京都の西本願寺・総会所に毎月さまざまなかたを呼んで
おこなわれている「日曜講演」。
2019年2月24日のゲストは糸井重里でした。
この日の講題は「親鸞ファン宣言!」。
親鸞についての本も数多く書かれている
釈徹宗さんにガイドしていただきながら、
糸井が個人的に魅力を感じている
親鸞の教えについて話をさせていただきました。
ほぼ日で『吉本隆明が語る親鸞』を
刊行したのは、7年近く前。
ですがあらためて親鸞の思想を振り返ると、
2019年のいま、ヒントになりそうな教えが
詰まっていました。全4回でお届けします。

>釈 徹宗さんプロフィール

釈 徹宗 プロフィール画像

釈 徹宗(しゃく・てっしゅう)

1961年大阪生まれ。
浄土真宗本願寺派・如来寺住職。
相愛大学教授。
大阪府立大学大学院博士課程終了。
専門は宗教学。
著書に『法然親鸞一遍』
『親鸞の思想構造』
『いきなりはじめる仏教生活』
『親鸞─救済原理としての絶対他力』など。

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●(次回4/28の日曜講演のご案内はこちら)

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第3回 親鸞が見つけた、最悪のときに花を咲かせる小さな種。

私の感覚では、現代人はある種
「自分の抱えている苦しみに対して
ぴったり合う道具はないか」
と苛立ち焦っている状態で、
宗教についても
「その苦しみを解決する道具的に使おう」と
考えている気がするんです。
しかも、現代人は
すごく身体性の低い暮らしをしているので、
身体性の高い行為を求めて、
修行などに目がいく傾向があるんです。
糸井
はぁー。
でも、親鸞の思想というのは
身体性がすごく低いようなものですし、
それぞれの悩みに対して、
わかりやすい答えを出してくれるような
ものでもない。
そういう意味で、個人的には、
親鸞の思想は現代人が求めるものに、
あまりピタっと来ないような感じが
しているんですね。
ですからそういう状況で、
親鸞の教えが現代の人たちとつながるには
どうすればいいんだろうと。
最近、そんな思いがあるんです。
糸井
たとえばいまは
「いちど西洋の方法論にはめ直してから
輸入したほうがわかりやすくなる」
みたいなことがありますよね。
瞑想でも
「メディテーション」と言い換えると
「いいね!」となるとか。
「マインドフルネス」とか。
糸井
そうですね。
そのほうが上長の許可が取りやすいという。
たとえば親鸞の思想を伝えるときにも、
そのような言い換えをしたほうが
いいと思われますか。
糸井
いや、ぼくが考えるのはその逆で、
自分自身の経験からすると
「これはこういうことを言ってるんだよ」とか、
ことばがうまく言えすぎたときには、
ものごとがそれだけで
終わってしまうような感じがするんです。
たとえば、限定的なあだ名がつくと
辛いじゃないですか。
「ゴリラ」というあだ名がついちゃったら、
もう何をしても
「ゴリラ」にしか見えなくなる。
はいはい。
うまく言いすぎると、それ以上広がらない。
糸井
でも同じ人に、たとえばもっと幅のある
「たいこの」というあだ名がついたとします。
そうすると最初はよくわからないけれど
「太鼓の?」「太古の?」
「いや、ひらがななんじゃない?」
とか、いろんな想像をして、
そこにペタペタ言葉を貼り付けていける。
ずいぶんあとになってから
「こういう意味だったんだ!」と
わかるようなこともあるかもしれない。

たしかにそうなると
奥行きも広がりが出て、豊かですね。
糸井
親鸞の言葉もそういうことが多くて、
「AといえばAです」といったことが
ちっともないんです。
最初に聞いたときには
「どういう意味だろう?」となる。
だけどいろいろ考えて、
あとから
「あ、これってこういうこと?」
と思えたり、
さらに時間が経って
「ああ、さらにこういうことか」とか、
そういう付き合い方ができるんです。
そして、そういう言葉のほうが、
実は深く届くんです。

