さんが書かれたコピーがバンッとあって、
ぼくらはその‥‥正直、
はじめはよくわからなかった(笑)。
「なんだろう? これ」っていう状態で。
ただ、そのあとで、心にズシッと来た感じです。
そのころ糸井さんは、まだ、
セントラルアパート‥‥ってわかりますか?
──
当時、たくさんのクリエイターや出版社が
入居していたことで有名な原宿のアパートですね。
髙田
そうです、そうです。そこにいらっしゃって。
その1階にあった喫茶店の‥‥
なんていう名前だったかな?
──
「レオン」ですか。
髙田
レオン、レオン。レオンに行くと、
当時セントラルアパートに事務所があった
写真家の鋤田正義さんとか、
本当に名だたる人たちが‥‥
ピコピコやっていたんですよ、
インベーダーゲームを。
──
インベーダーゲーム(笑)!
髙田
ぼく自身は、機械が苦手だったので、
ゲームもしなかったんですけど、
レオンで誰かがインベーダーゲームをやっているのを
横から覗く、という習慣がついていました。
で、セントラルアパートの糸井事務所に行くと、
ほんとにもう、いろんな職業の方々が
いらっしゃったんです。
なんかね、変な空間でしたね。
そんなところに出入りしながら
仕事をしていたんですが、
やっぱり、おもしろかったんですよね。
──
仕事だか遊びだかわからないようなたのしさが。
髙田
はい。でも、たのしい一方、たいへんで(笑)。
西武チームって、毎週新聞広告をつくったり、
キャンペーンごとにポスターをつくったり、
とにかく毎週なにかしらの撮影があったんですよ。
尋常ではないくらい忙しかったですね。
──
はーー。
髙田
当時、浅葉事務所は
「24時間不夜城」なんて言われていて、
本当にずーっと仕事をしていたんです。
いまそんなことをしてるとたいへんですよね(笑)。
で、糸井さんのところから電話がかかってきて、
「原稿が上がった」と言われると、
青山の浅葉事務所から自転車で
セントラルアパートまで取りに行くんです。
行くと誰かしらいるから、原稿はもらうんですけど、
なかなかこう‥‥「帰ります」って言い出せなくて。
──
(笑)

髙田
結局ダラダラいてしまって、
その間ずっと印刷所の人が待ってるという(笑)。
そういう日々がずっと続いていました。
だから、糸井さんたちとは、
仕事のつながりというよりも、
遊び仲間のような感じでした。
当時の浅葉事務所も変わった人たちの集まりで、
たいへんだったけどおもしろかったんです。
だから浅葉事務所と糸井事務所は似ていて、
ぼくは糸井さんのことも
勝手に師匠だと思っていました。
毎週、なんかしら西武の仕事があって、
それは浅葉さんと糸井さんに
チェックしてもらうので、
糸井さんとはものすごく密なやり取りを
していた印象があります。
そういうなかで‥‥いつですかね、
『MOTHER』が発売されたのは?
──
1989年です。33年前。

(いいところで、明日につづきます)

2022-07-27-WED

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  • 聞き手:永田泰大
    編集協力:小原久(東京テキスト)

     

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