スポーツ総合雑誌『Number』がこの春、
創刊40周年・1000号を迎えます。
1980年から今に至るまで
あらゆるスポーツの瞬間を切り取りつづけ、
アスリートたちの知られざるドラマを
スポーツファンに届けてきた『Number』。
ほぼ日刊イトイ新聞では『Number』と
スポーツの写真を中心にしたイベントを
渋谷PARCO「ほぼ日曜日」でおこないます。
写真を見ただけで記憶が揺さぶられる
展示やトークショーをご期待ください。
こちらのページでは展示内容の予告や
募集したいことを不定期で更新していきます。

【イベント中止(延期)のおしらせ】
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、
2020年3月20日~4月5日に予定していた
『Number1000』の展示・トークショーを、
中止(延期)せざるを得ない状況と判断いたしました。
楽しみにお待ちいただいていたお客様には、
ご迷惑をおかけし大変申し訳ございませんが、
何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。
(2020年3月12日 13時40分追記)

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第2回 40年の歴史を詰めこんだトークが全11回。

 
こんにちは、ほぼ日の平野です。
「Number1000」の開催まで1か月を切り、
展示内容、トークイベント、グッズについて
『Number』編集部のみなさんと「ほぼ日」で
毎日慌ただしく準備を進めています。
おかげさまで、先日募集していた
「バックナンバー」の募集では
69人の方からご連絡をいただき、
1000冊中およそ800冊(すごい!)を
会場にそろえることができそうです。
ご協力いただけるみなさま、
ありがとうございました。
さて、本日は会期中におこなう
トークイベントのご案内をします。
3月20日~4月5日までの17日間の会期中、
11回ものトークをおこなえることになりました。
『Number』40周年にふさわしく、
日本スポーツ史に刻まれる伝説の試合について、
偉業を讃えるべきアスリートについて、
『Number』とも縁の深い出来事について、
90分間、こってりした話をお聞きいただけます。

全11回分のトーク内容をくわしくご紹介します。
オリンピック、プロ野球、格闘技、
箱根駅伝、ラグビー、フィギュアスケート、
それぞれの競技を語れるゲスト陣に
おおいに語っていただきましょう!

みうらじゅんの珍連載。
「巡礼の旅」みやげ話。

スポーツとみうらじゅんさんを結びつけた、
おもしろ連載が『Number』にありました。
いまから30年前、1990年にはじまった
「巡礼の旅シリーズ」を、みうらじゅんさんと、
編集を担当していた新谷学さんが振り返ります。
『巨人の星』で星飛雄馬が
恋人の美奈さんと日南海岸で逢い引きした場面を
みうらじゅんさんで再現‥‥。
『あしたのジョー』で力石徹が
少年院を豚に乗って脱走するシーンを
みうらじゅんさんで再現‥‥。
アニメの“聖地巡礼”の先駆けのような
エピソードをひとつずつ振り返るだけでも
十分におもしろそうなこちらの企画。
現在『週刊文春』の局長を務める新谷学さんが、
徹底した作り込みのために奔走した、
若き日の苦労話もおおいに語っていただきましょう。


みうらじゅん
1958年、京都生まれ。
武蔵野美術大学在学中に漫画家デビュー。
以後、作家、ミュージシャンなど多方面で活躍。
1997年にはみうらさんの言葉「マイブーム」が
新語・流行語大賞のトップテンに選出。
「ゆるキャラ」の名づけ親でもある。
著書に『マイ仏教』『「ない仕事」の作り方』
『マイ遺品セレクション』『ひみつのダイアリー』など。


 新谷学(週刊文春編集局局長)
1964年生まれ。1989年に文藝春秋に入社。
『Number』に配属。その後、『マルコポーロ』編集部、
『週刊文春』記者・デスク、月刊『文藝春秋』編集部、
ノンフィクション局第一部長などを経て、
2012年より『週刊文春』編集長。現・週刊文春局局長。

