糸井 ケイちゃんが
ピンク・レディーじゃなかったときは?
増田 18年間です。
はじめてステージに立ったのは16歳のとき、
「クッキー」という名前でした。
糸井 ミーちゃんとコーラスをやってたんですね、
静岡で。
増田 そうです。
最初はそれぞれソロで歌手になりたかったんです。
ですからふたりとも別々で
ヤマハのオーディションを受けて
浜松のヴォーカルスクールに通っていました。
そこの先生が、
芸能界は怖いところだよ、
ふたりとも仲良しだからデュオを組んだらどう?
と、すすめてくださって。
糸井 怖いからふたりでいたほうがいい、って?
増田 単純ですよ。
一同 (笑)
増田 ふたりともすぐに
「ああ、いいかも! じゃあそうします」
と答えました。
糸井 そのときに
将来ピンク・レディーになる可能性は、
想像してました?
増田 歌って踊れるプロのデュオになる、
ということは決めていました。
糸井 意思はあったんだ。
増田 はい。
糸井 強い子ですねぇ。
増田 絶対になれると思ってました。
信じて疑わなかったです。
糸井 あの‥‥もっと戻りたくなっちゃったんだけど。
増田 はい。
糸井 クッキーの前、15歳までは、
何してたんですか?
増田 そうですね‥‥、
3歳のとき、
父が交通事故で亡くなったんです。
そこから、母が働くようになりました。

私は3人兄妹の末っ子だったので、
母の姉、おばの家に預けられました。
小学校に上がるときに
ちょっとした問題が浮上したんです。
つまり、おばの住んでいる地区に
戸籍がないと、小学校に上がれなかった。
糸井 うん。
増田 ある晩、母がおばの家に来て、
戸籍をどうしようか、相談していました。
本人の人生だから、
本人に決めさせようということに
なったのかもしれません。
そこで、家庭裁判所のようなところに
母とおばと私で行くことになりました。

その裁判所のおじちゃんに、
「どっちの子になりたい?」
と訊かれたんです。
糸井 そんなことが‥‥。
増田 はい。そのときにね、ほんとうは
母の家に帰りたかった。
父が亡くなって3年経っていたので、
母の生活も、
ひとり増えても大丈夫なところまでには
なっていたと思います。

でも、前の晩におじとおばが、
「啓子が帰っちゃったら、どうしよう。
 お母さんのほうに帰るって言ったら
 どうしよう」
と話しているのを
聞いたような記憶があるんですよ。

3年間育ててもらった
おじたちを悲しませたくない
という思いと、
母の家に帰ったら
いままで独りじめだったおやつが
3分の1になっちゃうな、
というのもあって。
糸井 なるほど(笑)。
増田 どうしようかと迷ったんですが、
東海道線に20分ぐらい乗りさえすれば
いつでもおうちに帰れるし、
大人になってお嫁さんになったら
苗字もまた変わるわけだから、
1回変わるのも、2回変わるのも同じかな、と
思ったんじゃないでしょうか。
糸井 子どもって意外と
そういうこと、思うんですよね。
増田 ええ。大人なんですよ。
特に3歳でおばの家に預けられてからは、
大人の言うことをよく聞かなくちゃ、
わがままはいけない、
母にもおばの家に対しても
自分の気持ちが
どちらか一方に傾かないようにしよう、
などと、自分なりにいろいろ考えていました。

その家庭裁判所でも、
「おばさんちの子どもになる」
と、自分で決めました。

6歳でそういうことを経験し、
とても大人びた子だったと思います。

もしも養女になることを
親たちが勝手に決めてたら、
人生は変わったかもしれない。
自分で口に出して
「おばさんちの子になる」と言った手前、
自分が決めたんだ、という事実がありますから。
糸井 すごいねぇ。
よかったですね、それは。
増田 はい。
そのあと何があっても
自分が決めたことだ、と
思えるようになりました。

父が事故で死んじゃったからこうなったとか、
養女に行ったからこうなったとか、
そういうふうには、いっさい思わなかったです。

ですから、自分の活動も
人に決められるのではなく、
自分で決めたいと思っています。
糸井 その「おばさんちの子になる」は
そのあとのケイちゃんを
つくっていったひと言ですね。

ピンク・レディーで1日15本の
仕事をしていたときも、
腹膜炎でステージに立ったときも
自分で決めたことなんだ、
という思いがあったから。
増田 はい。
自分が決めたことは、
自分が決めたんだから、できます。
糸井 ケイちゃんはいつだって
思ったことを、
けっこうちゃんと言ってますもんね。
増田 はい。有言実行。
言っちゃったらするしかないですもの。
  (つづきます)

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2011-09-15-THU