第4回 麻薬としてのニーチェ。
感情を、コントロールできなくなることは、ありますか?
おっ。社会派っぽいですが、いえいえ、いつもながらの、
カーブを曲がりきれずに転びがちな「ほぼ日」木村です。
関係ないけど、ぼく、けっこう前に、
「ニーチェの横顔は犬に似てる。シーズーみたい」
と言って、ドイツ人を怒らせたことがあるんだよなあ。
ま、それはどうでもいいんだけど。
感情をおさえられないことって、ないですか?
わかりやすい例えで言いますと、
好きな人と知りあったりしてる時に
「ありゃ。自分には、こんなに
うれしい感情がひそんでいたのか。知らなかった。
なんか、この気持ちにふりまわされそうで、怖いなあ」
みたいに思ったことのある人は、いるでしょう?
で、世界ってこんなにいいもんなのかよ、とわくわくする。
でも、それは何も、いい感情だけじゃなくて、
憎しみや蔑みというような感情にしても、
「おおおっ。こんなに心は冷えきっちゃうのか」
と、しみじみとさみしくなることもあるだろうし、
自分の感情って、これ、意外とわけがわからないもので。
だから、その感情がどこまで行くのかを、試したくなる。
鼻が溶けそうなくらいに麻薬をやって、
今までになかった色彩や音や揺れを味わおうとする人も、
アウトバーンとかでスピードの彼岸にでかけて、
自分を試しながら異様にハイになっていこうとする人も、
ま、そういう面では、似たようなものだと感じます。
で、ぼくも、そういうことに、とても興味がありまして。
えー。たぶん、
「おおっ、こんないい感じで遊べるんだ」
というところを見たいタイプなんだと、思います。
そのような意味で、最近のぼくにとっては、
ニーチェの本が、妙にある種の麻薬になっているんす。
入りこみすぎるとやばいし、一貫性を求めてもむだで。
だから、火花みたいに楽しみます。
ずーっと読んでいると、ニーチェは、
毒とか悪意とか嫉妬とか人間嫌いな気分を
タガをはずして、まき散らしまくっているけれど、
一方では、自分や他人をほんとは好きになりたくて、
共有したいんだけどぜんぜんできない姿も無防備に出てて。
なんか、かわいいくらいに「もがいている」の。
いろんな哲学者が、この人によって
熱を入れられたのは、よくわかる感じがします。
しかも、なんか知らないけど、彼の書いてるのは
ただ文句を言っているだけの文章とは全然違ってて、
まじめなコトバで言うと「こころざし」みたいなものが、
根っこの所ですごくきれいだから、打たれるんですぜ。
だから、読めば読むほど、
今のぼくにとっての栄養をもらっています。
ちょっと、わけのわからない世界にも、踏みこめる。
今回の超訳は、そういう、
「自分にもわかっていなかった感情」
みたいな話と関わるところで、
「自分の肉体を通して考えること」についてです。
では、どーぞ。ちぇきら。
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★ 不合理な感覚。
「ぼくは、自分の考えがどこに立っているのかを、
ぼく自身に向けて、わからせるべきだとは思う。
だけど、自分の考えが、ぼく自身を
どこに連れていくのかについては、語るべきではないね。
ぼくは、未来については、わからないでいることを愛する。
約束事の待ち焦がれや、早まった味見をしてしまうことで
自分の身の破滅を招くことは、したくないからだ」
ふらふら漂っている者が、ふと、そう言った。
彼は、盲目でいることを、よろこんでいる。
ぼくたちの身体は、
何を大事だと感じているのだろう?
・・・わからないけれど、
でも、少しだけぼくがわかるのは、おそらく、
人間の肉体が「まちがえて作られた」ということだ。
ぼくたちのボディや感覚は、
「真実」とは正反対に向いているのではないだろうか。
大昔に血肉化された「ヒト」としての身体は、
根本的には「まちがい」を手立てにして
生き抜いてきたんだと思う。
太古から、いかに衝動的なあやまちが
「ヒト」を現実に動かしているか、わかるでしょう?
なのに、いつしか、
「正しいものなのか、間違っているものか」
というものだけに生きようと、人は信じるようになる。
普遍的に、個人的ではなく「正しいこと」を
主張できる人が素晴らしい、という考える人は、
その人自身がそんな状態にいないことを、忘れている。
永遠に真実であり続けるものがないことを、忘れている。
だから、そんな中で
「客観的に言って俺が正しい」「いや、俺だ」
と議論をしつづけると、本質を見損なうことになる。
本来は理性的ではない「ヒト」を、見誤ってしまう。
「普遍的で妥当な主張」が、どれほどまでに、
反抗や休息や独占や支配というような
不合理な動機から、作りあげられてきたことだろう?
・・・ぼくたちの考える仕組みである
「論理的な思考」だとか「推論の手順」というものは、
それ自体が、とっても非論理的で不公正である競争の中から
なんとか適応して、生き抜いてきたものなんだ。
高度に何かをうたがい続けることは、
論理的には必要なことかもしれないけれど、
古来から生きぬいてゆくうえでは、危険なことだった。
「判断を差し控えているよりも、肯定をすること」
「冷静に待つよりも、
間違えたり何かを作り出してしまうこと」
「否定するよりは、賛成をすること」
「公正でいようと動かないよりも、何かを決めること」
祖先の中に、論理的ではないこんな傾向がもしなければ、
ぼくたちは生まれてこられなかったんだ。
だから、間違っていたとしても、
ぼくは自分の船に乗りたい。
個人的な考え方にたいして肯定をすることが、
それぞれの人を、どんなにかあたためて、
祝福をし、暗がりの先を照らす光になってくれるか。
そういう肯定が、つまらない陰口や批評から
どんなにか、人を自由にして自足させ豊かにし、
他人に幸せを与えることに気前よくさせることか。
そういう肯定が、どんなにか
悪を善に変えていろいろな力を成熟させたり、
恨みや不機嫌の雑草を取り去ってくれることだろうか。
それぞれの人は、論理の影におびえずに、
自分にとっての太陽を持っていいんだとぼくは思う。
他人の船に、無理をして乗らなくても、いいんだよ。
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前回に「自己満足はやばいぜ」と言いながら、
今回は「自己満足こそがいいのよん」みたいな話です。
でも、矛盾していそうだけどどちらも通るかも、
という、いつもの微妙さが、やっぱりキモだと思う。
・・・とゆうことで、今回は、あんまり
悪意に満ちていない感じのニーチェでした。
こんな調子で、今の木村にとって
気になる文脈での「超訳」ならば、ずっとやれるんだけど、
この第4回で、まず、いったん、
このコーナーを保留にしようかと思います。
ま、理由は特にないんだけど、何となく。
楽しんでいるままで、とめときたいのよ。
もちろん、ぼくは、個人的に、
超訳をしながら読むことをかなり好きなので、
別のことをして飛びまわったあとで、
またいつか、再開すると思います。
その時は、よろしくーっっ。
[今日の2行]
それぞれの人は、論理の影におびえずに、
自分にとっての太陽を持っていいんだとぼくは思う。
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(※「超訳ニーチェ」の感想いただけるとうれしいっす)
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