スポーツ総合雑誌『Number』の
創刊40周年・1000号を記念して、
アスリートが躍動する表紙の展示や
トークライブの生中継を、
Web上でおこなうことにしました。
題して、「ほぼ日」オンラインミュージアム。
1980年から今に至るまで
あらゆるスポーツの瞬間を切り取りつづけ、
アスリートたちの知られざるドラマを
スポーツファンに届けてきた『Number』。
写真を見ただけで記憶が揺さぶられる
表紙の写真と編集部の声が並びます。
いま明かされる「表紙の物語」とは――。
※渋谷パルコ「ほぼ日曜日」での開催は
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため
残念ながら中止となりました。
>「ほぼ日曜日」のページはこちら
- スポーツの歴史とともに、
当時のじぶんが見えてきます。
歴代の表紙とともに
『Number』の担当者の声を
じっくり読んでいただけるような
展示イベントを予定していたのですが、
新型コロナウイルスの影響が続いているため、
多くの人を集めることを避けるべく
オンラインでの展示となりました。 - さて、ここからが本題!
表紙を振り返る特集の初日です。
いまから40年前、
1980年4月1日に産声をあげた
『Sports Graphic Number』。
創刊からしばらく試行錯誤がつづき、
スポーツ総合雑誌『Number』のあり方を
探っていた背景が見えてきます。
東京オリンピックまであと1年、
この日から連載がはじまります。
- 雑誌のタイトルは一般公募して
『Number1』がいちばん多く、
『Number1』でいこうと思ったところ、
民間人が商標登録を済ませていて断念。
「Number」を本タイトルとし、
あとは号数に従って数字が動いていく形にした。
ところが第三種郵便物と国鉄特運規定に
「サブタイトルは本タイトルより
小さくなければならない」という1項があった。
『Number』が本タイトル、
「1」はサブタイトルにあたるので
小さくしなければならなかった。
結局、「1」は「N」より1mm小さくして使った。
創刊号表紙の絵柄は悩みに悩んだ。
最初、王貞治さんの背番号1を
表紙いっぱいに大きく使うつもりだったが、
空山基さんの絵で人差し指を立てた
女性ロボットを描いてもらった。
絵そのものは立派な出来だったが、
あれで良かったかと今でも迷っている。 - 〈初代編集長・岡崎満義〉
- 先輩からは
「新雑誌は3ヶ月が勝負。
伸びる雑誌はその辺から上昇カーブになっていく」
と言われていた。
『Number』にとっての3ヶ月目は
7月のモスクワオリンピック。
作家の野坂昭如さんに
モスクワ取材をしてもらうよう頼んでいた。
ところが前年暮れのソ連のアフガン侵攻で
アメリカが五輪ボイコット。
日本も5月になって、
アメリカに追随して不参加を決めた。
五輪特集号を作るかどうか迷ったが、
いい原稿が集まったので作ることにした。
佐瀬稔さんの「オリンピックの歴史」。
円盤投でオリンピック3連覇した
アメリカのアル・オーターは
1976年モントリオール五輪は不参加。
ところが1980年モスクワはまた出場する。
モントリオール五輪を休んだのは
思春期のふたりの娘のために、
父親が家庭にいてやらないといけない。
モスクワになれば娘たちは大学へ行って寮生活、
そうなればまた、出場できる。
という小さな新聞記事を見つけ、
ロバート・ホワイティングさんに
アメリカまでインタビューに行ってもらった記事。
カナダ人記者が、当時薬物使用で有名だった
東独に潜入したルポルタージュを
徳岡孝夫さんに読み解いてもらった記事。
たぶん、この記事が
ドーピングについての最初だったと思う。
いい内容の記事が3本集まったので特集号を作ったが、
私が編集した50数冊の『Number』の中で
この「8号」が最悪の売れ行きだった。
編集長もクビだな、と覚悟した。 - 〈初代編集長・岡崎満義〉
- 『Number』にとって画期的な号となった
10号の表紙です。
長嶋茂雄特集ということで、
現役時代の長嶋選手の写真を探しに
サンケイスポーツへ行きました。
写真部で膨大な量のベタ焼き
(35mmフィルムを現像したもの)を前に呆然。
この中から決定的一枚を探す作業です。
どれほどの時間がかかったかは覚えていませんが、
彼がヘルメットを飛ばして空振りをした瞬間を捉えた
遠藤忠カメラマンのあの一点が心眼に飛び込んできて
「コレだっ!」と思ったことはよく覚えています。
何点か現像してもらって持ち帰ったはずですが、
岡崎編集長はじめみんなが
この一点で「決まり!」でした。 - 〈2代目編集長・松尾秀助〉