ホームベース、記者席、
観客席からの10.8決戦。

1994年10月8日。
読売ジャイアンツと中日ドラゴンズが
シリーズ130試合目にして69勝60敗で並び、
日本プロ野球史上初、
優勝のかかる最終戦を行った「10.8決戦」。
ナゴヤ球場での優勝決定戦に居合わせた、
選手、記者、ファンの3人が語ります。
読売ジャイアンツの正捕手として、
槙原寛己・斎藤雅樹・桑田真澄の
「先発三本柱」をリードして
見事に勝利へと導いた村田真一さん。
スポーツ報知のジャイアンツ番の記者として、
一年中ジャイアンツに張り付いていた
スポーツジャーナリストの鷲田康さん。
そして、ナゴヤ球場に駆けつけた糸井重里。
ホームベース、記者席、観客席からの証言で、
「10.8決戦」の記憶を呼び起こします。


 村田真一(元読売ジャイアンツ)

1981年に読売ジャイアンツへ入団、
2001年に引退。
現役中はしぶとい打撃と献身的なリードで
ジャイアンツを支え続けた。
引退後は複数の監督のもとで
ヘッドコーチ、打撃コーチ、
バッテリーコーチなどを務める。
現在は野球解説者、野球評論家として活動。


鷲田 康(ジャーナリスト)
1957年、埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社に入社。
1991年オフから巨人キャップとして
1993年の長嶋監督復帰、
松井秀喜選手の入団などを取材。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
著書に『10・8 巨人vs.中日 史上最高の決戦』
『長嶋茂雄 最後の日。1974.10.14』
(いずれも文藝春秋)などがある。


糸井重里(「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰)
1948年群馬県生まれ。
「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。
1971年にコピーライターとしてデビュー。
「不思議、大好き。」「おいしい生活。」
などの広告で一躍有名に。
また、作詞やエッセイ執筆、ゲーム制作など、
幅広いジャンルでも活躍。
1998年6月に毎日更新のウェブサイト
「ほぼ日刊イトイ新聞」を立ち上げてからは、
同サイトでの活動に全力を傾けている。
『Number』132号でコピー監修をしているほか、
中畑清さんや中竹竜二さんとの対談企画で登場。

“14歳の金メダリスト”が
もう一度泣いた日。

1992年、バルセロナオリンピック。
競泳女子200m平泳ぎで金メダルを取ったのは、
14歳になったばかりの岩崎恭子さんでした。
メダル候補にも挙がっていなかった彼女が
オリンピックレコードを塗り替える泳ぎで
競泳史上最年少金メダリストに輝きます。
レース後のミックスゾーンで
中学2年生の彼女から出てきた言葉、
「いままで生きてきたなかで、いちばん幸せです」。
その言葉の影響もあって一躍時の人となり、
過度な注目に悩まされ続けた岩崎選手を救った、
『Number』の文章がありました。
4年後のアトランタオリンピックを終え、
帰国する機内で手に取った『Number』。
岩崎さんについて生島淳さんが書いた記事を読み、
岩崎さんが涙したそうです。
今だから話せる、素直な心境を語っていただきます。


 岩崎恭子(元水泳選手)
競技者として常に前を行く姉を追いかけ、大会に出場。
バルセロナ五輪選考会を兼ねた

日本選手権で残り1枠を姉と争うこととなり、
周囲の予想に反して出場権を獲得した。
世界ランクは14位、メダル候補にも挙がらない
無名の選手だったが、本番で驚異的な成長をみせ、
当時の五輪記録を塗り替えるタイムで
競泳史上最年少金メダリストに輝く。
名言として残るインタビューも相まって、
一躍時の人となった。
過剰な注目に苦悩し、不調が続いたが、
奮起して2度目の五輪出場を果たした。
引退後は児童の指導法を学ぶために米国へ留学し、
水泳・着衣泳のレッスンやイベント出演を通して
水泳の楽しさを伝える活動をしている。


 生島 淳(スポーツライター)
1967年宮城県気仙沼市生まれ。
早稲田大学卒業後、博報堂在職中の1993年、
NBA特集号にて『Number』デビュー。
五輪は1996年のアトランタに始まり7大会、
ラグビーW杯は1999年から現地に足を運ぶ。
著書に『奇跡のチーム』、
『箱根駅伝ナイン・ストーリーズ』
(ともに文春文庫)など。
最新刊は関西学院大学アメリカンフットボール部・
鳥内秀晃前監督との共著
『どんな男になんねん』(ベースボール・マガジン社)。

