こんにちは、ほぼ日の奥野です。
大学時代の恩師である坪井善明先生から
「少し前、お医者さんを引退した大森安恵先生が
ヒマらしいから話を聞いてみてよ。
91歳で超元気、めちゃくちゃおもしろいから。
よろしく。ガチャッ!」
というお電話をいただきました(笑)。
はたして、恩師の言葉は、本当でした。
大森先生は、高知の無医村にうまれ、
村の人たちから、なぜか
「この子かよ、医者になる子は」と言われて育ち、
やがて本当に医者となり、
日本における「糖尿病と妊娠」という分野を
切り拓いてきた方でした。
全5回、ゆっくりお付き合いいただけましたら。

>大森安恵先生のプロフィール

大森安恵(おおもりやすえ)

高知県安芸市出身。1956年3月、東京女子医科大学卒業。1957年7月、糖尿病を専門とする東京女子医科大学第二内科(中山内科)入局。以来、糖尿病の臨床と研究に従事。1960年12月、自らの死産の経験がきっかけとなり、糖尿病と妊娠の臨床と研究を開始。1964年2月、東京女子医科大学病院において糖尿病妊婦より初めての出産例を経験。1964年9月、「ステロイド糖尿病の成因に関する研究」で医学博士を取得。1981年4月、医局長、講師、助教授を経て、同大学第三内科(糖尿病センター)教授。この間カナダのマックギル大学、スイスのジュネーヴ大学に留学。1985年12月、「糖尿病と妊娠に関する研究会」を池田義雄、松岡健平と共に設立。1991年4月、東京女子医科大学第三内科主任教授兼糖尿病センター長。1997年3月、定年により名誉教授。1997年5月、女性ではじめて日本糖尿病学会会長を務める(第40回)。1997年6月、東京女子医科大学特定関連病院済生会栗橋病院副院長。2001年4月、糖尿病と妊娠に関する研究会を日本糖尿病・妊娠学会に変革。その理事長をつとめる。2005年から名誉理事長。2002年4月海老名総合病院(旧東日本循環器病院)糖尿病センター長。2007年2月糖尿病と妊娠に関して国連でスピーチ。2010年12月WHOにおけるGDMガイドライン作成委員が世界中から13名選ばれ、その一人として活躍。2019年3月海老名総合病院糖尿病センターを退職。受賞歴:1975年、吉岡弥生賞、1982年、エッソ女性のための研究奨励賞、2001年、坂口賞、2008年、米国のサンサム科学賞、2010年、Distinguished Ambassador Award、2012年、ヘルシィーソサイエティー賞、2014年、糖尿病療養指導鈴木万平賞。

