ひとりの販売員として洋服を売ってきた
ライターの岩本ろみさんは、
「この人から買いたい。
ものを売る人がたくさんいるなか、
そう思わせてくれる人がいます」と言う。
短ければ、わずか数分。
ものを買う人の楽しみにそっと寄り添い、
気持ちよく導いてくれるその人は、
どういう道を歩み、何を経験して、
どんなことを知っているのだろう‥‥?
話に耳を傾け、学びたい。
ものを売る人として聞き、ライターとして書く。
岩本ろみさんの不定期連載です。

>山﨑芳行さんのプロフィール

山﨑芳行(やまざき・よしゆき)

CAFÉ LE GARÇON店主
1980年長野県生まれ。
大学卒業後、東京都内の飲食店でサービス、
マネジメントを経験後、2012年に長野にUターン。
「THE FUJIYA GOHONJIN」を経て、
2019年10月独立。
Instagram Café Le Garçon
住所 長野県長野市横町440-7
定休日 木曜・不定休

>岩本ろみさんのプロフィール

岩本ろみ(いわもと・ろみ)

ライター
さまざまな仕事、働き方を経験後、2024年から書き手として再スタートを切る。「早く、たくさん書けないけれど、ゆっくり楽しく書くことができる」発行人として、インタビューマガジン『very very slow magazine』を制作するほか、パリのファッションブランド「Bourgine(ブルジーヌ)」では、日本の販売責任者としても活動中。著書に『しごととわたし』(梶山ひろみ名義、イーストプレス)がある。
very very slow magazine
Bourgine Japan

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第1回 彼の日のパリのギャルソンのように

 
パリのカフェを模してあつらえた立派な馬蹄のカウンター、
赤と白のタイルが行儀よく整列した床、
この先にどんな風景が広がるんだろうと
胸を高鳴らせる螺旋階段と、
それを賑やかに囲む映画や美術展のポスター……。
東京と長野の飲食店でサービスとマネジメントの経験を積んだ
山﨑芳行さんと、服飾業界で働いてきた節子さんの
お店「CAFÉ LE GARÇON(カフェ・ル・ギャルソン)」。
日々を積み重ねる舞台として緻密に設計された
この空間を前にすると、私はいつも背筋が伸びる。
お店が面するのは、長野・善光寺の表参道から
左右に伸びる旧北国街道。
インタビューの間、山﨑さんは、カウンターの中から
店の前をゆく人、走る車に向かって何度も会釈をした。
背を向けて腰掛けていた私には、
視線の先に誰がいたのかわからなかったが、
その柔らかい表情から推測するに、
相手はきっと顔馴染みなのだろう。
定休日にもかかわらず道を尋ねようと
お店の扉を開ける観光客がいた。
山﨑さんは彼女たちに丁寧に道を案内し終えると、
「場所柄、派出所みたいなんです」と言う。
この表現こそ山﨑さんだなと思う。
「CAFÉ LE GARÇON」で過ごす時間が
安らぎに満ちているのは、山﨑さんがこんなふうに人を愛し、
それを人がキャッチしているからだ。
山﨑
長野でカフェを開くからといって、自然に囲まれながら
珈琲を飲めるイメージじゃなかったんですよね。
自分が必要としていたのは、わざわざ車で出かけたり、
予約が必要な店ではなく、どんな気分や状況でも、
行きたいときにすぐに行けたり、
予定はしていなかったのについ足が向くような、
多様な生活に寄り添える街場のカフェでした。

 
フランス語で男性の給仕を意味する“Garçon”を
店名に掲げたのは、山﨑さんが20代で出会った
パリのギャルソンたちへの憧憬を
忘れないようにというのがひとつ。
そして、紆余曲折を経て彼らと同じ職業に就いた
自身を通して、カフェやギャルソンの存在を広め、
価値を高めていきたいという宣誓でもある。
山﨑
このあたりのみなさんは、
ギャルソンという言葉の意味はあまり知らない。
今はそれでもいいんです。
この店の流れの先に、いつか知ってもらえたら。
 
