めぐみさんについて。
永田泰大
2018-08-31
今年の夏は暑すぎて、
猛暑というよりは酷暑として記憶されるだろう、
といった話はもう、何度もくり返されているから
わざわざ書かないとして、
ぼくはひとつ、台風について言いたい。
今年の台風って、ちょっとおかしいですよね?
ふつうの台風ってこうじゃなかったぞ、
というような面が多々ありますよね?
‥‥というふうに書きはじめると、
この文章はたいへんスムーズに
読者のみなさんに受け入れられることだろうと思う。
なぜなら、今年の夏は暑くて、
その話題はみんながしていて、
さらに最近の台風は例年に比べて
数も動きもかなり変だから。
そういう日常にあって、
たまたま読みはじめたこの文章が、
暑い夏と異常な台風について語っていたなら、
うん、うん、そうだろ、というふうに
共感しながら読み進めることができる。
あるいは、まったく違う話だけれど、
こういう感じで書きはじめてもいい。
ついに夏休みも終わり
小中学校も新学期を迎えますが、
みなさんは夏休みの宿題を
ぎりぎりまでやらない人でしたか?
それとも、7月中に終わらせるタイプ?
‥‥ほら、自然に読めるでしょう。
なぜならいまは夏休みが終わり
学校がはじまった時期であって、
そのタイミングで夏休みの宿題の思い出について語るのは、
必然性があり、お約束であり、誰も不思議に思わない。
逆に、よくない例を挙げるとすると、
こんなふうに書いてあると
読みながら「んん?」と感じるのではないか。
私は思うのだが、
豆まきの豆を年齢の数だけ食べるというのは、
いささか無理のある話ではないだろうか。
‥‥急に何を言い出すのか、という感じがする。
だって30度を超える日がまだまだ続いているというのに
豆まきの話題は不自然でしょう。
そういったことを踏まえると、ある文章を読む人は、
「なぜそれが書かれているのか?」ということを、
どうやら無意識に気にしている。
たぶん、文章に限らず、テレビ番組や、
お買い物情報なんかを受け取るときも、
ああこの時期はセールだなとか、
いろんな必然性を自然に感じ取っている。
そしておそらくそれは文面の季節感のみを
チェックしているわけではない。
たとえば文章のはじまりがこうだったらどうだろう。
私は、力士のまわしの色は
紺に限ると思っている。
‥‥知らんがな、という感じがするでしょう。
なんだか無礼な印象すらするでしょう。
でも、たとえばこの唐突な一文も、
はじまりに少しのことばを加えるだけで
ずいぶん受け入れやすくなるのですよ。
ちょっとやってみましょう。
先日、チケットをもらって久々に大相撲を観た。
そこで確信したのだが、
私は、力士のまわしの色は
紺に限ると思っている。
‥‥ほらほらほら。
冒頭に多少のクッションが入っただけで、
まわしの色の「知らんがな」感が
ずいぶん減ったでしょう?
「チケットをもらって大相撲を観た」という、
きっかけがはじまりに書かれているだけで、
筆者が「力士のまわしの色」について
わざわざ述べることの必然性が
すこしは感じられるようになったでしょう?
あ、断っておきますけど、
ぼくはここで力士のまわしの色について
語りたいわけではないのです。
どうしても力士のまわしの色について述べろ
と言われたらぼくは黒がいいと思いますけれど、
そういうことを語りたいわけじゃないんです。
つまり力士のまわしの色についての話は
ただの例え話というか例文に過ぎなくて、
ぼくが言いたかったのは
経緯やきっかけのない文章の唐突さについて、
みなさまに伝えたかっただけなのです。
ちなみにぼくが黒いまわしを好きな理由は
やはり名横綱千代の富士の全盛期に相撲をよく観たからで、
おいおいおい、なんだよ結局語るのかよ、
と思うかもしれないけど、
これは、語りませんよと書いたことによって思いがけず
自分が自分にネタを振ったかたちになってしまったから
つい横道にそれちゃっただけで、
横道にそれたくて横道にそれたわけではないのです。
いやはや、これではちっとも論が進まん。
枚挙にいとまがない。人の口に戸は立てられない。
じゃあ、
話の入口をがらりと変えてみよう。
力士のまわしの話も、文章の書き出しの話も、
すっかり忘れて新しい入口から進んでみてください。
いいですか?
