出版界にとってひとつの事件といって
過言ではないでしょう。
1400ページ近い超大作が9月24日に発売されました。
函入り、1.7kg、究極の“鈍器本”です。
惜しまれながらも2019年に亡くなった橋本治さんの
評論から小説、エッセイ、イラスト、そして
ギャグ好きなところまで、あらゆる要素が詰め込まれた
まるで橋本さんの頭の中をのぞくような小説です。
別冊としてつけられた15枚の手描き地図の
緻密な書き込みと美しさ、
30ページ以上もつづく茶目っ気たっぷりの目次、
さらには巻末100ページにおよぶ
「人名地名その他ウソ八百辞典」。
そこらじゅうから橋本治さんの笑い声が
聞こえてくるようです。
この本に特典をつけた「ほぼ日の學校セット」は
当初の予定数をはるかに超えて
完売しましたが、
本そのものは、この先も書店でお買い求めいただけます。
どんな本か興味をもっていらっしゃる方、
まさに読もうとしていらっしゃる方、
いつか読もうと思っていらっしゃる方、
読んでいる真っ最中の方、
どなたにもきっと参考になる
スペシャルトークをお届けします。
ご登壇いただいたのは、
橋本治さんへのロングインタビューを基にした
『橋本治の小説作法(仮)』を執筆中の
フリーライター・編集者の矢内裕子さん。
『人工島戦記』の発行人で、雑誌連載時の
担当編集者だった遅塚(ちづか)久美子さん。
そして、この本の担当者である
ホーム社文芸図書編集部の髙木梓さん。
この本が生まれるまでの物語をお楽しみください。
- 『人工島戦記』の巻末には
110ページもの「ウソ八百辞典」と
15枚の地図が収録された別冊がついています。
これはいったいどういうものでしょう? ●架空の町の名物の羊羹にまで由来がある
- ──
- 巻末の「『人工島戦記』人名地名その他ウソ八百辞典」と
付録の地図の話を聞かせていただきたいんですけど、
小説も大変な労作ですが、
このふたつもそれぞれに大変なものですよね。
矢内さん、小説以外の部分をどうご覧になりましたか?
- 矢内
- 私、最初に拝見したのが、
仮留めの冊子みたいなものだったんです。
橋本さんが例によってうれしそうに「うふふふ」って。
「こういうものまで作っちゃったんだよね」って
言って見せてくださいました。
- 遅塚
- 私もその冊子の形で見ました。
- 矢内
- 本当にどこかの郷土資料館が出した
「町の歴史」みたいな辞典のような感じで圧倒されました。
『橋本治の小説作法(仮)』のための
ロングインタビューの中で、
「全部は書かない」って何度もおっしゃっていたんです。
書いている作品について、街の様子、
街路樹の種類や咲いている花など、
具体的にわかっているけれど、
すべては描写しない――という意味です。だから、
雑誌掲載の作品に「挿絵が入ります」と言われると、
たまに「ああ、それだったら挿絵を描いてくれる人に、
ほんとはこの登場人物が立っている壁の向こう側には
庭があって、その庭にはこういう木が生えていて、
この季節だとこんな花が咲いていて、
こんな香りがすると思うから、そのことを
伝えてくれる?」とか、言ってたんですって。
「そういうのは自分の頭の中で
ありありと情景が見えているんだけれども、
全部書くとちょっと本筋から離れるというか……
そういうのは泣く泣く書かないでいる」と。 - ひとつの作品を書くときに、
グーッと自分の内側にその世界を存在させて、
そこで見たものを書いていらっしゃるので、
主人公のまわりで吹く風とか全部わかっているんだな、
とは思っていたんです。
だけど、それが辞典のようになっていて、
地図を指差しながら、「ここが登場人物の誰々の家で、
この町の人たちがどこかに遊びに行くときには、
ここのお菓子屋さんに買いに行くんだよね。
そこの名物がこんな羊羹で、その羊羹の由来は……」
と、どこまでも話が広がっていく……
何て言うんでしょう、その密度の高さ!
