MONEY IS… vol.01 貧乏と芸術の間の千円札。 赤瀬川原平さんの、とても正直な「お金」の話。
糸井 赤瀬川さんの「ハイレッド・センター」は‥‥。
赤瀬川 60年代。
糸井 じゃあ、その時期には、
そういう活動のできる余裕が、だんだんと?
赤瀬川 そうですね、だんだんとね。
決してお金が自由になったわけじゃないけど。
糸井 赤瀬川さんが、
みんなの知ってる「赤瀬川原平」になるのは
どのあたりからなんですか?
赤瀬川 うーん‥‥「表現」ということで言ったら、
やっぱり「ハイレッド・センター」からかな?
糸井 でも、その場合は、
ある意味「同人的」な知られかたですよね。
赤瀬川 そうでしょうね。「稼いではいない」です。
糸井 ええ。
赤瀬川 あんなもので稼げるわけないし。
糸井 そうですか(笑)。
赤瀬川
はじめて原稿料をもらったって意味でいうと、
「読書新聞」かなぁ。
糸井 『日本読書新聞』ね。
赤瀬川 書評を頼まれたんですけど、
これがまた難しい本でね‥‥。

種村季弘さんと矢川澄子さんの共訳で、
『迷宮としての世界』だったかな。
糸井 いかにもな感じですね。
赤瀬川 その本、おもしろかったんだけど、
つい「何枚で、いつまで」って言われたのが
すっかりどこかに飛んじゃって‥‥。

難しいから読むのにずいぶんかかったし、
常識からいうと
「原稿用紙3枚で、ひと月」くらいだったのかな?

それを3カ月以上も抱え込んじゃって、
枚数も10枚くらいになっちゃったんです。
糸井 ほー‥‥。
赤瀬川 結局、別のカルチャー欄に載っけてもらって
日の目を見たんですけど、
文章の締切だとか、枚数制限とかいうことが
まったくわかってなかったですね。

ようするに「内容」だと思ってたものだから。
糸井 さらには、それで食っていけるなんてことは。
赤瀬川 思ってなかったですねぇ。
糸井 絵を描くほうは、どうだったんですか?
赤瀬川 イラストのほうは‥‥どうだったかな。
もう『現代の眼』では
仕事をはじめてたと思うけどなぁ。
糸井 それ、1965、6年くらいじゃないですか?
赤瀬川 うん‥‥そのくらいかもしれない。
糸井 ぼくが大学1年だったのが、1967年なんです。
で、そのときにはもう、
『現代の眼』の赤瀬川さんの絵は見てましたから。
赤瀬川 あ、そうですか。
糸井 たぶんそのあたりで、
広く、人目に触れるようになったんじゃないですかね。
赤瀬川 なんとか生活していけるようには、なったころだね。
糸井 当時、すでに赤瀬川さんは
「邸宅」に住んでると思ってたんですよ、ぼく。
勝手に誤解して。
赤瀬川 ぜんぜん住んでないよね。
糸井 お話を聞くと、そうみたいですね(笑)。
赤瀬川 同じようなことで言うと、ぼくの「6畳のアトリエ」に
先輩が横尾忠則を連れてきたことがあって。
糸井 へぇ、若いときに?
赤瀬川 うん、当時は市松模様のイラストかなんかを
ペンで描いていて、
「ああ、いい絵描くなあ、こいつ」って
思ってたんだけど、
ぼくも「邸宅」だと思ってましたからねぇ。
横尾さん家のこと。
糸井 たしか『女性自身』とか『平凡パンチ』に
描いてましたもんね、挿絵。
赤瀬川 実際は、ほんと貧乏生活をしてたみたいね。
糸井 そういえば横尾さん、ちょうど昨日くらいから
そのあたりのことを
急にツイッターで書きはじめたんですよ。
赤瀬川 そうなんだ。
糸井 まったく食えてないのに
無理して高いスーツを買ったりしてた、とか。

実家の家が売れて80万円入ってきたんだけど
そのうちの70万円を持って
ヨーロッパに行っちゃった‥‥とかって。
赤瀬川 うん、うん。
糸井 そのころの横尾さんって、
もう、ぼくが知ってる「横尾忠則」だったから、
「そんなだったんだ!」って。
赤瀬川 そうなんだよね、あの人の自伝なんか読むと、
えらい大変そうにやってるんですよね。
糸井 そうなんですよね‥‥。

でも、そうそう、1968〜9年ごろ、
ほんとに、阿佐ヶ谷の赤瀬川さんの「邸宅」を探して
歩いてたんですから、ぼく。
赤瀬川 あ、そう。ないのに(笑)。
糸井 どこかに「赤瀬川」っていう表札がないかなと
思いながら、歩いてた。
赤瀬川 とんでもないねぇ(笑)。
糸井 でも、赤瀬川さんは、そのまぼろしの「邸宅」ぶん、
「見えない価値」を集めてたんですよ、当時。
赤瀬川 時価に換算したら、相当なねえ。
糸井 ねぇ(笑)。
赤瀬川 すごいよ、はははは(笑)。
糸井 でも、逆に言うと、その価値って、
お金があっても、集められないんですよね。
赤瀬川 ああ‥‥うん。
糸井 阿佐ヶ谷に見えない邸宅を建てた、
赤瀬川さんの「見えない価値」っていうのは。
<つづきます!>


2010-06-03-THU