絵描きを目指してパリで暮らした数ヶ月や、
本心に蓋をするように別の仕事をしていた時期もあったが、
東京、長野の飲食店に勤めた年月と、
2019年の開業以降をあわせると、
そのキャリアは20年を数える。
山﨑さんの持ち場はいつも厨房の外。
お客さんと向き合うサービス一筋でやってきた。
人が好きで接客が好き。
その原点は意外にも農家の長男として
生まれ育ったことが影響していると分析する。
祖父母を中心とした実家では、農作業の合間に
3回、4回とお茶を飲み、
おしゃべりするのが日常だった。
その行為は、人々が1日の流れのなかに節目を作るために、
カフェに足を運ぶのと同じなのだという見立て。
山﨑
田舎の農家のコミュニティ、それが私の根っこにあります。
いつからか、フランスだなんだと言いはじめて、
提供するものはお茶とお漬物ではないんですけど。
まずは、からだに入れるものと場所があること。
そして、話の聞き手はこういうふうでいてくれたら
なおよしみたいな理想があって。
私は長男として、今頃実家を継いでいるはずでした。
でも、東京に出て、フレンチカフェで働き、
自分の店を出しました。
その節目、決断のたびに
父親に気持ちを伝え続けて今に至ります。
だからこそ家族が誇れる場所をつくりたい。
心にあるのは両親がつくる
野菜や果物のおいしさであり、美しさ。
「ここで生まれるものは、あれぐらいおいしく、
美しくなきゃ」という気持ちが、
今の仕事の支えのひとつになっています。
 
物心つく前から絵を描きはじめ、
ずっと身近に感じてきた芸術と、
高校3年生まで続けた野球。
すばらしい指導者との出会いに恵まれた学生時代を経て、
美術か体育の教員になりたいと想い描くようになる。
高校卒業後は、生まれ育った長野を離れ、
神奈川の大学で芸術学科を専攻。
3年生になり、自分のスタイルを見つけると、
教員ではなく、雑誌や広告でイラストを描く
イラストレーターへ進路変更する。
いわゆる就職活動はしなかった。
卒業を間近に控えた4年生の春、
まずはどこかで働きながら、
自分の作品を見てもらうチャンスを掴もうと、
編集や広告の仕事に就く人が出入りする
飲食店で働くことを思いつく。
エリアを原宿・青山界隈に絞り、
同じ学科で学び、美容師を目指していた友人と待ち合わせ、
それぞれが気になるお店のドアを叩きながら、
人を募集していないか地道に聞いてまわった。

カウンターを見守るように飾られた絵は、宮崎に暮らしていた母方の祖父が描いたもの。頻繁に会える距離ではなかったが、間接的に影響を受けたと話す。 カウンターを見守るように飾られた絵は、
宮崎に暮らしていた母方の祖父が描いたもの。
頻繁に会える距離ではなかったが、間接的に影響を受けたと話す。

 
そんなある日、ファッション誌の東京カフェ特集に
掲載されていた小さな写真に惹かれ、扉を開ける。
青山の雑居ビルに入っていた
「Nid café(ニド・カフェ)」だ。
2000年前後の東京カフェブームを牽引した
イースト・ミーツ・ウエスト社が展開していた
カフェのひとつで、
系列店には13坪の店舗に年間4万人を動員した
恵比寿の「Neuf café(ヌフカフェ)」、
代官山の「eau café(オウカフェ)」など
当時の東京を代表するカフェが並ぶ。
山﨑さんは「Nid café」の窓の向こうに輝く東京タワーと、
洗練されたスタッフを見て、
ここで働きたいと思ったという。
山﨑
「この感じとても好きだ!働きたい!」と
思いました。バイトを募集していないか尋ねると、
奥から店長が出てきて
「うちは店長候補しか募集してないから、
バイトはいらねぇ!」って、
本当にこんな感じで言われたんですよ。
なんて言い方だと思いつつ、
その感じもかっこいいと思っちゃった。
しかたなく店を出て、とぼとぼ歩いていたら、
「Limapuluh(リマプル)」というカフェを見つけました。
今でこそ、こんなフランスかぶれしてますけど、
そこはアジアン料理のカフェだったんです。

(つづきます)

2024-06-24-MON

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  • 取材・文:岩本ろみ
    イラスト:岡田喜之
    編集:奥野武範(ほぼ日刊イトイ新聞)
    デザイン:森志帆(ほぼ日刊イトイ新聞)

    ものを売る人が、知っていること。  岩本ろみ

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    ものを売る人が、 知っていること。 002 スタジオ木瓜 日野明子 篇