We did it !
名波浩のジョホールバル。

サッカー日本代表が念願のワールドカップを
勝ち取った試合「ジョホールバルの歓喜」を、
名波浩さんが解説してくださいます。
1997年11月16日、
マレーシアで行われたアジア第3代表決定戦を
イラン代表と戦い、延長戦の末に日本が勝利。
日本のサッカーが新たな歴史を刻んだ試合に、
背番号10番、名波浩さんがいました。
絶対に負けられない試合における司令塔は、
試合前、試合中、試合後に、
どんなことを考えていたのでしょうか。
お相手は、『Number』編集部で
ジョホールバルのスタジアム内を
裸足で駆け回っていた編集者の藤森三奈さん。
劇的な瞬間の写真を日本に送り届けるために
奔走した記憶をお話しいただきます。


名波浩(元サッカー選手)
1972年、静岡県出身。
静岡市立清水商業高校から順天堂大学へ進み、
95年にジュビロ磐田に入団。
98年フランスW杯に出場。
99-00年にACヴェネチアでプレー。
2008年にジュビロ磐田で現役を引退し、
14年9月~19年6月までジュビロ磐田の監督を務めた。

 藤森三奈
(スポーツ・グラフィックナンバー編集部
メディア・プロデューサー)

サッカー、F1、NBA、ゴルフを中心に担当。
サッカーワールドカップは、
1998年のフランス大会と
2002年の日韓大会を現地取材。
オリンピックは2000年のシドニーを現地取材。

『Number』創刊うちあけ話から、
ゴルフ マスターズへの出発式。

1980年に創刊した『Number』。
当時7人の編集部を支えたのは、
編集プロダクションS&A。
そこにはボスである三田村昌鳳さんを始め、
あの「江夏の21球」を書いた
山際淳司さんも所属していました。
創刊時はデスクで、
二代目編集長を務めた松尾秀助さんとともに、
日本で初めての総合スポーツ誌が
どういう理念で生まれたのか、
バタバタの編集現場の様子とともに
語っていただきます。
また、ゴルフジャーナリストでもある
三田村さんには、
翌週から始まるマスターズについて
見どころを教えていただきます。
聞き役は「ほぼ日の学校長」河野通和。
当時の河野は、他社に所属しながらも
Number編集部に友人も多く、
同期のよしみで創刊に向けての
慌ただしい編集作業を手伝っていたそうです。


三田村昌鳳(ゴルフジャーナリスト)
1949年、神奈川県出身。
立正大学卒業後、週刊アサヒゴルフ編集部へ。
77年に独立し、
編集プロダクションS&Aプランニングを設立。
「ナンバー」の創刊に携わり、
長年ゴルフコラムを執筆した。
マスターズを始め世界のメジャー大会を長年取材している。


松尾秀助(フリーライター)
1939年、東京都出身。
東京大学卒業後、文藝春秋に入社。
78年にフルブライト奨学金研究者としてアメリカに留学。
帰国後、「ナンバー」の創刊に携わり、
2代目編集長を務めた。95年に退社。
現在フリーライターとして活動している。


河野通和(ほぼ日の学校長)
1953年、岡山市生まれ。編集者。
東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。
1978年~2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。
2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。
2010年~2017年、
新潮社にて『考える人』編集長を務める。
2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

2000年の桜庭和志。

『Number』のOBであり、
現在はフリーライターとして活躍中の柳澤健さん。
昨年『Number』 で連載をしていた
『2000年の桜庭和志』が
単行本となり発売されたばかり。
2000年、ホイス・グレイシーを倒し、
時代の寵児となった桜庭和志。
桜庭選手の活躍を振り返りつつ、
その時代を描いた柳澤さんと、
この本の取材に協力し、
桜庭選手を高く評価する柔術家の
中井祐樹さんによる桜庭選手論です。


柳澤健(ノンフィクションライター)
1960年東京都生まれ。
慶應義塾大学法学部卒業後、
メーカー勤務を経て、文藝春秋に入社。
編集者として「Number」などに在籍し、
2003年に退社してフリーライターに。
2007年に処女作
『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)を発表。
著書に『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(文藝春秋)
『1993年の女子プロレス』(双葉社)
『日本レスリングの物語』(岩波書店)
『1964年のジャイアント馬場』(双葉社)
『1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代』(集英社)
『1984年のUWF』(文藝春秋)
『2000年の桜庭和志』(文藝春秋)など。