何が書いてあるのか、よりも、
誰が書いているのか、が大切だという話があります。
たとえば、
「朝からハンバーグを食べた。」
という一文があるとする。
これを、たとえば、
イチロー選手とか石田ゆり子さんとか高橋一生さんが
SNSかなんかに書いたとしたら、
読んだ人は、わあ、そうなんだ、と思うでしょう。
「そうなんですね」とか
「おいしかったですか」とか
「朝からしっかり食べるんですね」とか
お返事のコメントだってたくさんついちゃうと思う。
ところが、ふつうの人が、
「朝からハンバーグを食べた。」と書いたところで
おそらく人々はそれに対してとくに反応しない。
たとえば、誰でもいいんだけど、
都内でひとり暮らしをしているぼくの兄とかが、
今日の朝、ツイッターかなんかに
「朝からハンバーグを食べた。」と書いたところで、
人々は「ふーん」で終わりである。
念のために書いておくけれども
もちろんこれは例え話で、
ぼくの兄は今朝ハンバーグを食べていないし、
「朝からハンバーグを食べた。」と
ツイートしたりもしていないわけで、
「朝からハンバーグを食べた。」というのは、
いまぼくが咄嗟に書いたデタラメであって、
だいたいぼくの兄はツイッターをやってないし、
もっというなら、そもそもぼくには兄がいない。
姉と妹はあるが、兄と弟はいない。
あっ、しかし、姉と妹はともに結婚していて、
その意味でいえば義兄と義弟はいる。
しかし、義兄も義弟も、おそらく
今朝、ハンバーグを食べたりはしていない。
いったいこれはなんの話だろう、と
さすがにあなたは思っているかもしれないから、
人々があきれてこの文章を追うことを
あきらめてしまうその前に、
ここまでのところを大きくまとめてぼくは言いたい。
何を書くのか、よりも、
誰が書くのか、よりも、
文章を書くにあたって大切なことは、
「なぜ書くのか」ということである。
書く必然、書くきっかけというのは、
書くにあたって、
あるいは書かれたものを読むにあたって、
たいへん重要なことであるといえる。
たとえば夏になると連載されて先日めでたく書籍にもなった
「ほぼ日の怪談」という人気コンテンツがあるけれども、
これ、内容が怖くておもしろいということであれば、
冬に連載したっていいはずじゃないですか。
お母さんありがとう、っていつも思ってるんだったら、
母の日じゃなくても作文に書けばいいじゃないですか。
言いたいことや書きたいことがあるんだったら、
流れとかタイミングとかきっかけとか気にしてないで、
思ったときに、感じたときに、書けばいいじゃないですか。
ところが、やはりそう簡単にはいかなくて、
書く必然性や納得のいくきっかけもなく、
ただただ「私はそう思った」ということが
ぽーん、と書かれていると、
読み手は無意識の部分でちょっと疑ってかかってしまう。
え、急に何言ってる? と思ってしまう。
これがたとえば多くのファンを持つ
著名なエッセイストとかなら話は違って、
ぼくはこう思ったよ、というだけのことを書いたとしても、
積み重ねてきた技術と実績と信頼から
きちんと求められて読まれて拍手を受けるだろう。
しかし、とあるウェブサイトで
一般に向けて掲載されるふつうの文章に、
筆者がそう思ったというだけのことが書かれていても
それはきっと歓迎されないだろう、
というふうにぼくは思う。
さて、みなさん。
驚いたことに、ここまでのところは、
いわゆるひとつのイントロダクションであって、
なんとなんと、本題はここからである。
つまり、ここまでは序章の序章で
飛ばし読みでいいからここからがぼくだよ。
さあ、満を持してぼくは本題を切り出します。
