2024年2月の終わり、
ほぼ日あっちこっち隊ははじめて
能登へと向かいました。
それから1ヶ月に1回ほど、
珠洲市、輪島市、能登町を中心に、
足を運んでいます。
新年早々、
大きな地震のあった能登で、
小さくてもなにか、
ほぼ日にできることはないだろうか。
風土を眺め、ご縁のできた方から
お話をじっくり聞かせていただくなかで、
見て、感じて、魅了されてきたこと。
乗組員のやすな が、
はじめの3ヶ月のできごとを
レポートします。
2024年3月、金沢でレンタカーして、
輪島へと車を走らせました。
向かった先は、
輪島の西海岸沿い、門前町に
ぶどう畑と醸造所を構える、
ハイディワイナリーさん。
ちょうどこのタイミングで、
ぶどう畑の剪定や枝払いのボランティアを
SNSで募集されていたのです。
専門技術を要する作業はできないけれど、
蔓(つる)取りならできる、と
ワイン好きのさなみとわたしは、
迷うことなく応募しました。
しかし、当日はあいにくの大雨。
震災の影響で地盤がゆるんでいることも
相まって、作業中止のご連絡があり、
それならば、と
輪島の市街地を訪れることに。
報道で見ていた朝市は、そのとおり、
200棟以上の焼けた跡が
そのままのこっていたけれど、
数分歩いた先の家屋からは、
傾いた壁の奥から、
ラジオや生活の音が聞こえてきたり、
営業している飲食店があったり。
ひとくくりでは表現しきれない、
地域のひとたちの生き抜く力が
その場にはありました。
この滞在中に、もともとわたしが
白山国立公園のプロジェクトをきっかけに出会い、
当時、県の復興生活再建支援チームに
従事されている嘉門佳顕さんから、
お話を伺うことができました。
「各避難所を回って、
それぞれ雰囲気はずいぶんちがうように感じました。
食料や水などの物資は行き届きはじめ、
お風呂にもいろんな形で入れるようになり、
避難所の課題を解決するための機能が
一つひとつ整いつつあります。
でも、必要なものが揃っていれば
それだけでいいかというとそうではなくて、
もともと畑で採れた季節の野菜や、
旬の魚介をご近所さんと分け合ったりなど、
誰かの役にも立ちながら、
ご自身も動き回ってらっしゃった
ご高齢の方たちは、
そこから動けず、与えられるだけの
避難所に来ると、
急に元気がなくなってしまう。
いっぽうで、多少不足があっても、
とりしきる方がいらっしゃって、
一人ひとりに避難所内での役割があって、
子どもたちが走り回っているような
避難所は、なんだか明るいんです」
未来に向けて、
こんな思いも聞かせてくださいました。
「もともと過疎、高齢化が
進んでいる地域で、
この先、震災前の状態に戻ることは、
そもそも起こり得ないこと。
どんな未来を望んでいるのか。
それは市町どころか、
集落によっても違うはずなんです。
能登はひとつ、
なんていわれますが、
ほんとうは、『能登はひとつひとつ』。
この地域で育つ子どもたちには、
こんなにむずかしいけど、挑戦しがいのある
世界の誰も答えを知らない問いが、
能登にはあるんだよ、
って前向きに伝えていきたいです」
報道では、
能登の震災を、
台湾や東日本との比較で
語られることが増えてきています。
でも、その2地域とは、
もともと置かれていた環境も、
暮らす人の思いもまったく違います。
十把一絡げに判断することはできないのだと、
とてもよくわかりました。
4月には、ほぼ日乗組員数名と、
フォトグラファーの仁科勝介さんで
能登島、羽咋、珠洲を訪れました。
そのもようは、
乗組員の永田()が書いた
こちらの記事をご覧ください。
この訪問をアテンドしてくださったのは、
前回3月に、石川県庁の嘉門さんから、
ご紹介いただいた木村元洋さん。
木村さんは県庁に20年ほど勤めたのち、
能登の活性化に震災以前から
奔走されてきた方で、
今年に入ってからは珠洲、輪島を中心に、
地域のひとたちの活動を支えることに、
心血を注いでいらっしゃいます。
このとき参加したメンバーが
出発前から考えていたことは
震災があってもなくても変わらない
能登のいいところを、
しっかり感じてこよう、ということ。
そして、その思いは、すんなりと叶いました。
旅の終わり、
ここが被災地だから、ではなく、
ほんとうに来たいから、また来よう、
と皆が思っていたはずです。
能登の人たちの素朴な人柄、
暮らしぶり、里山里海の風景。
古くは元禄時代のころから、
「能登はやさしや土までも」
ということわざがのこっています。
加賀藩時代に出された別の文書には、
能登は「その昔から
やさしい人たちが住んでいる国」
と紹介されているそうです。
木村さんがつないでくださったみなさんから
いろんなお話を聞かせていただいたなかで、
古民家レストラン「典座」の坂本信子さんの
言葉が忘れられません。
「能登のひとって我慢強いんです。
わたしはもともと、
能登の生まれじゃないからか、
わーーっと声を上げたくなることも
たくさんあります(笑)。
でも、みなさん、ぐっと堪えて、
自分にできることを淡々としている。
そんな風に我慢を続けて、
避難所の床で眠っていると、
わたしってそれぐらいの価値なのではないか、
なんて思ってしまうこともありました」
暮らす場所にたまたま災害があったからといって、
そんな思いを誰ひとりしていいはずがありません。
信子さんは、朝もまだ暗いうちに起き、
復興支援で珠洲に滞在している事業者さんたちには
朝・昼・夕食を、
避難所での生活が続く方々のためには
お弁当をつくり、
ご自身のレストランの営業も
続けてらっしゃいます。
9月6日には、
仲間たちといっしょに、
仮設店舗をオープンする予定で、
その準備も進んでいます。
人材不足の報道は各方面でされていますが、
そのしわ寄せが、
責任感ある個人に降り注いでいることを
ずっしりと感じました。
ささやかなことでも
なにかお役に立てることがないかと
通い始めた能登ですが、
この地域を選んで
暮らしているひとたちの毎日を生きる姿勢、
苦難にむきあう矜持には、
たくさんの気づきをもらいます。
能登には、都心で暮らしていると、
縁遠くなってしまいがちな、
豊かな時が流れています。
そういったことをこれから広くお伝えしたり、
読者のみなさんといっしょにあじわい、
未来の姿を思い描いていけたら。
ほぼ日は、今後も能登へ通いながら、
自分たちにできることをすこしずつ
やっていけたらと思っています。
(おわります)
2024-08-30-FRI
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