笠井さんが、
この老人ホームに入ることを決断した理由のひとつは、
25歳のとき、鹿島の海で溺れかけたことをきっかけに、
「60歳から先の人生」を考えていたことだった。
そして考えているだけではなく、
そこに向かって、50年以上もかけて、
きちんとお金を蓄えていたこと。
そしてもうひとつ、決断を後押ししたこと。
それは、10年くらい前のことだったという。
「いまから10年くらい前、
まだほぼ日にいた頃なんだけどね、
近しい親戚から俺に、ある相談があった。
自分の年老いた両親を、
老人ホームなのか、ケアハウスなのか、
介護施設に入れたい、と。
当時、そのご両親は、別の親戚と住んでいた。
でも、一緒に住んでいたその親戚は、
高齢のふたりを介護施設に入れることに、
なかなか向き合おうとしなかった。
そういうことを、
当人たちと話したり決めたりするのは、
関係が近すぎるとなかなか難しかったりする。
それで、ちょっと遠い、
俺のところに相談が来たわけ」
ああ、それはなんだかわかる気がする。
ご高齢の方とずっと一緒に住んでいる人が、
いきなりそれを切り出すのは難しそうだ。
そこで笠井さんはまず、ご両親ではなく
一緒に住んでいる人たちと話すことにしたが、
彼らも年老いたふたりの面倒を
きちんと見ているという自負があって、
なかなかことはスムーズに進まなかったという。
「さいわい、資金はあった。
俺に頼んできた親戚もそのお金を準備していたし、
ご両親も自分たちの老後のためにということで、
すこしは蓄えがあった。
でも、なかなか、話が進まなくてね、
ずるずると時間が過ぎてしまった。
とはいえ、ご両親はもう90歳を過ぎてるし、
住んでいる家は古いから、
バリアフリーじゃないのはもちろん、
ご飯のたびに階段の上り下りもしなきゃいけない。
そのうちに、当のご本人から、
『施設に移りたい』っていう話が
直接俺のところに来た。
自分にはこれだけの資金があるから、
入るところを探してくれって言われた」
おそらく、笠井さんの実行力は、
親戚のなかでも抜きん出ていたのだろうと思う。
笠井さんは、いろんな人に頼られる人なのだ。
「そういうことになったら、もう、
いろんなことを気にしていられない。
ご両親を含む、親戚、関係者を集めて、
俺は現実的な話をした。
これから俺が入る場所を探すから、
みなさん、そのつもりでいてくれと。
そこからは俺も勉強して、
どういう老人ホームがいいのかを検討していった。
さっき、食堂で、永田さんたちに、
老人ホームの選び方の基本を説明したけど、
あれはこのときに学んだことがほとんどなんだ。
本人の健康状況と、かけられるお金。
場所、規模、料金、いろいろ調べた。
それで、あるところに決めて、
いろいろと準備をして、ご両親は無事に移った。
ご両親は、ほんとうによかった、安心した、
って、俺にお礼を言ってくれた」
‥‥でもね、と笠井さんは言った。
「でもね、やっぱり、
そのときご両親はご高齢だったし、
準備していた資金にも限りがあったので、
ものすごく快適な施設に入った、
とはいえなかった。
ちゃんと個室もあるところだったけど、
寝るときは個室に鍵をかけなきゃいけなかった。
つまり、認知症の人たちも、
同じスペースを共有していたからね。
夜は玄関に鍵がかけられた。
勝手に外に出て行けないようにね。
その老人ホームを俺も何度か訪ねたけど、
大声を出している人たちもいるし、
まあ、いろんなことがあって、
正直、自分の残りの人生を過ごす場所として、
俺はもっといいところを選びたいと思った。
女房とも、そういう話をしていた。
ともかくふたりで生活できるうちは、
いまの家で生活をして、
それが難しくなってきたら、
先の暮らしをどうするか考えよう、
どういう施設がいいかちゃんと探そうよって、
ふたりで決めてた。
そしたら、7年半前。
女房が死にました」
笠井さんがほぼ日を辞めてからしばらくして、
奥様が亡くなられたということは、
当時、社内でも共有されていた。
ふたりで老人ホームを探す予定だったが、
それはかなわないこととなった。
「女房が死にました。
そのあとはひとりです。
掃除、洗濯、炊事、買い物、
毎日、自分でやって、
それはとくにつらくもないし、
苦しくもなかったんだけど、ふと考える。
いまは元気だけど、たとえば5年後、
ひとりで同じようにできるか?
買い物に行って、3食ぜんぶつくって、
洗い物して洗濯して干して畳んで掃除して、
っていう生活を、
5年後もひとりで続けられる保証はない。
そして5年後じゃないかもしれないけど、
いつか、俺がそこに入る日はやってくる。
そうすると、もう、考えざるを得ない。
それで、自分が施設に入ることを、
具体的に考えはじめました」