それはこんなふうにはじまります。
私たちの会社では、一年に一回、棚卸しをやる。
一般に「棚卸し」とは、決算に備えて、
在庫の数量をきちんと数えることだけれど、
弊社のそれはちょっと独特で、
棚卸しの日には乗組員全員が朝会社に集合してバスに乗り、
千葉方面にある倉庫に行って、
それぞれがリストを片手にあちこちに散り、
棚にある在庫の数を片っ端からカウントして
記載された数と項目ごとに照らし合わせていく。
朝からひたすら棚に積まれた在庫を数えて、
お昼ご飯にお弁当を食べて休憩して、
そののち午後も延々と棚の商品を数える。
手帳とか、タオルとか、本とか、ハラマキとか、
そういうものをひとつひとつ、
目で見て、指で確認して、数えていく。
冗談みたいだけど、ほぼ日ではここ数年、
全員参加でこれをやっているのだ。
ずっと数えていると飽きもくるので、
毎年、なにかしらの工夫をしている。
たとえば去年は全員が仮装してやった。
おかしなかぶり物とか変なコスチュームとかをまとって、
非日常的な感じで棚の商品を数えた。
最後はレ・ロマネスクさんが歌をうたってくれた。
もちろんそれはコンテンツにした。
そういうふうに、
「いろいろやってたのしく数えよう」というのが
我々の毎年の棚卸しのコンセプトなのである。
で、今年の棚卸しのトピックが何かというと、
ジャジャーン、「宝探し」だった。
数えている商品の合間などに、
「お宝チケット」なるものが忍ばせてあって、
それを見つけるとクジ引きができる。
賞品は、わりといいものから
しょうもないものまで色々とあって、
たとえばマッサージ機とか
野球のチケットとかも当たったし、
花火とか塩とかお菓子とかももらえたりした。
なかには乗組員が当たった人のために何かをしてくれる、
というタイプの賞品もあって、
例を挙げれば、かつて『婦人公論』や『考える人』の
編集長を務めていた河野通和さんが、
当たった人のために本を3冊選んでくれるとか、
絵がうまいヒロセがポートレイトを描いてくれるとか、
運転が得意な西田くんが家まで車で送ってくれるとか、
そういうものもあった。
その賞品のひとつにぼくが関わるものもあった。
なにかというと、当たった人について、
ぼくがコラムを書く、という賞品である。
それがほんとうに賞品たり得るのか、ということは、
いまさらぼくが論じることではないとして、
どうあれ、ぼくはその人について何か書かねばならない。
その賞品が当たったのは、
弊社の総務を担当している、めぐみさんである。
ぼくがめぐみさんについて書くのは、
つまり、そういう経緯である。
そして、思い出してほしい。
何を書くか、よりも、
誰が書くか、よりも、
なぜ書くか、ということが重要だということを。
そう、いま、ぼくはそれを順番に説明した。
ぼくが書く理由を。
書くにいたるきっかけとプロセスを。
さあ、だから、ぼくがこれから書くにあたっては、
すべての手続きは無事に終えられ、
万人に経緯が了承され、
行く道の先に何ひとつ障害がなく、
晴れ晴れとした風景が広がるばかりである。
ここからは、ただぼくがめぐみさんについて
思うことをのびのびと自由に書けばいいのだ。
だって、まさかあなたも、
「なんで書くの?」とは言わないであろう。
機会を与えられて、じつはぼくは喜んだ。
そのおかしな権利を得たのが総務のめぐみさんだと知って、
ああ、それはよかったとこっそりうれしがった。
なぜというに、そもそもぼくは、
めぐみさんについて思うことがある。
彼女について言いたいことがしっかりとある。
しかし、前段で非常識なほどたっぷりと述べたように、
言いたいことがあるからといって、