ああ、なるほど。
糸井
「マインドフルネスという考え方を
使ってこうやると、
あなたにこんなメリットがありますよ」
みたいな言葉って、飛びつく人は多いです。
ですから投網としては優秀なんですけど、
それは捕らえられた魚が、
逃げよう、逃げようとする投網なんです。
でも、親鸞の言葉は、もっと漠然と
「湾内全体をどう住みやすくしようか」
みたいな話なんですね。
だから、最初に釈先生がおっしゃったように
「これだ」と引き付ける力は弱いかもしれない。
けれどもそれは逆に、
湾内全体の管理のためにプランクトンを
どうする‥‥に近いような、
この中でサンゴが育ち、小魚が育ち、
大きい魚がまた食べに来て、みたいな、
最終的に海全体を豊かにしていくような
ことばだと思うんです。
そして「飽きたよ」とかも言われないと思うんです。
たしかに親鸞の言葉は、
すぐに役立つものじゃありませんが、
ずっと身体に潜むような特性がありますね。
糸井
そうなんですよ。
そういえば、東日本大震災のとき、
『歎異抄』(親鸞の教えを門弟の唯円が書いた書)の
第四条が心に浮かんだという人に、
何人かお会いしたんです。
「今生に、いかにいとおし不便と思うとも
‥‥この慈悲始終なし」
(この世界でどんなにかわいそうで
不憫だと思っても、
聖道の慈悲は首尾一貫しないものだ)
というものですけれども。
また、オウム真理教の事件のときにも
親鸞の思想に言及する人が多かったんです。
糸井
あぁ。
ですから親鸞さんの思想というのは、
自分ひとりではとても抱えられないほどの
大きな悲しみだとか、
「なにかきちんとした理屈とともに
現象を説明することがもはや無理」
といったときに、
浮上するところがあるのかなと思うんです。

糸井
親鸞さんの生きていた時代って、
社会が非常に辛く、暗い時期だったんですよね。
はい、ずいぶんと災害があり、戦乱があり。
糸井
だから
「修行すればもう一回生まれ変われるよ」
とか言われても、きっとみんなが
「こんなのでもう一回生まれるのは嫌だよ」
と思うくらいの苦しい時代で。
そのなかで宗教というのはきっと人々に
別のビジョンを見せるようなことを
していたと思うんです。
そうですね。
糸井
ただ、ほかの教えが
「どんどん修行することが大事なんだ」
「苦労すればいい場所に行ける」
といったことを言っていたときに、
親鸞さんはみんなの
「いまでも辛いのに、
さらにがんばらなきゃダメなの?」
という気持ちを
すくいとれた人だったと思うんですね。
「すでに辛いのにこれ以上の苦労なんてできない」
という人に、親鸞は
「いやいや、大丈夫。
南無阿弥陀仏と言えばいいんだよ」
と言ってあげたという。
ええ。

糸井
それも
「何度も何度も祈りなさい」
ではなく
「一回でもいいから、本物の念仏を称えなさい」。
それによって
全員を救えるようになったわけです。
それはもう、現代の軽薄なことばで言えば、
ものすごくビッグなアイデアであり、
最悪のときに花を咲かせる、
ものすごく小さな種のようなもの
だったと思うんです。
きっと聞いた人々にとって
「ほんとかよ、俺でもいいの?!」
って、
パンっと明るくなれることばだったんじゃ
ないかと思うんですね。
その考えに行き着いた親鸞というのは、
自分の目に映った、
救いようなんかないかもしれない
きつい世の中との対比として
「切符、みんなに配るから」
「みんな、すべて仏さまにまかせよう」
という話をしたわけですから。
なるほど。
糸井
そしてその親鸞の、すべての人々を
なんとか救いたいと思ったことばが、
大好きだった海にいろいろなものを
流された人たちのところに
同じように届いたというのは、
全部をまとめて助けてくれるこれほどの思想が、
ほかになかったからじゃないか、と思うんです。
「俺でもいいの?!」は、言い得て妙ですね。
親鸞聖人の教えがもたらす大きなインパクトを
うまくイメージできます。
糸井
ええ。そしてそのとききっと、
前から言っていた人たちは
「それじゃダメ」とか言いたがるわけです。
言いたがるんですよね、
熱心にその道を歩んできた人ほど。
「おまえなんて“にわか”じゃないか」
とかって。
糸井
そう、「おまえは寄付もしてないし」
とか理由をつけて。
だけど、本当は“にわか”こそが
全員だと思うんです。
そして、そんなひどい時代ですから、
子どもを育てたり、自分が食ったりするだけで
精一杯ですよね。
そのときに浄土や仏さまのことを
常に考えているなんて、できないと思います。
そのとき
「私は何も考えてませんでした」
というような人に
「おまえ、順番から言ったら先に救うよ」
と言ったというのは、
もう、見事というか、ファンになりますよね。
一気にファンに。
糸井
ええ。なりますよね。

(つづきます)

2019-04-05-FRI

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  • [書籍]
    『吉本隆明が語る親鸞』

    親鸞さんを、吉本さんが。
    里の人へ、町の人へと語る。
    時空を超えて、ことばが届く。

    750年前にこの世を去った親鸞が
    どのような考えをもった人だったのか、
    吉本隆明さんの5本の講演による
    親鸞の思想の「読み解き」に、
    用語解説、コラム、写真、地図、年表を織り交ぜて
    いろんな角度から近づいていける
    読みものにしました。
    5本分の講演音声420分が入った、
    パソコン再生用のDVD-ROMつきです。
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