- 1984年、冒険家・植村直己さんが
冬のマッキンリー登頂を果たした後、行方不明に。
前号(95号)の次号予告では
「バイク特集」とお知らせしていましたが、
急遽、植村直己さんの特集に変更しました。
編集部は直ちに親交のあった設楽敦生編集部員と
安藤幹久カメラマンを現地に派遣。
氷雪に消えた植村直己さんの生還を待ちつつ、
「戻ってこい! 植村直己さん」
という緊急特集を組みました。 - 〈2代目編集長・松尾秀助〉
- 200号では、ゼッケン200の『Number号』を
鈴鹿8時間耐久オートバイレースで走らせることに。
しかし、ホンダから貸与された
レーシングマシンはトラブル続きで、
走っている写真が撮れない。
窮余の策で、鈴鹿サーキットのピット内に
スタジオを仮設して撮影した。 - 〈編集者・西川真彦〉
- 1988年に開催されたソウル・オリンピック。
『Number』編集部から取材記者として
大会会場に派遣された編集者は1名のみ。
しかし、その選に漏れた新米の私も
なんとソウルに派遣されることになりました。
ただし、取材記者ではなく、フィルム運搬要員として。
表紙と巻頭ページに使うポジフィルムを
オリンピック会場から現地の印刷所に運ぶためだけに
ソウルに向かったのでした。
当時はまだパソコンもインターネットもなく、
フィルムの現物を印刷所に入稿するのが当たり前。
しかし、この緊急増刊号は〆切の都合上、
フィルムをソウルから飛行機で東京に
運んでいたのではどうしても間に合いません。
そこで、写真の電送というのに
チャレンジすることになったのです。
電送と簡単にいいますが、その頃のものは
えらい時間とコストがかかる代物だったため、
東京に送れる写真は2点だけ。
選んだのは、表紙用が女子100メートルで優勝した
ジョイナー選手の疾走する写真で、
巻頭ページ用が男子マラソンで優勝した
イタリアのボルディン選手のゴール前の姿です。
東京にいるデザイナーと国際電話で打ち合わせしながら、
写真のあたりを取ってファックスし、
まずはデザインの作業を先行してもらいます。
その間に私は大会会場から
凸版印刷のソウル臨時出張所にタクシーで向かいました。
ソウル郊外の夜道は街灯が乏しくうら悲しく、
その上、万が一このフィルムを電送できなかったら
切腹もんだな、と思ったものです(オーバーですが)。
東京の編集部に帰り、
ジョイナー選手がにこやかにほほ笑みながら走る
『Number』の表紙を見た時、
「電送、スゲエな」と思ったのが昨日のことのようです。 - 〈編集者・石井潤一郎〉
(つづきます)
2020-07-23-THU
-
8月19日(水)20:00から
中村亮土×真壁伸弥×生島淳×糸井重里
ラグビートークを生中継!
「ラグビー日本代表が語る、
必然で掴んだ大金星。」日本中が熱狂した、
ラグビーワールドカップ2019から1年。
ほぼ日も「にわかファン」として
おおいにたのしませてもらいました。
「Number1000」のトークイベントとして
4月に開催を予定していたラグビートークを
オンライン配信することにしました。
ラグビーワールドカップ2015に出場した
元日本代表の真壁伸弥さんと、
『Number』で数々の文章を書いている
スポーツライターの生島淳さん、
にわかラグビーファンの糸井重里はそのまま。
そして、あらたにスペシャルゲストとして
ラグビーワールドカップ2019に出場した
日本代表の
中村亮土選手(サントリーサンゴリアス)
にも登場いただけることになりました。
生中継を見るためのチケットは
1,100円(税込)、
7月28日(火)午前11時から
販売をはじめます。 -
『Number』1000号と、
特製クリアファイルをセットで販売中!「Number1000」のイベントのために制作した
限定グッズの特製クリアファイルを
『Number』1000号と
セットで販売しています。
人差し指を立てたイチローさんの
表紙が印象的な『Number1000』では、
創刊1000号記念特集として
「ナンバー1の条件」をテーマに、
イチローさんがナンバー1への想いを語る
ロングインタビューが掲載されます。特製クリアファイルは全3種類。
1000冊ある『Number』の表紙から、
「野球」「サッカー」「女性アスリート」の
3つのテーマでわけたクリアファイルを
このイベントのために作りました。
これまでに『Number』の
表紙を飾ったアスリートたちの
生き生きとした表情が並びます。
3つとも、A4サイズの紙がちょうど収まる
220mm×310mmの大きさです。*販売は終了しました。