- 遅塚
- わかります。
- 矢内
- でもそれは、ゲームとかアニメとか映画を作るときに、
情報共有として設定資料集を作ったりするのとは、
ぜんぜん違うんですよね。
ゲームや映画を貶めているわけではなくて、
目的がちがうというか、橋本さんの場合、
自分の中に、世界や人物が生まれてしまって、
止められなかったんだろうと思います。 ●「やっさん、歴史がある!」
- 遅塚
- しかも固有名詞が変じゃないですか。
箆殿笥(へろどとす)市の和菓子屋さんが作る
箆羊羹(へろようかん)とか。
この辞典だけ読んでも楽しい。
- 矢内
- そうなんです。橋本さんのファンの中には、
『アストロモモンガ』のような、
ちょっとシュールでバカバカしい面白さを
好きな方がいらっしゃいますよね。
橋本さんはそういう笑えるものも大好きで、
でも、作家として忙しくなるにつれて、
そういう作品を書く機会がなかったんですよね。
でも本当は書きたかったんだろうな──っていうのが、
この辞典を読むとすごくよくわかります。
一項目たりとも手が抜いてない。
どれも笑わせようとして書いている(笑)。
- 遅塚
- そう! しかも、たとえば学生グループの中の
志覧吾朗(シラン)というのは質屋の息子なんですけど、
その質屋のお父さんが座ってる
椅子の張り直しをするのが「安(やっ)さん」
という職人だ、という描写があるんですよね。
ちゃんと「安(やっ)さん」出て来ますから、辞典に。
「細工町に住む謎の職人。本名未詳。
恐らくはアパレル関係の人であろう。亀丸質店の
木製回転椅子の修理にかかわる」って書いてある。
「やっさん、歴史がある!」 って感じです。
作中には出てこないんですよ、やっさん本人は(笑)。
橋本さんの頭の中、どうなってるんだろう? って。
- 矢内
- 大勢の人を書くことに対して、
ものすごい愛情がありますよね、どの人にも。
- 遅塚
- 「ナイル川のトトメスさん」って
出て来るんですけど、名入川なんですよ。
トトメスは東堂召衆っていう苗字で。
ちゃんとその東堂召衆さんの子孫が
後半で活きてくるはずだったんですよね、
テレビ局で……。
- 矢内
- ああ、そうですよね。
- 遅塚
- 東堂召衆文子(ふみこ)が登場するはずだったのに、
出てくるところまで届かなかった。
こういうネーミングひとつとっても、
橋本さんが書いていらっしゃる最中に、
「名入川の東堂召衆とか出て来るのよ」
とかいう話を聞かせてもらっていて。
それも「おかしいでしょ。ひひひ」って感じで。
ものすごくありそうな設定なのに、絶対にないような
ヘンテコな名前がついてるんですよね。
だから、すごく楽しみながら
この世界を作っていらしたと思います。
この辞典を見ると、それがよくわかりますよね。
- 矢内
- ほんとですね。大田分(おおたわけ)家代々の話とか、
脇道に逸れたところがすごいおかしい。
代々そこを治めていた城主一族の物語も、
みんな辞典の中に入っていたりして。
鉄道オタクには、
自分だけの架空の電車の電鉄会社を作って、
架空の駅や路線図を作ったりしている人がいますけど、
そういう感じもある……。
駅もあれば、路線図もあるし、
そういえばバスの停留所を指して、
「地方だと、こういうところには
駅は作らないんだよな。バスなんだよ」
と、おっしゃってたな。 ●小説を書く上で必要だった緻密な地図
- ──
- 遅塚さんがお持ちの手描き地図2種について、
お話しいただけますか?
