気仙沼のほぼ日便り

ここ数日は、報道関係者が、気仙沼にもたくさんくるようになっていて、
私も、普段とは違った心持ちになっているみたいです。

2011年の3月11日は、
今の前職にあたる東京の職場で、テレビを見ていました。
私は、宮城県の松島の出身で、両親は石巻の出身です。
学生時代は仙台にいて、東北や関東の友人がたくさんいました。

良く知っている街が津波で押し流される映像が、
テレビから流れてくるのを見て、
これは、もう覚悟をしようと思いました。
大切な人は死んでしまったかもしれないけれど、今自分は生きている。
頑張って生きていかなければならないぞという気持ちでいました。
幸い家族が無事であったことは、しばらくしてから分かりましたが、
無理してそう思わなければ、時間をやり過ごせなかったのだと思います。

それからは自分も含めて、
ただ偶然生きていただけなんだなぁと思うようになりました。

2012年の3月から、私は気仙沼に住民票を移しています。
被災地と被災地でない場所では、
3月11日の過ごし方も、違うと思います。

たとえば、気仙沼の人と話していると
「3月11日が近づいてくる」というように、
「3月11日」をひとつの名詞として使っているときがあります。

その時、当然のように、3月11日=震災の日として意識して、
言葉を使っているのですが、3月11日は、誰かの誕生日や、
誰かの特別な記念日でもありますよね。

被災地では多くの方の命日なので、
街も人も、遠くから被災地に来ている方も、
きっと静かに過ごすことになると思います。
とはいえ「この日は誰もが絶対に静かに過ごさなければならない」
というものではないとも思います。
大きな自然災害が起きたときには、人ごととは思えない気持ちになりますが、
縁の遠い土地で災害の起きた日が何月何日だったか、
という意識は、私もあまり持っていません。

そういった温度差があることは普通です。
被災地の同じ街の中で、同じ震災を経験していても、
津波で家や職場を流された人とそうでない人、
大切な人を無くした人とそうでない人、
被害の程度によって、温度差はあります。

これからも被災地で生きていく人たちには、様々な想いや考えがあって、
誰かが良いと思う事には必ず反対意見もあるので、
その是非は一概には言えません。
そんな中で、どうやってみんなの街を取り戻していくのか、
という課題はほんとうに大きく、
考えただけで途方にくれることもあります。

ただ、希望を持つとしたら、
みんなが共通して同じ方向を見て進むことができれば、
大きなパワーになるんじゃないかということです。
ほぼ日でも、これまでたくさん紹介してきた、
被災地に住む力強い人たちが、一緒に頑張っていけるような、
すごくポジティブで、長く頑張っていける共通の動機があるとすれば……
それは「楽しい」という気持ちなのかもしれません。

楽しいことは続けられますし、楽しいことには人が集まってきます。
「楽しい」を共通の動機とした復興は、
きっと進めていくのも楽しいだろうと思います。

気仙沼のほぼ日は、そんな楽しいことが実現できるように、
自分たちのできることをしていきたいと思っています。

長くなってしまいましたが…
今日は、東京のほぼ日メンバーと、
気仙沼の人たちと、いつものように気仙沼にいます。
その様子はこちらで中継しています。