旅人にとっての北極星がそうであるように、
ピエール・バルーその人自身が、
若きアーティストにとって、
ひとつの「道しるべ」だったのではないか。
短いインタビューをまとめ終えた今、
そんなふうに思います。
詩人、歌手、俳優、映像作家、
そして欧州最古のインディーズ・レーベル、
「サラヴァ」の主宰者。
在りし日のピエール・バルーさんのお話を、
ここに、お届けいたします。
ご一緒くださったのは、妻のアツコさん。
インタビューから約2ヶ月後の昨年暮れ、
ピエールさんは、急逝されました。
わけへだてなく、誰にも開かれていて、
何よりあたたかかったお人柄が、
百分の一でも、伝わったらいいのですが。
担当は、ほぼ日の奥野です。

プロフィール

第7回 人生の道しるべは。

──
ぼくたちもよーく知っている人で、
下積み時代、
ピエールさんのパリの家に住んでいた
アーティストに、
レ・ロマネスクのふたりがいます。
ピエール
出会ったのは、10年ほど前かな。
娘の友だちで、近所に住んでいました。
アツコ
はじめて見たとき、
彼、すっごくおもしろがってね。
──
すでに「あのかたち」だったんですか?
アツコ
でしたね。はい。
──
ピエールさんは、
レ・ロマネスクさんのステージを見て、
どう思われましたか?
ピエール
表現に遊び心があって、
とっても、おもしろいなと思いました。

これは受け入れられると思ったし、
彼らは本物の「オリジナル」ですよね。
──
ああいう人は、あんまりいない?
アツコ
いないでしょう、あんな人たち(笑)。
──
ですよ‥‥ね(笑)。
で、おもしろいから家に住めば、と?
ピエール
だって、彼らみたいな
今までにないタイプのアーティストが、
家賃の支払いに追われて
音楽をやれなくなるのは残念でしょう。

だから、お金はいいからって。
アツコ
レ・ロマネスクのふたり以外にも、
いろんなアーティストが
ピエールの家に住んでるんですよ。

彼がガス代を払って、電気代を払って、
家賃を払っているアパルトマンに、
中には何年もずっと‥‥って人もいて。
──
では、TOBIさんやMIYAさんのような、
ピエールさんにおもしろがられた
アーティストたちが、
途切れなく、出たり入ったりしていた。
アツコ
今でも、ですよ。しょっちゅうです。
──
フランス、とくにパリって、
アートに対して寛容というイメージが
ありますけど、
実際、そうだと思うんですけど、
そういう人って、他に、いるんですか?

つまり「売れないミュージシャン」を、
家に泊めるような人‥‥
それも、何泊とかじゃなく「何年」も。
アツコ
うーーーん、どうだろう。
彼以外に、あまり聞いたことないなあ。

みんな、聞いたらビックリするし、
うちの子どもたちも、
朝、起きたら知らない人が台所にいて、
「おはようって言われたんだけど、
 今度は誰?」みたいな。
──
ピエールさんちでは、日常の風景(笑)。

ただし、表現だとかつくっているものが、
ピエールさんのお気に召さないと、ダメ。
アツコ
まったくそのとおり。そこは厳しい。
──
では、最後にうかがいたいのですが、
何かを50年も続けるって、
本当にすごいことだと思うんですが、
ピエールさんは、
いま、その50年を振り返って
どんな気持ちでいらっしゃいますか。
ピエール
わたしには、時間の感覚がないから(笑)、
50年とか、自分が何歳かとか、
あと何年くらい生きるか‥‥とか、
そういうことに、あまり興味がないんです。
アツコ
変わってるんですよ‥‥この人(笑)。
──
では、これからも、今までどおりに。
ピエール
続けていけたらいいなと、思ってます。
──
でも、おふたりのお話を聞いていると、
なんか、いつまでも続きそうです。

2度の倒産危機も乗り切ってるわけで。
アツコ
まあ、次の「100年祭」は、
わたしたちには、ちょっと無理だから、
子どもにやってもらおう(笑)。
──
代替わりしたって、いいんですものね。
ピエール
そう、スピリットさえ残れば、ね。
──
スピリットなら残せますよね。
人は死んじゃうけど、スピリットなら。
アツコ
そうそう。人は変わっていくけど、
サラヴァのスピリット、
サラヴァの哲学は変わんないよなって、
そういうの、いいと思うんです。
──
かっこいいですよね。
ピエール
世界にひとつくらいは、
こういう、ヘンなレーベルがあっても、
ゆるしてもらえるでしょう?
──
かつてピエールさんがおっしゃっていた
「自分の得た喜びだけを灯りにして
 進んでいけば道に迷うことはない。
 君の人生の唯一の道しるべだから」
という言葉は、
サラヴァというレーベルのスピリットを、
よく表しているなあと思うんです。