中井祐樹(日本ブラジリアン柔術連盟会長)
1970年8月18日生まれ。
北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。
高校時代にレスリング、北海道大学在学中に
高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、
4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。
その後同大中退後、上京し修斗に入門。
93年4月にプロデビュー。
94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。
95年4月、
バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。
決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。
しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けた
サミングで右目を失明、王座を返上した。
その後しばらくは選手活動を停止していたが
96年に柔術家として現役に復帰、
日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。
98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝など
アメリカ・ブラジルで実績を残す。
99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、
99年10月のブラジル選手権では
黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。
97年12月、自らの理想を追求するため
パラエストラ東京を開設。
現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。
著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や
「希望の格闘技」(イースト・プレス)や
「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、
DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」
(BABジャパン)や
「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)
他多数。

『Number』とスポーツ写真。
カメラマンの撮る、選ぶ、語る。

『Number』の誌面を飾るスポーツ写真。
アスリートの一瞬を切り取った写真は、
スタジアムの熱狂をもう一度呼び覚まします。
カメラマンは競技にどう臨み、
決定的瞬間はどう撮影されているのか。
第一線で活躍する3人のフォトグラファーに
集まっていただきます。

近藤篤さんは浦和レッズを中心にサッカーを撮影、
ラグビーの魅力にもとりつかれ、
昨年のラグビーワールドカップでも
多くの写真を提供してくださいました。
文章の執筆も手がけ、
エッセイ集「ボールピープル」では
サッカー本大賞を受賞しています。

藤田孝夫さんはこれまでに
数多くのオリンピックの現場に出向かれている、
競泳、スケート、体操など
いわゆる「アマチュアスポーツ」撮影の
プロフェッショナル。
『Number』にも長年に渡り
写真を提供しているベテランです。

榎本麻美さんは文藝春秋写真部のカメラマン。
ロンドン五輪以降のオリンピックには
雑誌協会代表として派遣されているほか、
フィギュアスケートの撮影も担当。
『Number』フィギュア特集では
羽生結弦選手の写真で何度も表紙を飾っています。

この3人が、自身が撮影した写真を
スライドで紹介しながら、
スポーツの現場における
「撮る」「選ぶ」を語り合います。


近藤篤(フォトグラファー)
愛媛県今治市出身。
上智大学イスパニア語学科卒業後、中南米へと渡り、
ブエノスアイレスにて写真を始める。
1993年に帰国後、
エディトリアルの世界を中心に活動中。
現在はスポーツから料理まで、撮影対象は多岐にわたる。


藤田孝夫(スポーツカメラマン)
香川県三豊市出身。
小学、中学、高校と、野球に明け暮れる中、
TVで観たオリンピックのアスリートたちに心奪われる。
スポーツの現場に対する憧憬を捨てきれず、
後にスポーツカメラマンを志し上京。
1985~1990年(株)フォートキシモト在籍後、
1991年フリーランスとして独立、現在に至る。
オリンピックは1988年カルガリー大会から
2018年平昌大会まで夏冬17回連続取材中。


榎本麻美((株)文藝春秋 写真部)
日本大学芸術学部写真学科卒業後、
文藝春秋写真部に入る。
Numberでスポーツ選手のポートレートを
撮影するようになったのがきっかけで、
スポーツ写真にも興味を持ち撮るようになる。

『Number』とイチロー。
スーパーヒーローの28年。

――1番。ライト、イチロー。
すべての野球ファンにとっても、
『Number』にとっても格別な存在が、
昨年、28年の現役生活に終止符を打ちました。
日米通算4367安打の金字塔を打ち立てた
稀代のバットマン「イチロー」をテーマに、
石田雄太さん、佐貫直哉さん、
現『Number』編集長の宇賀康之さんが語ります。
イチロー選手にインタビューを重ね、
天才打者がその胸の内を明かしてきた相手、
ベースボールライターの石田雄太さん。
そして、『Number』におけるイチロー選手の
ポートレートの多くを撮影してこられた
フォトグラファーの佐貫直哉さん。
司会は、現編集長の宇賀康之さん。
『Number』創刊から40年の歴史の中で
もっとも多く表紙を飾ったスーパーヒーロー、
イチロー選手を語り尽くす90分です。


石田雄太(ベースボールジャーナリスト)
1964年、愛知県生まれ。
青山学院大卒業後、NHKに入局。92年独立。
桑田真澄、イチロー、大谷翔平らを長く取材。
『イチロー・インタビューズ』など著書多数。