- 遅塚
- はい。こちらは橋本さんが自分でお描きになった、
一番ざっくりしたパターンの地図です。
だからわかりやすいんですけれど。
「小説すばる」の連載時に掲載されたものですね。
『人工島戦記』の本にはもっと詳細な地図が、
地図帳だけで……
- 髙木
- 15枚です。
- 遅塚
- 地図だけで15枚入っています。
都市別に地図があるんですけど。このざっくりした地図が、
架空の千州の中にある比良野県比良野市。
人工島も描かれています。「ジュリアナ比良野」もあるし。
私が一番私が好きなのは、「チチカカ21」っていう
一番オシャレなファッションビル。
こういうネーミングのセンスが抜群ですよね。
手捏(てこね)海岸とか、笊座(ざるざ)とか。
笊座が繁華街的な、昔の花街のようなところです。
志附子(しぶし)国際空港があって、
小説には隣の海際県って出て来てなかったと思うけど、
この段階ではあったんですね。まあ、九州ですよね(笑)。
- 髙木
- 今ご紹介された手描き地図は、
人に見せるために描かれたものですけれども、
今回本の別冊として収録している地図は、
実際にこの小説を書く上で必要だった
資料的なものだったと思います。
巻末に載せてあるウソ八百辞典は、
人に見せるためにまとめられたものでしたが、
その元になった地名だけのリストや、
人名だけのリストというものも、
原稿と一緒に資料の中にありました。
それらは既にこのウソ八百辞典に
含まれているものでしたので収録しませんでしたが。
あのように詳細に架空の町の歴史や配置を描くには、
こういう地図や辞典がないと、
とても無理だったと思います。
- ──
- 完全にその町が
橋本さんの頭の中にあったという感じですね。
- 髙木
- そうですね。それこそ、こういう地図を描いたりしながら、
頭の中に構築していったのだろうと思います。
地図をコピーして、
その上から加筆されているものもあります。
小説を書き進めながら、
地図や用語集を脇に置いて、同時に
加筆、修正をされていたのではないでしょうか。 ●今の日本がグダグダな理由が書いてある
- ──
- 地図や辞典を見ていてすごいと思うのが、
橋本さんが街を描くとき、
今そこにある街の描写だけでなく、
あらゆる人やものごとの歴史が
盛り込まれていること。
時に平安時代にまでさかのぼって
町の成り立ちや来歴が語られる。つまり、今、
私たちが暮らしているこの世界の成り立ち。
この小説には、橋本さんの知識や経験、社会に対する
観察がぜんぶ盛り込まれているように思います。
ネタバレにならない範囲で、
これはいったいどういう作品ですか、
と問われたら、どう説明されますか?
- 遅塚
- はい。ネタバレにならない範囲で……。
ちなみにホーム社でHBという
文芸図書編集部のサイトをやっていまして、
(https://hb.homesha.co.jp/)
『人工島戦記』の第一章だけ公開しています。
まずはこの第一章のはじめを読んでいただければ、
かなりの部分おわかりになるかと思います。
雑誌連載がはじまるとき、最初に私が聞いたのは、
「大学生が今、政治参加をしない。
でも大学生って、楽しいこと好きじゃない?
だから、ジュリアナで踊ってるように、
それこそリオのカーニバルみたいに、
みんなでワーッと繰り出して、『反対〜!』って
やればいいんだよ、っていうことを
教えてあげたいんだ。
学園祭のノリでデモをやればいいんだよ」。
そういう話でした。でも、
第一章の始まり方を見ると、それだけじゃない。
要するに彼ら(主人公の大学生たち)が
反対するものは何なのか、という話から始まるんです。 - 言ってしまえば、どうして今の日本は
こんなにグダグダになってしまったのか、
それがわかる小説なんです。平安時代から
連綿と続く日本のオヤジ体制文化みたいなもの、
官僚主義的なもの、
それに対する橋本治さんの強烈な批判意識がある。
でも単に批判するのではなくて、
いったいどうしてこういうのが出来ちゃったの?