そして、すべての「ものをつくる人」に、
勇気を与える言葉だとも思います。
アツコ
そうですよね、うん。
──
やっぱり「何がウケるんだろう?」って、
ものをつくる人は、
悩んじゃったりもすると思いますから。
アツコ
そう、自分のつくったものを見せたとき、
「こんなのダメだよ」って言われたら、
「ガーン!」って感じで、
くじけちゃう人だって、いるでしょうし。
──
ええ。
アツコ
でも、そうじゃなくて、
誰が何と言おうと、それをつくったとき、
あなたは
自分のことを「天才だ!」と思ったし、
「うわぁ!」って、
一人で盛り上がったわけじゃないですか。

ピエールは、それだけが、
そのときの思いだけが、大事なんだって。
──
でも、それって
実際、かなり大変な道でもありますよね。

理解してくれる人、もう誰でもいいから、
探したくなってしまうというか。
ピエール
人によろこんでもらうこと、
それがうれしいのは当たり前だけれども、
仮に、誰もいなくたって、
わたしは、構わないと思っているんです。
──
ええ。
ピエール
わたしは、あなたがつくったその音楽を、
その何らかの作品を、
あなた以外の誰ひとりとして、
好きにならなくたって、別にいいと思う。
──
はい。
ピエール
人がどう思おうが、気にする必要はない。

ただひとつ‥‥あなたのやりたいことを、
すべて出し切ってほしいと思います。
──
出し切る。
ピエール
そう、精いっぱい出し切ってほしいです。

自分のやりたいことをすべて出しきって、
10年後に
聴き直したとき、見直したときに、
自分自身で、
恥ずかしくない音楽や作品をつくれたら、
それでいいと、わたしは思っているから。
<終わります>

この取材から2か月後、2016年12月28日に
ピエール・バルーさんは永眠されました。
心から、ご冥福をお祈りいたします。
取材の最後に「道しるべ」の話が出ましたが、
記事をまとめ終えた今、
若きアーティストたちにとっては、きっと、
ピエール・バルーその人こそが
「道しるべ」だったんだろうなあと思います。

2017-03-28-TUE

ピエール・バルー監督による
ドキュメンタリー、再発。

サラヴァ 「時空を越えた散歩、または出会い」
ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003

1969年、ピエール・バルーさんが
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで撮影した
ドキュメンタリー映像が
追悼の意味を込めて、再び発売されました。
バーデン・パウエルをはじめ
当時のリオのミュージシャンたちとの交流や、
フェスティバルのようす、サンバの踊り、
50年前のブラジルの、黄色みがかった陽射し。
この古い映像の中で、
ピエールさんとリオのミュージシャンたちは、
ひっきりなしに歌を歌っています。
ギター1本とリズムを刻める何かさえあれば、
どんな場所でも、そこに居合わせた誰とでも。
音楽って、こうして、
ひとびとの間にあるものなんだということが、
伝わってくるロードムービーです。

ピエール・バルーさん

音楽家・作詞家・映像作家・俳優・プロデューサー。
欧州最古のインディーズ・レーベル「サラヴァ」主宰。
1966年、
クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』に出演。
「ダバダバダ~」のスキャットで知られる
フランシス・レイ作曲の主題歌で作詞と歌も担当。
同映画で、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
さらには
米国アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞はじめ、
世界各国で「41」もの映画賞を受賞。
サラヴァでの活動を軸に、
音楽や映画、出版の分野で多くの作品を生み出す。
ピエールさんに見込まれて、
パリの自宅に住まわせてもらったアーティスト、多数。
レ・ロマネスクのおふたりも
パリの下積み時代に、お世話になっていたとか。
2016年、東京で「サラヴァ」50周年記念展を開催。
2016年12月28日、パリにて急逝。
ピエールさんは、さいごまで、
つまり、倒れ救急車で搬送されながらも、
歌を、歌っていたそうです。

今回のインタビューに同席くださったのは、
奥さまのアツコ・バルーさん。
フランス留学の経験があったことなどから
日本ではたらいているときに、
来日中のピエールさんと知り合ったそうです。
今回のインタビューでは通訳をお願いしつつ、
アツコさんにも、たくさんお話していただきました。