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中沢 |
僕は学生時代に「吉本隆明」を
よく読んでいましたが、
それこそ吉本さんの根本的な衝動や
目指すものをはっきりつかみだすまでには
至らなかったと思います。
でも、最近はよく分かるようになってきました。 |
糸井 |
どうしてそんなにつかめなかったんでしょう。
やっぱりノイズに混ざってしまうことが
多かったからでしょうか。 |
中沢 |
そうだと思います。
日本の戦後史では、
左翼的にならざれば知識人にあらず、
という時代が形成されました。
これは連合赤軍事件まで
日本の知識人のひとつの型を作ったし、
マルクス主義という世界普遍に
一足飛びに近づくことによって、
自分たちが日本で生きている足下の現実まで、
それによって把握できると考えた人々が
大半だったとも言えます。 |
糸井 |
あてはめれば簡単だ、と
思えたわけですね。 |
中沢 |
吉本隆明さんはそのことと
ずっと戦い続けてきたわけです。
その戦いの、
吉本さんの足の踏ん張りどころは、
戦前からつながっています。
その時代には、
日本浪漫派のような人々がいたし、
どこからも超越した小林秀雄のような
人物もいました。
吉本さんは自分の地歩をしっかり固め、
戦後に論争的な活動に入ったときも、
その足の踏ん張りどころは変えませんでした。
ところが、僕らには、
そこまでは見えなかったんです。
吉本さんがやっている論争にしても、
自分たちは全身でコミットしてる
運動じゃないわけですから。 |
糸井 |
すぐに腕をまくっちゃうからね。 |
中沢 |
そう、やっちゃうんだ。
やっぱり、時代のノイズが
ものすごく多かったんです。
吉本さんを取り巻くノイズが消えていったのは
おそらく1980年代に入ってからでしょう。
でも、この話の冒頭に言いましたけど、
吉本さんは受け身だから、
付き合いが、やたらいいんです。
攻めてくる人がいると、
必ずそこへ出かけていって、
斬り合いをするんですよね。 |
糸井 |
「遊ぼ」と言われないと遊ばないかわりに、
挑発すると、必ずすっ飛んで行きますね。
しかも、丁寧に行きます。 |
中沢 |
そうなんです。
真面目に丁寧に、出かけていくものだから、
僕らからすると、
なんだ、吉本さんって
そういうところへ出かけていく人なのか、
堀部安兵衛みたいな人なのかな、と
思っちゃうわけです。 |
糸井 |
そして、最後にいちばん有名になった
埴谷雄高さんとの話でも。 |
中沢 |
コム・デ・ギャルソン論争と
呼ばれるやつですよね。 |
糸井 |
「吉本の家にはシャンデリアがあって」
ということになってるんだけど、
あれは、ふつうの電灯ですね。 |
中沢 |
僕も、最初に吉本さんのお宅に伺ったときに、
埴谷さんが言ってたシャンデリアが気になって
「吉本さん、あの有名なシャンデリアは」
と、訊いてみました。
そうしたら、吉本さんは
「これですよ。こんなものは
建売にはみな付いてるんですよ」
っておっしゃってました。 |
糸井 |
どうしてあんな論争があったんでしょうね。
そんなところまでお互いに付き合って、
暗くなるまで試合をしなくても
いいと思うんです(笑)。 |
中沢 |
僕も、いいと思います(笑)。 |
糸井 |
吉本さんは、
埴谷さんが言いたかった気持ちは分かると
今ではおっしゃいますが、
あのときには、もう
喧嘩だ、喧嘩だと。 |
中沢 |
どうして吉本さんがいきり立って
あんなに仲のよかった埴谷さんに
食ってかからなきゃいけないのか。
僕にはぜんぜん分からない。
いまだによく分かりません。
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糸井 |
なにも、コム・デ・ギャルソンを
着たからって──そういえば、
先日の人見記念講堂の講演のとき、
吉本さんは、ハワイ土産の
なんでもないTシャツを
着ておられましたよ。
なにか呪術的な意味でも
あるのかとさえ思いました(笑)。
きっと、埴谷さんとしては、
「吉本はおしゃれじゃないところがよかったのに、
コム・デ・ギャルソンを着たら
けっこう、似合ってるなぁ」
ということだったのでしょう。 |
中沢 |
そうでしょう。 |
糸井 |
いずれにせよ、論争があったことは
伝説になったけれども、
必要のない論争をしたという気さえします。 |
中沢 |
吉本さんには、そういうことが
たくさんあるんじゃないですか。 |
糸井 |
必要のある論争でも
なにもそこまでそんなに
一生懸命やらなくてもよかったんじゃないかな、
というものもありますから。 |
中沢 |
しかし、江戸っ子ってやつなんでしょう、
「俺は行くぜ」と
やっちゃうところが
吉本さんのいいところなんですよね。
でも、僕らは当時、
そういうことばかり目についていたから。 |
糸井 |
そういう論争やノイズが、
吉本さんの根底にある動機を、
すごく見えにくくしてきたんでしょう。
しかし先日の、人見記念講堂での講演は、
「1945年の8月15日にラジオ放送があって」
というところからはじまりました。
その終戦の日、どうしていいか
分からなくなったというところから、
世界のつかみ方を知らなければ
生きている意味がないじゃないかと思って
必死で考えた、というところがはじまりです、
と、吉本さんは明言しました。 |
中沢 |
ええ。感動しました、あれは。 |
糸井 |
そこから5、6年のあいだ
必死で知りたくて勉強した、ということを、
誰かが伝えてさえくれれば、
なぜ『共同幻想論』を書いたか、
なぜ『言語にとって美とはなにか』を書いたか、
学生だった僕らも
少しは分かって読むことが
できたかもしれないです。
なんだか、淀川長治抜きで
映画が上映されちゃったみたいな感じがあって。 |
中沢 |
うん、うん(笑)。
(続きます)
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