笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集 笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集
元ほぼ日乗組員の笠井宏明さんが、
老人ホームに入ったと聞いて驚いた。

12年前までは海外の工場とのやり取りなどを
ばりばり仕切っていた笠井さんだ。
ときどきお会いすると相変わらず姿勢がよくて、
しゃきしゃきしゃべるあの笠井さんだ。

「老いと死」の特集をやるまえから、
ぼくは笠井さんがなぜその判断をしたのか、
話を聞いてみたかったのです。
#1 待ち合わせ
ほぼ日で「老いと死」についてのコンテンツを
いくつかつくろう、という話が出たとき、
ぼくが真っ先に思いついたのは、
笠井さんに取材することだった。



笠井宏明さんは元ほぼ日の乗組員で、
62歳で大手広告代理店を退職して
当時はまだ株式会社東京糸井重里事務所
という名前だったほぼ日に入り、
65歳まで会社の基礎を整える仕事をしてくださった。
今回、お会いしてあらためて知って驚いたのだけれど、
笠井さんがほぼ日を去ってからもう12年も経つという。



もうすこし詳しく書く。
笠井さんは大手広告代理店、
具体的にはADK(アサツー ディ・ケイ)で
取締役を務めたあと、
定年の直前にほぼ日に転職した。
当時のほぼ日は発展の途上で、
いや、いまも発展途上だけれども、
いまよりももっともっとほんとうに発展途上で、
とにかくお客さんと向き合うことに必死だったぼくらを、
笠井さんは、会社の仕組みを
根本的に強化するかたちで支えてくださった。
と、いうことが、いまなら、よくわかる。



いってみれば、笠井さんは大人の乗組員だった。
毎日、ウェブサイトを更新し、
新しい商品をどんどん開発していたぼくらが、
その動きをずっと続けられるように、
品質や在庫の管理とか、流通や生産の改善などを、
海外を含むさまざまな企業とやり取りしながら
自ら現場を飛び回って根っこから整えてくれた。



そんな、尊敬すべき先輩、笠井さんが、
老人ホームに入ったと聞いて、
正直、ぼくは驚いた。



これまでのところを読んでいただければわかるように、
笠井さんは、ばりばりのキレキレだ。
年齢的にはもちろん高齢だけれども、
いわゆる老人ホームというイメージからは程遠い。
もちろん、ぼくが老人ホームという場所を
きちんとイメージしきれていない
ということもあるとは思うけれど。



実際、年に何度か株主総会などでお会いするときも、
一緒に働いていたときと変わらぬ立ち振る舞いで
近況などを伝えてくれて、
いつお会いしても、どこでお会いしても、
変わらず「笠井さん」だった。



だから、そういう施設に入られたと聞いて、
最初はご病気をされたのかと不安になった。
しかし、そうではないという。
どうやらそれは彼の「判断」であるという。



その話を、もともとぼくは聞きたかった。
笠井さんがどういうジャッジをしたのか。
どういう背景で、なにを根拠にしたのか。
おそらく、笠井さんは、明快に、理路整然と、
スパスパと切りさばくように、
それを語ってくれると思った。



そんなとき「老いと死」の特集の話が持ち上がったので、
ぼくはすぐに笠井さんにメールを書いたのだ。
取材に行くのでお話を聞かせてくれませんか、と。



思ったとおり、笠井さんはすぐに返事をくれた。
そこにはもう取材の進行プランが書かれていた。
候補の日はこことこことここで、
この駅に何時頃に来れば迎えに行きます、
あとはこういう時間配分でどうですか、
という見事な段取りと見通しと気遣いが、
最初の返事のメールにすべて書いてあった。
それを読んで、ああ、笠井さんだ、
とぼくはうれしくなった。



そして、ますます疑問は深くなった。
いま仕事の現場に復帰しても間違いなく
リーダーシップを発揮するであろう笠井さんが、
どうしてその判断をしたのだろう、とぼくは思った。
と同時に、笠井さんと久々に話せることが
ぼくはとてもたのしみだった。



取材当日、指定された駅の改札から出ると
(「改札はひとつだけです」と書き添えられていた)、
そこに笑顔の笠井さんが立っていた。
あいかわらずの笑顔で、姿勢がいい。



やあどうもわざわざどうもいえいえこちらこそ、
などと挨拶しながらぼくは慌てて、
ICレコーダーのスイッチを入れた。
笠井さんはぽんぽんしゃべる。
あいかわらず、威勢がいい。
写真
「俺、62歳でほぼ日に入ったんだけど、
考えてみると、実質、
いたのは4年くらいなんだよねぇ。
俺が入ったときのオフィスは
あそこ、そう、骨董通り。
そこからブルックスの上に行って、
また引っ越すっていうんで、
外苑前の物件決めるお手伝いをしてねぇ」