佐貫直哉((株)文藝春秋 写真部部長)
1964年、東京都生まれ。
1987年から文藝春秋写真部で
「Sports Graphic Number」を中心に撮影。
92年のバルセロナ大会から夏冬合わせて
12回のオリンピックを取材。
イチロー選手をはじめ、
トップアスリートのポートレートも多数撮影。

宇賀康之(Number編集長)
1971年生まれ。1995年に文藝春秋入社。
『Number』に配属。その後、『週刊文春』編集部、
月刊『文藝春秋』編集部を経て、2018年より現職。

箱根駅伝からマラソンへ。
東京五輪と長距離界秘話。

いよいよ4ヶ月後に迫ってきた東京五輪。
多くのスター選手が参加を予定していますが、
日本で最も注目を集める競技のひとつが
「男子マラソン」でしょう。
そこに出場する選手の1人が、
昨秋のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で
見事優勝した中村匠吾選手(富士通)です。
その中村選手を現在も指導するのが、
母校・駒澤大学の大八木弘明監督。
箱根駅伝ファンにはおなじみの
熱い檄でも知られる名将が、
大学時代から現在に至る中村選手の成長と、
五輪への期待を語ります。
今回は、現在、駒澤大学でコーチを務める
藤田敦史さんにもご参加いただきます。
藤田さんは大八木監督の指導の下で
2000年にマラソン日本記録を打ち立て、
『Number』にも何度も登場されている
平成の大ランナーです。
中村選手とご自身の練習の違いや
現在の箱根駅伝についても話をしていただきます。
聞き手は、大ベテランの
スポーツライター折山淑美さん。
駒澤大学が箱根駅伝で初優勝を飾った2001年には
『Number』で大会の様子をレポート。
また『Number』では藤田さんを含む
7人の元マラソン日本記録保持者にインタビュー連載、
単行本『日本のマラソンはなぜダメになったのか』
にまとめています。
駅伝、マラソン、そして日本長距離界の
すべてを知り尽くす3人に、
大いに語っていただきます。


大八木弘明(駒澤大学監督)
1958年、福島県生まれ。
高校卒業後、
小森印刷(現・小森コーポレーション)に就職。
24歳で駒澤大学経済学部2部(夜間部)に入学し、
昼は川崎市役所で働きながら勉学と練習に励んだ。
箱根駅伝では「異色の遅咲きランナー」として
2度の区間賞を獲得するなど活躍。
1995年にコーチ、2002年からは監督して
駒澤大学を率いて、6度箱根路を制している。
沿道や車上から選手に飛ばす「男だろ!」などの
熱い檄は駅伝ファンにおなじみ。


藤田敦史(駒澤大学コーチ、元マラソン日本記録保持者)
1976年、福島県生まれ。
駒澤大学では1年時から中心選手として活躍し、
4年連続で箱根駅伝を走る。
大学4年時の99年には4区で区間新記録を更新。
その直後、初マラソンだったびわ湖毎日マラソンで
2時間10分07秒で走り、瀬古利彦の日本学生記録を更新。
富士通入社後、2000年の福岡国際マラソンで、
2時間06分51秒という日本記録(当時)で優勝した。
2015年から母校・駒澤大学にて
大八木監督の下でコーチを務める。


折山淑美(スポーツライター)
1953年、長野県生まれ。
陸上、体操、水泳、スケート、スキーなど
アマチュアスポーツを中心に取材を続けており、
オリンピックは1992年冬季アルベールビルから
10大会連続で取材中。
著書にNumberの連載をまとめた
『日本のマラソンはなぜダメになったのか』(文藝春秋)、
『「才能」の伸ばし方 ―五輪選手の育成術に学ぶ』
(集英社新書)など、スポーツ関連が多数ある。

スポーツ史上最大の番狂わせ、
ラグビー ブライトンの奇跡。

ラグビーワールドカップ2015で起きた、
「ブライトンの奇跡」を改めて語ります。
2015年大会がはじまる前まで、
大会通算1勝2分21敗だった弱小国の日本が、
世界ランク3位の南アフリカに34対32で勝利。
スポーツ史上最大の番狂わせとも呼ばれるこの試合、
「インパクトプレイヤー」として途中出場した
真壁伸弥元選手をゲストに迎えます。
お相手は、スポーツライターの生島淳さん。
エディー・ジョーンズヘッドコーチをはじめ、
選手や関係者への取材を重ねたことで知り得た
日本ラグビーの強さを真壁さんと語ります。
そして、「ブライトンの奇跡」をきっかけに
「にわかラグビーファン」になった糸井重里からの
にわかファン視点の質問もぜひおたのしみに。


