2024年2月の終わり、
ほぼ日あっちこっち隊ははじめて
能登へと向かいました。
それから1ヶ月に1回ほど、
珠洲市、輪島市、能登町を中心に、
足を運んでいます。

新年早々、
大きな地震のあった能登で、
小さくてもなにか、
ほぼ日にできることはないだろうか。

風土を眺め、ご縁のできた方から
お話をじっくり聞かせていただくなかで、
見て、感じて、魅了されてきたこと。

乗組員のやすな が、
はじめの3ヶ月のできごとを
レポートします。

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能登通いのはじまり 前編

2024年1月1日の震災以降、
きっと多くのひとが、
なにもできないことを、
ずっと気にしていたように思います。

ほぼ日の社内では、
東日本大震災のあと、
活動をしてきたことをふまえて、
こんな会話が交わされるように
なっていました。

すぐに、大きなことはできないかもしれない。
でも、時期を待って、動き始めよう。
きっと長期戦になるだろうから、
ご縁を大切にして、
続けられることを考えていこう。

とても個人的なことですが、
わたし
社会人になって初めて登った山は、
石川県の白山でした。
それをきっかけに、山登りが好きになり、
好きが募って、昨年まで15年ほど、
アウトドア雑誌の編集者として働いてきました。
仕事も趣味も山にまつわるものだったので、
大人になってからの友達の多くは、
山のおかげででき、
山を好きになった人生を生きている
実感が毎日あります。
そんなきっかけをくれた白山に感謝してきました。

いつか恩返しができたら。
長らくそんなことをぼんやり思っていたら、
昨夏、ひょんな機会がおとずれました。
その前年に白山が国立公園に指定されて
60周年を迎えたことをきっかけに、
地域が中心となり、
発信を強化するプロジェクトが
始まることになったのです。

いっしょに考えるメンバーとして、
声をかけていただいたわたしは、
今年、石川へ通うはずでした。

そのプロジェクトは、
1月1日の地震のあと、
無期限で延長になりました。


2月に入り、被害の大きかった、
輪島市、珠洲市、七尾市、穴水町でも
一般ボランティアが活動できるようになりました。
しかし、宿泊拠点の確保がむずかしく、
自治体ごとの受け入れは1日数十人程度。
なかなか進まない被災家屋などの片付けなど、
人手不足の深刻さが報じられるようになりました。

そろそろ「猫の手」でも
役にたてることがあるのではないか。
そう思い、わたしは、
発災直後から現地入りしていた
探検家の友人に相談をし、
乗組員のを誘って、
活動に同行させてもらうことにしました。

能登へ出発する前日。
レンタカーしたバンに
神田のほぼ日ビルに備蓄していた
水や食料なども積み込ませてもらいました。

現地ではなにが足りていないのか、
今の段階で必要とされているものが
何なのか、自信をもてなかったけれど、
そういうことこそ、見てこようと思っていました。

当日は早朝、
新宿でピックアップしてもらい、
一路、能登半島へ。
金沢以北を訪れるのは、
今回がほぼ初めてだったので、
能登半島はけっこう大きい、ということを
身にしみて感じました。
面積は東京都と同じぐらいあるそうです。

日本海沿いを走りながら、
右窓からきれいな富山湾と
晴れ渡った空をながめていましたが、
七尾市に差しかかると、
少しずつ空気が、変わってきました。
道路の大きな亀裂。
ブルーシートをかぶった屋根。
ぺしゃんこに崩れた家屋の数々。

さらに北上して、
中長期で車中泊ができる宿
「田舎バックパッカーハウス」を営む
中川生馬さんに会いに、
穴水へと向かいました。
中川さんは東京での会社生活を経て、
10年ほど前に穴水に移り住んだ、
移住者のひとりです。

お会いしてお話をうかがっていると、
ご自身の施設も倒壊しているというのに、
能登に根を張る覚悟をもち、
次またおなじような震災がくることへの
備えにまで想像をめぐらされていることが
言葉の端々から伝わってきます。

支援活動は、200人程度の避難者がいる
大きめの避難所がどうしても優先されてしまうけれど、
養護施設など、小規模の避難所を
これからどうしていくかという課題があること。

仕事が生きがい、という人が多い地域で、
復旧の目処が立たないなか、
支援される側として待ち続ける複雑な感情。

普段から能登のおいしい魚を食べている地域の方が、
レトルトがメインの食事に疲れ始めていること。

旬の海の幸を食べられないことに
さみしさを感じていること。

そういった被災者の方の生の声から、
すっかり話題は変わって
能登のなまこがいかにおいしいか、
なんてことまで、
中川さんからうかがっていたら、
いつの間にか日が暮れ、
あたりは真っ暗になってしまいました。