ちなみに笠井さんはばりばりの江戸っ子で、
一人称は「俺」で、
口調もわりとべらんめぇ調である。



その日の取材はぼくと、
ぼくと同じく笠井さんをよく知っている
デザイナーのたぐちゃんこと田口と、
ふたりでうかがった。



同じ時期を一緒に過ごした3人だから、
老人ホームへ向かうバスのなかで昔話に花が咲く。
録音データから、笠井さんのことばを拾ってみる。



「俺、ほぼ日に入ったとき、この会社、
どうやって回ってるんだろうと不思議に思ったよ。
働いてる人たちはさ、みんな企画系の仕事をしてる。
俺みたいな、いわゆるBtoBの仕事をしてる人間って、
当時、ほとんどいないに等しい状態だった。



乗組員のみんなは、ひとつひとつの企画に純粋でね。
俺からするとびっくりするようなことが多かった。



たとえば、ひとつの商品がすごく人気があるのに、
なぜかふっと発売されなくなる。
どうしたの? って担当者に聞いてみると、
つくってた工場と条件が合わなくなった、と。



俺からすると、ものをつくっていると
そういうことはよくあるんだよ。
商品を立ち上げるときは、自分たちも工場も
お互いにぎりぎりでがんばる。
でも、軌道に乗って回りはじめると、
向こうも商売だからいろんな要望を言ってくる。



じゃあ、工場を変えればいいじゃねぇか、って言うと、
その工場じゃないと品質が保てない、と。
それはよくわかるんだ。
ほぼ日って会社はそこを妥協しちゃだめなんだ。



でもね、待ってるお客さんがいるんだよ。
そこで、工場と条件が合わないから出せない、
という結論は、俺の感覚ではありえない。
じゃあ、新しい工場を探すしかない。
品質が保てないなら、保てる工場を探すしかない。



っていうことはね、これ、
まえの広告代理店だったら5分で終わる話だよ。
でも、ほぼ日だと、担当者を説得するのに
2時間くらいかかったなぁ(笑)。
元の工場との縁もあるからって、
それもよくわかるんだ。
でも、俺も手伝うから、いろいろ探してみようって。



けっきょく、あの頃のほぼ日は、
BtoBの交渉みたいなところに
ノウハウがなかったから後手に回っちゃうんだよね。
もちろん、俺にだってそういう工場に
知り合いがいるわけじゃないから、
そうなったらしかたがない、
ある程度の目星をつけて工場を回ったよ。



でも、いきなり行っても効率が悪いからね、
まず、その業界の組合の会長に会って、
そこから紹介してもらって、ある会社の社長に会った。
ちゃんと紹介状を持っていかないとだめだ。



社長に会って、これこれこういうものをつくりたい、
というと、案の定、それは無理だと。
良すぎる、オーバースペックだ、と言うんだね。
でも、それだけの良いものをつくれば、
ちゃんとその値段を払ってくれる人が
うちのお客さんにはいるんだ、ってことを説明してね。



それでもなかなかわかってくれないから、
まずは1回トライアルとしてやってみましょう
ってことで、最初のつながりをつくった。
で、1回つくって売ってみせると、
向こうも信用してくれるんだよ。



まあ、そういうことばっかりやってたなぁ、
ほぼ日にいたころはさ。
まだ社員も30人とか、40人だったんじゃないかな?



ADKを辞めてほぼ日に入るとき、糸井さんに、
『お手伝いできることがありますかね?』って聞いたら、
『山ほどあるよ』って言われたんだけど、
入ってそれがよくわかったよ(笑)。」
写真
バスのなかで、
思い出のページがどんどんめくられる。
荷物を積んだトラックが事故にあった話、
中国の工場が火事になった話、
交渉するときに3つのプランを持っていく話‥‥。



ああ、あった、あった、
ありましたねぇ、なんて話していると、
あっという間に時間が過ぎて、
笠井さんはぽんと話を打ち切る。



「はい、着きます」



そうそう、笠井さんはそうだった。
自分の話をだだだだだっと話して、
終わると自分で打ち切ってさっと立ち去ってしまう。



バスは立派な建物の前についた。
どうぞどうぞ、と笠井さんが先導する。



そこが、笠井さんの入った老人ホームだった。
(もちろん、つづきますよ)
2025-03-18-TUE