それをスッと言ったり書いたりできるかというと
残念ながらそれは大きな間違いであり、
おそらくこういうおかしなきっかけでもない限り、
めぐみさんについて思うことを
ぼくはどこかに表したりは決してできなかったろう。
ところが、いまや、ぼくはそれを書くことができる。
なぜかというと、そういう賞品が企画され、
その権利をめぐみさんがゲットしたからだ。
決まりだからそれを書かねばならないのだと
アンニュイに気取ることもできるが、
ここは素直にたまたま得た機会を喜ぼうと思う。
ユニークなきっかけを得て、
ぼくが言いたいことはたいへんシンプルである。
それはただ一行に凝縮できると言ってもいい。
もったいつけずに、その一行をまず書こう。
めぐみさんは、美人である。
ああ、書いていて気持ちがいい。
タイピングする指先が痛快だ。
そう、みなさん、めぐみさんは美人なんです。
そこでいう「美人」とはなんですか、
ということについては、
個人によって定義が異なると思う。
ぼくはそれについては問われずとも
常日頃からよく考えているので、
すみやかに自分の答えを示そう。
一般的に正しいかどうかを気にせず、
ぼくの思う美人の定義を述べるなら、
美人とは正面から顔面をとらえたときの見かけが
美しく整っているということのみならず、
その人全体がきれいであることが肝要である。
要するに、美人って、フォルムだとぼくは思う。
簡単にいえば、どこから見てもきれいな人が美人だ。
正面からだけでなく、
横から見ても、後ろから見ても、
左斜めあたりから見ても、
ちょっと下から見上げてみても、
遠くから離れてみても、
顔にかぎらず立ち姿として、
シルエットとして、
全体のその人らしさをぜんぶ含めて、
きれいな人が美人だとぼくは思っている。
その点、めぐみさんは、全体に、どこから見ても、
ああきれいだなあと思える人である。
痛快なタイピングをさらに続けよう。
めぐみさんは
全体のフォルムとしてきれいであるだけでなく、
好感が持てる美しさであることも書いておきたい。
なんというか、美人として感じがいいのだ。
だから、たぶん、ここは想像が混ざるけれど、
めぐみさんは男性から見て美人と感じるだけでなく、
女性から見ても好もしく思える美人なのではないか。
その根拠としてひとつ事実を挙げると、
めぐみさんは、ほぼ日の商品を紹介する写真のなかに、
しばしばモデルとして登場する。
自分たちが企画して、仕様を決めて、制作して、
ついに完成してそれをお客さんに届けるという
とても大切な発売の間際において、
商品を苦労してつくったチームの人たちは
まさかその商品の重要な写真に
好ましいと思わない人をモデルにしないだろう。
ゆえに、めぐみさんの容貌や雰囲気については、
男女を問わず好感を持っているはずだとぼくは確信する。
もうひとつ書かせてください。
めぐみさんは、美人ではあるが、
美人としての存在感がいい意味で薄い。
いってみれば、美人として押しつけがましくない。
そのあたりも、みんなが好感を持つ理由だと思う。
だから、たとえば、
自分の会社の総務として働いているとき、
美人であるということはたぶんあまり意識されない。
めぐみさんは、平熱で、平温で、平穏な美人なのである。
これは、同じ会社に美人がいるときに、
変な言い方だが同僚としてとても助かることである。
だって考えてもみてほしい。
いくら美人だからといって、
スカーレット・ヨハンソンとか
アン・ハサウェイみたいな美人が総務にいたら、
その、うれしいけど、落ち着かないでしょう?
突然、内部資料をコピーして、
窓を蹴破って投げキッスして去って行きそうでしょう?