真壁伸弥(元ラグビー日本代表)
仙台工業高校→中央大学を経て
2009年サントリーサンゴリアスに入団。
1年目からトップリーグの新人賞と
ベスト15をダブル受賞。
と同時に2009年に日本代表初キャップを獲得。
現役時代は大型LOとして、
外国人選手にも引けを取らない突破力を武器に、
セットプレーの安定、ボールキャリアとして活躍した。
持ち前の闘争心で、出場すればプレーと声で
チームを鼓舞して2016年度、17年度の
サントリーの2季連続2冠にも貢献した。
2019年、惜しまれつつも現役を引退し、
現在はサントリーで主に営業を担当し、
ウイスキー講座を行っている。


生島 淳(スポーツライター)
1967年宮城県気仙沼市生まれ。
早稲田大学卒業後、博報堂在職中の1993年、
NBA特集号にて『Number』デビュー。
五輪は1996年のアトランタに始まり7大会、
ラグビーW杯は1999年から現地に足を運ぶ。
著書に『奇跡のチーム』、
『箱根駅伝ナイン・ストーリーズ』
(ともに文春文庫)など。
最新刊は関西学院大学アメリカンフットボール部・
鳥内秀晃前監督との共著
『どんな男になんねん』(ベースボール・マガジン社)。


糸井重里(「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰)
1948年群馬県生まれ。
「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰。
1971年にコピーライターとしてデビュー。
「不思議、大好き。」「おいしい生活。」
などの広告で一躍有名に。
また、作詞やエッセイ執筆、ゲーム制作など、
幅広いジャンルでも活躍。
1998年6月に毎日更新のウェブサイト
「ほぼ日刊イトイ新聞」を立ち上げてからは、
同サイトでの活動に全力を傾けている。
『Number』132号でコピー監修をしているほか、
中畑清さんや中竹竜二さんとの対談企画で登場。

羽生結弦2010-2020。
成長と魅力を徹底解剖。

「Number1000」最終日を飾るテーマは、
フィギュアスケート、羽生結弦選手。
オリンピックで二連覇、歴代最高点の更新、
前人未到の演技構成などの挑戦を続け、
絶対王者として君臨する羽生選手について、
シニアデビューから10年の軌跡をたどります。
ゲストに、世界フィギュアスケート選手権で
解説を務める本田武史さんと、
スポーツライター野口美惠さんをお迎えします。
日本男子フィギュアの開拓者として
道を創ってきた本田さんから
羽生選手に寄せる期待をお話しいただきます。
羽生選手が持っている強さと美しさ、
葛藤と試行錯誤を含めて徹底的に解剖します。


本田武史(プロフィギュアスケーター/
スポーツコメンテーター)
スピードスケートを習っていた兄の影響で、
7歳の時にショートトラックを始める。
同じリンク内で誘いを受けて、フィギュアスケートに転向。
史上最年少の14歳で全日本選手権初優勝を飾るとともに、
長野オリンピックへも
史上最年少の16歳で出場を果たした。
日本人として初めて競技会で
4回転ジャンプを3回成功という偉業を成し遂げた、
日本男子フィギュア界隆盛の立役者。
現在は、プロフィギュアスケーターとして
アイスショーで華麗な演技を披露するとともに、
フィギュアスケートコーチとして
後進の育成にも力を注いでいる。
また、趣味のゴルフや家電に詳しい一面もあり、
活躍の場を広げている。


 野口美惠(スポーツライター)
スポーツライター。元毎日新聞記者。
自身もフィギュアスケートの経験があり、
フィギュアスケーターの内面から、
技術、ルールまで深い知識を元に執筆する。

 
『Number』1000号を記念してのトーク、
かなり豪華なラインナップになりました。
スポーツファンのみなさま、
『Number』ファンのみなさまには、
どの回も充実した時間を過ごしていただけそうです。

展示内容については、
決まり次第またお知らせいたしますね!
それでは失礼します。
※新型コロナウィルス拡散防止のため
 開催につきましては、
 今後の状況をみながら判断いたします。

(つづきます)

2020-02-28-FRI

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