わたしたちは突然の訪問を詫び、
引き続き連絡を取り合わせていただくお願いをして、
おいとますることに。


予約をしていた
志賀町のビジネスホテルへ向かう途中、
お腹をすかせて夕食のために
コンビニに寄ろうとしていたところ、
うれしい偶然がありました。

道中の飲食店をGoogle mapで探し、
気になってピンを立てていた
「能登前寿司 千代ずし」さん。
さすがに営業再開はまだだろうな、
と思いながらのぞいてみると、
明かりが灯り、
カウンター席には、頬を緩ませ
杯を重ねる常連さんたちの姿。

千代ずしさんは、この日、
実に54日ぶりに営業を
再スタートされていました。

それまで断水中は、
湧き水を運んでお寿司を握り、
テイクアウトで販売していたのだそうです。

「我々も被災者だけれど、
もっと大変な方がいらっしゃるから。
こんな非日常を、はやく日常に戻したいし、
そのために、地元のひとたちに
寿司を食べてもらいたくて」
大将の目から、大粒の涙がぽろり。

大将と支援メンバーで記念撮影 大将と支援メンバーで記念撮影

ちょうど、満月の前夜。
わたしたちの見送りに、
お店の外へ出てくださった奥さまが、
大きな月を宿す夜空を見上げ、
はっとしたそぶりで、
大将に声をかけられていました。


翌朝は、
日が昇るころに宿を出て、
珠洲市健民体育館へ。

金沢から伸び、
能登半島北部の真ん中を走る、
自動車専用道路の「のと里山海道」は、
土砂崩れなどで大きく崩落。
工事が進む一方で、手つかずな箇所ものこり、
地震の大きさを物語っていました。

終点ののと里山ICを下り、珠洲道路を進み、
海岸に近づいていくと、
家屋のほとんどが倒壊し、
道に面したそれぞれの玄関に
「危険」「要注意」「調査済」の
赤・黄・緑の紙がずらり。
昨日まで自分たちが暮らしていた住まいが、
「危険」と判定されることが
いかに苦しいことか。

珠洲市健民体育館には、
兵庫県や千葉県、浜松市など、
さまざまな区分の行政職員や
自衛官の方が入られていて、
各方面から集まる支援物資を
必要な場所へ届くように
整理してくださっていました。

体育館のなかをのぞくと、
飲料や食料などとおなじように、
女性用の肌着なども並びますが、
それらをさばいているのは、
見渡す限り男性のスタッフさん。
拠点を絞って物資を集め
余すことなく配布することが、
いまは最善の選択。
みんな懸命にがんばっていて、
きっとみんな、
声に出せない気持ちを抱え、
悲しんでいる。

駐車場には、水を確保するために
タンクを抱えた高齢者が数名、
並んでいました。


帰路、見附島を眺めに、海岸へ。
雲のあいだから
透き通ったブルーがのぞき、
しずかな海に空の色が
ぼんやり投影されていました。

見附島は、海岸から200mほど離れ、
白い珪藻土岩からなる小さな島。
てっぺんには古樹が立ち並んでいます。
今回の震災と津波では、
海岸からは見えない南東側が
半分ほど崩れてしまったそう。
1993年の能登沖地震でも
被害があったそうで、
宗玄のワンカップに描かれている
軍艦のような姿とは
ずいぶんと違っています。

今回、わたしたちが同行させてもらった、
探検家の友人が、ぽつり。

「旅に出たとき、
ふみしめるその土地のことを、
きっとみんな、
自分の遊び場だって思ってる。

でも、震災があった途端、急に離れて、
その場所を暮らす被災者に
押し付けるのって、なんかおかしい。

能登を旅してきたひとたち、
いつか旅をしたいと
思っていたひとたちそれぞれに、
わたしの能登、おれの能登が
あったはずだよね。

それなのに、地震のあとは、
『被災者の能登』にしてしまっている。
そのせいで、被災者だけじゃなく、
みんなちょっとずつ
さみしい思いをしている気がする」

復旧も道半ばのこの土地に、
軽率に足を運ぶのはよくないけれど、
よくわからないまま自粛する必要も
ないのではないか。
この地に暮らす人の声を
まっすぐに聞く姿勢は忘れなければ、
自分のなかにある感謝や、
これからも関わっていきたい気持ちを
はぐらかさなくてもいいのではないだろうか。

帰路のバンで、
振動でいよいよお尻が割れそう、
なんて思いながら、
そんなことをぐるぐると考えました。

(つづく)

2024-08-29-THU

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