めぐみさんは、そういうことはしない。
当たり前である。
言うまでもないことだけど、
その人の内面や人格と切り離された外見のみを褒めると、
ほめていない部分が否定のように思われてしまうので
きちんとフォローしておきますが、
これまで述べたぜんぶの賛辞の前提には、
めぐみさんが誠実に仕事をしていて
男女を問わずみんなから
信頼されているという事実があります。
ほんとのほんとのことをほんとに言えば、
めぐみさんは美人である以前に、
ほぼ日の信頼すべき総務の一員であり、
それがもっとも重要なことなのです。
それから、身につけるもののセンスがよくて、
着てる服が本人にとても似合っていたり、
いつもにこにこしていたり‥‥と、
美人である以前に肯定したいことは
ほかにもたくさんあるし、
美人であるということについても
もっともっと細かく述べたいのだけれど、
あんまりやるとご本人にも迷惑だろうし
(すでに十分迷惑だと思う)、
ぼくの思う大きな軸は書けたと思うので、
このへんでグッと堪えてやめておく。
パーソナリティーとしてひとつつけ加えておくと、
めぐみさんは一児のお母さんでもある。
ここまでのところを読んで、
それで、いったいどういう見かけなのよ、
と感じてる人も多いと思うので、
載せるも野暮、載せないのも野暮、
というバランスを踏まえて
一枚だけ写真を載せておく。
ほら、きれいでしょう?
▲めぐみさんがundoseのバッグのモデルを務めたときのもの。
カメラマン:insects (Ryusei Imai, Boettcher Kai)
さて、大勝負を終えた棋士の感想戦のような感じで、
おしまいにひとつ述べるけれども、
今回、ぼくが書いたようなテーマ、つまり、
「同僚のことを美人だと感じている」ということは、
なんと表現しづらいことであるだろう。
同僚に限らず、クラスメートを、あるいは友人を、
ちょっとした知り合いを、顔を合わせる誰かを、
つき合いたいとか口説きたいとかそういう要素なしに、
(そりゃ完全にゼロとは言わないがほぼ無関係に)
「ああ、きれいだな」と思うことは、
すごくふつうにあることだとぼくは思う。
それはもう、男性から女性をという方向性だけでなく、
逆からでも、同性でも、あると思う。
しかし、そう思う気持ちがどれだけ純粋でも、
それを屈託なく表現することはかなり難しい。
一般に公開される表現としてはもちろん、
ちょっとした会話においてさえ、
きっと簡単なことではない。
おいしい蕎麦を食べて「うまい!」は言えるし、
満開の桜に「すごいなあ」と感嘆できるし、
映画の感想として「おもしろかったよ」と伝えられるし、
窓を開けて吹き込んできた涼しいそれに
「うわあ、いい風ー!」とつぶやけるというのに、
自分の同僚がきれいだということを
ふつうのテンションで表現することはたいへん困難だ。
ああ、だからこそ、それを、
古来から表現者たちは
テーマとして好むのかもしれない。
きっと、そうだ。
画家が恋人を何度もくり返し描くのも、
世界にツバを吐くようなミュージシャンが
歌の中で誰かの名前を連呼するのも、
年老いた作家が最晩年においてさえ
瑞々しい物語としてそれを構築するのも、
つまり、そういうことなのだと思う。
この長く暑苦しく
ややこしいコラムを締めくくるにあたり、
いま、ぼくはそんなふうに思っている。
最後の最後に、めぐみさん。
このような、無駄にボリュームのある文面で、
「‥‥そんなこと言われても」
としか反応できないようなことを
書いてしまってすみません。
まさか、棚卸しのクジの賞品が
こんなことになるとは思わなかったでしょう。
いや、ぼくだってそうなんですよ。
めぐみさんは美人だな、という
ライトなコラムを仕上げるつもりで書きはじめたのですが、
こんなところに辿り着いてしまいました。
めぐみさんを、このようなおかしな読み物の
主役にしてしまって、たいへん恐縮です。
いやぁ、人生、何が起こるかわからないものですね。
で、ぼくは思うんです。
何をするにも、きっかけというものが必要で、
そのきっかけはどこに転がっているかわからない。
たとえばそれは倉庫の棚に積まれた荷物の隙間にあって、
あなたに発見されるのを待っているかもしれない。
( お し ま い )