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第1回 高知の無医村にうまれて。

──
大森先生は、
どうして「お医者さんになろう」って
思ったんですか?
大森
生まれたところが
高知県の山奥の無医村だったんですが、
よく知らないけど、
ちいさいころから
「ああ、この子かよ、医者になる子は」
って、ずっと言われてたんです。
──
え、村の人たちから。そうなんですか。
高知県の、どちらですか。
大森
もともとは、安芸市の山の中です。
父親が材木商をやっていたんですが、
どんどん大きくなって、
それで、町へも出ていったんです。
わたしが女学校へ行くころには、
村と町と両方に家を持っていたので、
まあ、お金はあったんですね。
──
おうちがお医者さんじゃなかったのに、
どうして
「この子か、医者になる子は」って
言われていたんですかね。
大森
わからないです。
でも、物心ついたときには
「ああ、この子かよ、医者になる子は」
って、みんなから言われてました。
──
ごきょうだいは‥‥。
大森
女ばっかり。姉たちは学校の先生でした。
無医村というのは、
誰かが病気になったら大変なんです。
担架に担いで
町まで運んでかなきゃならないから。
そのようすを見ていて、
「わたしが医者になる」とか、
もしかしたら言ったのかもしれないです。
覚えてないんですけど。
──
病気の人を、担架で町の病院まで。
大森
5時間くらいかかるの。
──
そんなにですか!
大森
生まれたところは、そういう村でした。
とにかく、知らない人からも、
「ああ、この子かよ、医者になる子は」
って、ずっと言われて育ったんです。
──
学校は安芸市内だったんですか。
大森
そうです。でも、疎開してきた先生が、
「こんな田舎の学校から
医者になった人なんかひとりもいない。
東京の学校へ行かなきゃあダメ」って。
それで、転校したんです。
──
当時、高知から東京へ出て行くのって、
さぞ大変だったでしょうね。
大森
土讃線に乗って高松、
そこから1時間くらい船に乗って、
宇野から岡山で乗り換えて‥‥。
東京へ着くまでに、
まるまる24時間かかったんですよ。
──
東京では、どちらの学校へ?
大森
東条英機のおうちのすぐ隣にあった、
東京都立桜町高等女学校です。
東条英機のお嬢さんたちも
通っている学校でした。
その、安芸へ疎開してきた先生が、
医者になるんだったら
ここへ行きなさいと紹介してくれたんです。
──
それって、昭和何年くらいですか。
大森
昭和22年です。戦後です。
それ以来、医者になるのが嫌だなあって
思ったことは一度もないんです。
「ならなきゃならない」
って、ずーっと思ってきたから。
家が貧しくはなかったので、
父親も、その先生に言われるとおり、
東京の学校へやってくれたんです。
──
じゃ、まだ高校生で、下宿されて。
大森
そう、親戚でもないのに、
高知県の出身の銀行家のおうちが、
同郷ということで、
親戚みたいに下宿させてくださいました。
実家からお米を送ってくれたりすると、
すごくよろこばれました。
そこの家には、
やさしくしていただいて感謝しています。
──
ものがない時代だったでしょうし、
お米なんか本当にうれしかったでしょうね。
大森
そうだと思います。
部屋が別にあるわけじゃないんだけど、
娘さんにヤキモチ焼かれるくらい、
家族みたいに大事にしてもらいました。
そのおばさんも亡くなってしまいましたけど。
──
先生は、そののちに、
女子医大へ進学されるわけですけれど、
当時、女性で医者になるには、
他に学校の選択肢ってあったんですか。
大森
東邦大学とか
大阪女子医科大学もあったんですが、
吉岡彌生先生が創設した
東京女子医科大学が有名でしたね。
吉岡先生は、明治33年に、
29歳で学校をつくられたので、えらいですね。
早稲田の大隈(重信)先生と仲良しで、
いろいろサポートしていただいたと聞いています。
──
え、吉岡彌生先生って、
29歳で大学を創立されたんですか?
大森
そうです。すごいでしょう。
あのころは、大学じゃなくて医学校。
それから医学専門学校になって、
大学になったんです。
吉岡先生は、本当にすごい人です。
勉強すればするほど、
吉岡先生はえらい人だなと感じます。
静岡のお医者の家に生まれた
頭のいい方で、
お兄さんたちがみんな医者になるのに、
わたしだけならないのは嫌だから
勉強したいと言って、
東京へ出てきて、
済生学舎へ入学して勉強したそうです。
──
済生学舎というと、
日本医科大学の前身の学校ですよね。
大森
当時、もう男女共学だったんですが、
それでも、
いじめられたみたいです。女だからって。
──
そうなんですか。
大森
あの学校を出て、
隆々と医者になった女性は、
吉岡先生と、高橋瑞(みず)先生です。
その方はドイツへ留学したんです。
男でさえ、まだ留学しない時代です。
残念ながら、
結核になって帰ってきたんですけど。
──
高橋瑞先生って、
まだ女子の入学を許可していなかった
済生学舎に対して、
自身の入学を認めさせて、
女性への門戸を開いた方だそうですね。
大森
日本で3人目の女性のお医者さんです。
吉岡先生よりも
ずいぶん年上だったと思うんですけど、
吉岡先生のことを尊敬していたんです。
「わたしが死んだら解剖してね」
って、吉岡先生に遺言を残したんです。
──
それは、医学の発展に寄与するために。
大森
そうです。
いまでも、高橋瑞先生のお骨は、
女子医大の解剖学教室に残っています。
わたしは、
先生のお骨を見ただけで涙が出ました。

(つづきます)

2024-03-18-MON

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