ぼくに初めての仕事を依頼してくれたのは、 このリストの11番目に加えたい方 ──ぼくがまだ大学院に通っていた2003年に、 先生の初期の著作『ためらいの倫理学』と 出会って以来、ひとりのファンとして尊敬していた 内田樹さんなんです。 そもそもの始まりは 2009年12月28日のこと。 内田さんが毎月1回ご自宅で開かれている 甲南麻雀連盟の定例会に参加しました。 大学で講義を受けていた山本浩二画伯が 内田さんの幼なじみ(正確にはSF文通仲間)で、 ぼくが内田さんのファンであることを知って、 誘ってくださったのです。 7年ぶりの麻雀は散々な結果に終わりましたが、 生身の内田さんは想像どおり おおらかで懐の深い、 人を惹き付ける素敵な方で、 一緒に過ごせたことが うれしくてたまりませんでした。 学校で習った訳でもないのに 「内田先生」と自然に口にしてしまう、 こんな出逢いは初めてです。 この日から僕は内田さんを 勝手ながら人生の「師」と させてもらうことにしました。 麻雀をうちながら驚いたのは、 内田さんの口から 「大学教授をリタイアしたら、 合気道の道場を建てたいんだ」 という言葉を聞いたときです (内田さんは合気道6段、 多田塾甲南合気会の師範です)。 ぼくは思わず 「まだ事務所を開いたばかりですが、 建築家ですからなんでもやります!」 と立候補しました。 「でもいかんせん道場だから、 光嶋くんがドイツで修行してきたことは 役に立たないかもしれないよ」 「いやいや、そんなことないですよ。 美術館を設計したことがなくても、 良い美術館を設計することはできます。 料理のできない人でも魅力的なキッチンを デザインできると思っています。 道場を設計したことはありませんが、 いい道場になるように精一杯頑張ります」 と必死で食らいつきました。 「じゃあ土地が決まったら 何かアイデアを出してよ」と 内田さんは言ってくれましたが、 正直、自信なんてあるわけありません。 でも憧れの人が目の前で 「建築(道場)を建てたい」と 口にする瞬間に居合わせるなんて、 そうそう滅多にあるもんじゃないですから、 ここでアピールしなくてどうする?! とがんばったのです。 それから2ヵ月後、 ほんとうに依頼を受けることになり、 心底びっくりしたところから この建築の物語は始まります。