笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集 笠井さんが老人ホームに入った。 ほぼ日の老いと死特集
元ほぼ日乗組員の笠井宏明さんが、
老人ホームに入ったと聞いて驚いた。

12年前までは海外の工場とのやり取りなどを
ばりばり仕切っていた笠井さんだ。
ときどきお会いすると相変わらず姿勢がよくて、
しゃきしゃきしゃべるあの笠井さんだ。

「老いと死」の特集をやるまえから、
ぼくは笠井さんがなぜその判断をしたのか、
話を聞いてみたかったのです。
#4 25歳のときに決めたこと
ぼくらは食堂から別の応接室のようなところに移る。
ここも、他の部屋と同じように明るくて清潔だ。



ぼくは笠井さんと向き合い、
ICレコーダーを置いて、スイッチを入れて、
あらためて口火を切る。



「それでは、あらためて、よろしくお願いします。



今日、ぼくがここに来て、
笠井さんにいちばんお聞きしたかったのは、
シンプルにいえば、
どうしてこのタイミングで
老人ホームに入ることを決断したのか、ということです。



笠井さんが年齢的にまだお若いことはもちろん、
こうしてお話ししていても、
ほぼ日にいたころとまったく変わらないじゃないですか」



うん、と笠井さんはまず相づちを打つ。
そして前提を確認する。



「俺は永田さんを信用しているので、
しゃべったことのどこをどう切り取るのか、
そこはもう、ぜんぶ、お任せします。



あと、永田さんが取材に来た
目的というかテーマというか、
それを自分がちゃんと把握しているとも思えない。
だから、これを話せばいいんだな、ということが
ちゃんとわかってないかもしれない。



だから、まあ、そのへんのことは、
ちょっとこっちへ置いといて。



どうしていまここに入ったかということは、
すごく遠い昔のことから
話しはじめることになるんだけど」



それでもいいかい? と、笠井さんはぼくを見る。
むしろそのほうがありがたいです、とぼくは言う。
笠井さんは、25歳のころのことを話しはじめる。
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「俺が25歳、まだ独身のころ、
会社に入ったのが22歳だから、
たぶん、入社3、4年目。
会社がADKになるまえの第一企画だったころ。



7月のある日、俺と、俺の親友と、
同僚の女の子と、それから俺の従姉妹の4人で、
鹿島に海水浴に行きました。



そこで、溺れかけたんです。



海って、川から水が流れ出ているところがあって、
その流れに入っちゃうと、
沖からなかなか返ってこれないんです。



その日、俺と親友は、
たまたまその流れに入ってしまって、
泳いでも泳いでも、進まない。
どうしても岸に着かない。



親友は泳ぎが達者な男だったので、
俺を引っ張って戻そうとするんだけど、
流れが強くて戻せない。
そうこうしているうちに、
これはヤバいな、という感じになった。
ああ、ここで死ぬんだな、と思ったんです。



そのとき、親友に言ったんです。
お前は俺を助けて戻ろうとしているけど、
もう、それは無理だ。
俺が助かる唯一の道は、お前がひとりで戻ることだと。
ひとりで戻れば、みんながいるし、ボートもあるから、
それをつかって戻ってきてくれ、と。



その間に俺が沈まなかったら、
俺は生きていられる。
持ち堪えられるかわからないけど、
助かるのはその道しかない、って言って。
で、結果、助かったんです、ふたりとも」



そこで笠井さんはすこし間をおく。
そのときの気持ちを呼び戻すみたいに。



「それで、そのときに思ったんです。



ああ、そうか、思ってもみないことって、
こんなにかんたんに起こるんだな、って。



それから、先の人生を考えるようになった。
これからどうするんだ、と」
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人生に何が起こるかわからないと強く感じたとき、
その先をどういうふうに考えるかは、
両極端だと思う。



わからないからこそ、考えてもしょうがない、
というふうにとらえる人もいると思うし、
わからないからこそ、しっかり考えて備えておこう、
と考える人もいると思う。



笠井さんは、後者だった。



「そのときに考えて決めたのか、
そこから考えはじめてそのあと決めたのか、
そのあたりはよく覚えてないけど、
ともかく、自分でこうしようと決めた。



会社は60歳まで働こう。
おそらく結婚して子どもはいるだろうけど、
60歳になったら会社生活はやめて、
なにか別のことをして食べていこう。



じゃあ、60歳で会社を定年退職したとき、
そのあと、女房と子どもが食べていくためには、
いくらくらいのお金がなきゃいけないのか。
そんなふうに考えたんです。
25歳か、そのちょっとあとか。



でね、生命保険文化センターっていうのがあるんです。
それは生命保険の各社が集まっている団体なんだけど、
そこへ行って、いくら貯金があれば、
老後平均年齢まで生きられますか、って相談したんです。



いまもあるけど、そのころから、
そういうシミュレーションはあったから。



月々、もらえる年金と、それから平均的に使うお金と、
その差額がいくらくらいになるのか。
60歳から平均寿命までの年数とその差額を掛け算すると、
いくらくらいお金を残しておかなきゃいけないのか。



そういうシミュレーションが
当時の生命保険文化センターにあって、
それと自分なりの目論見を合わせて、
『だいたい2500万か、3000万だな』と思った。
だから、まず俺は、それを貯めるって決めたんです。



じゃあ、どうすればいいのか?」



ああ、じつに笠井さんらしい、とぼくは思った。
25歳の笠井さんも、ぼくの知る笠井さんと同じく、
考え、行動し、決断している。



「会社からもらう給料だけじゃ難しい。
だから、毎月、毎月、長期の積み立てをやって、
さっき話したようにリスクを分散させて、
働くこととは別に、お金を貯めることをした。
たまたま銀行の仕事もやってたりしたので、
証券会社とかに行って知識を得たりしながら」



それを、25歳のころから。



「そうだね」と笠井さんは言った。



さっき、食堂で、
笠井さんがお金を増やす話をしたときに
まったく淀みがなかったのは、
若い頃から当たり前のようにそれを考え、
実践してきたからだ。



鹿島の海で溺れかけたことをきっかけに、
笠井さんがつかみとった人生のリアルな拠り所。
それはお金を運用して3000万円ほどの貯金をつくること。



そしてもうひとつ、笠井さんには
自分の人生の終盤について考えるうえでの
軸となる出来事があった。



「お金の話とはまったく別に、
いまから10年くらい前、
だから、まだほぼ日にいた頃なんだけど、
近しい親戚から、ある相談があった。



自分の年老いた両親を、
老人ホームなのか、ケアハウスなのか、
介護施設に入れなきゃいけない、と」
(つづきます)
2025-03-21-FRI