というのを語っていく。
出て来る人たちが全員悪人なわけではない。
だけど、みんながなんとなく生きてきたら
こういう世の中になっちゃった。
それはどうしてだろうっていうのを、
一般の人のいろんなパターンを出して、詳細に描いていく。
橋本さんは登場人物の大学生たちに
自分の思いを託したんだと思うんです。
世の中の「常識的なもの」「既定のもの」を変えるには、
やっぱり声をあげなきゃダメなんだよ、
ということを言いたかったんじゃないのかしらと
私は思っています。
●エールのような小説
- 矢内
- そうですね。
若い人たちへのエールを書きたかったのかな、と思います。
「君たちにはできることがあるよ」って。
ただ、それを言うにあたって、
橋本さんは簡単に言うのではなくて、
その背景となっている歴史や社会から語るんですよね。
君たちの親はいったいどういう人たちで、
君たちはどうしてそういう思いを
抱えなきゃいけなかったんだろうか。
そういう「そもそものところ」から
小説の形で物語ってくれるので、
話がどんどん長くなったり、「いったい誰の話?」って
思うかもしれないけれど、読んでいくと、
「あ、必要な描写だったんだ」とわかります。
だってある一人の青年が苦しいのには理由があるんです。
その背景になるもの──社会的な要素から、
家族の問題から──ひと通り明らかにしてから、
「じゃあ、デモに行こうか」っていうことを
提案したかったんじゃないかな。
だから若い人たちや、何か変えたいと思っている人たちへの
励ましのような小説だと思います。 - もうひとつ、私が読んで愕然としたのは、
この小説に書かれているいろいろな問題が、
この30年まったく解決していないこと。
たとえば『ゴールデンカムイ』(野田サトル作の漫画)の中で、
アイヌ文化について、
「こんなふうに豊かな文化である」ことが、
具体的に描写されますよね。
同じように、『人工島戦記』の中でも、
山の暮らしについて語っている章がある。
大学生のキイチは山の中で成長した若者で、
樵(きこり)をしていたじーちゃんや、山の知恵は
「もう必要ない」と下の世代から思われている。
そこを読むと、風倒木の問題を
当時すでに橋本さんが書いていたことに驚きます。
日本の森林をどうすべきかというような問題が、
まったく何の解決もされないまま、
この30年、放置されてきたことが、
あらためてよくわかります。 - 作品が書かれた時代と比べて変わったのは、
参政権を持つ年齢が18歳に引き下げられたことくらい。
橋本さんは
日本社会を俯瞰的に見て、あらゆる問題について、
『人工島戦記』で書こうとしていたんじゃないか、と、
あらためて思います。
だから橋本さんの小説をあまり読んでいなかったけれど、
時評やエッセイが好きという読者の方も、
面白いんじゃないかな。この小説には、
橋本さんがエッセイや評論の方で
書いていらしたようなことが
物語の背景として出て来るので、
そういうところも魅力だと思います。
- 遅塚
- 風倒木のことは、「第さん部大山篇」に出てきますね。
橋本さんはあそこの山の中のシーンを
とても気に入っていらして、
「本当にきれいなんだよ。
こうして一面黄色に染まった山の中で、
樵のじーちゃんとキイチが山小屋で
ふたりだけで過ごすんだよ。書いてて涙が出たもん」
とおっしゃっていた記憶があります。
「前近代(祖父)と現代(孫)が仲良しで、
近代(父)は除外されてるんだよ(笑)」って。
まさに評論から、小説から、エッセイから、
橋本さんの全部の要素がこの1冊に入っていますよね。
- 矢内
- そうですね。あらゆるところまで。
- 遅塚
- ギャグが好きなところまで入ってる。
- 矢内
- 入ってる! 個人的には、私、官僚の方々と
この本を読んで読書会をしたいなと思います(笑)。
厚生労働省の方とはこのテーマで、
林野庁の方とはぜひ、
森林問題についてどうでしょう……みたいな。
- ──
- いいですね、それ!
●東京っ子と地方で成長した若者の出会いの物語
- 矢内
- 私、東京育ちの東京っ子なのですが、
主人公のテツオは東京から千州に行ったという設定で、
そこも抜群にすごい設定だと思いました。
東京の視点で地方を見たときの問題と、
それぞれの地方、地域の問題。
異なる地方で成長してきた若者たちが
出会う話でもあるんですよね。
日本のいろいろな地方で暮らしている、
ある種、類型的な人たちが集まって、意見をまとめて、
何かやるとしたらどうなるのかという、
思考実験的な物語としても読めるのかもしれません。
(つづきます)
2021-10-21-THU