糸井 |
もう、それすら忘れかけてますけど、
震災が起こる前っていうのは、
じつは世の中にいろんな行き詰まりがあって。
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佐々木 |
そうですね。
この閉塞的状況が打破されるべきだって
言われ続けながら、ちっとも糸口がないような。
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糸井 |
ええ。でもいまは、
それを悶々と探しているような状況では
なくなりましたからね。
その、いま覚醒して動いてないと、
友だちの助けにもならないじゃないかっていう。
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佐々木 |
そうですね。
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糸井 |
ひとつ例をあげると、
ぼくのような中小企業の社長は、
なんのためにその会社があるのかっていうことを
ずーっと問われ続けるわけです。
つまり、会社には目的があるはずだと。
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佐々木 |
ああ、なるほど。
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糸井 |
それはもう、うっすらとした強迫観念のように
ぼくのなかにあったんです。
で、いつかそれがスパッと言えるように
なったらいいなと思ったんだけど、
なかなか言えるもんじゃないんです。
でもね、ああいう大きな震災があると、
会社の目的をどういうふうに
説明するかなんてことよりも、
とにかくなんかの役に立ちたいとかね、
困ってる誰かを助けたいとか。
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佐々木 |
そうですよね。
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糸井 |
で、自分たちは助けながらも、
疲弊するんじゃなくて、
きちんと笑いながら過ごしたい、
っていう気持ちがあって。
なんなら、
「あの会社は、震災で焼け太りした」って
言われるくらいになりたいって
よく言ってるんです。
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佐々木 |
(笑)
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糸井 |
そのためにアイデアを出したり、
新しい価値を増やしたりしていきたい。
もちろん震災があってよかったなんて
言わないですけど、それがあって、
いまの真剣で現実的な当事者意識が
生まれていることは、たぶん間違いがなくて。
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佐々木 |
そうですね。ぼくも去年までは
いまの状況を変えなきゃいけない、
脱却しないけないとは言っていたものの、
つねに「アンチ何々」っていう視点だったんです。
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糸井 |
あー、なるほど。
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佐々木 |
否定するところから出発するっていう、
そういうところから
逃れられなかった感じするんですけど、
いまは、なんていうか、
問題のある古いシステムや、
もう壊れかかっているようなものを、
「壊そう!」って話をいまさらしなくても
これからどうやって
我々の社会をつくっていくのかっていう
建設のほうに気持ちは完全に動いている。
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糸井 |
まったくそうですね。
どっちが正しいかっていう
議論してる時間があったら、
あなたがいいと思ったことを、
予算30円でもいいからはじめてごらんっていう。
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佐々木 |
そうですよね。
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糸井 |
そういうふうに動きやすくなってますよね。
たとえば、このほぼ日刊イトイ新聞っていうのは
もう13年やっていて、
ゲストとして出てくれる人も、
タダで来てくれる人しか呼ばないんです。
だから、佐々木さんのように
フリーでやってる人を呼ぶっていうのは、
初期のころ、ちょっと遠慮してたんです。
なぜかというと、どこかに出て
考えを表現するっていうことが仕事の人を
タダで呼ぶっていうのは失礼だから。
だから、「いいよ、行くよ」って言って
好きで来てくれる人だけを相手にしていて、
企業の社長とかがよく登場するのは
そういう理由なんですよ。
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佐々木 |
ああ、なるほど。
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糸井 |
で、このごろは、フリーの方にも
声がかけやすくなってきた。
それは、予算とか規模とか条件みたいなことを
いろいろ言わずに「やろうよ」って
言ってくださる人が増えたからです。
その雛形が、すでに東北には
あちこちで生まれてるじゃないですか。
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佐々木 |
自然にそうなってる感じですよね。
「ビオトープ」っていう言い方があるんですけど、
そういう生態系みたいなものが
どんどんどんどん増えていって、
社会全体を構成するように
なっていくんじゃないかと。
そこでそれぞれの関係をつくってる人たちは、
いままでのように単に情報を受容してるだけの
消費者じゃなくて、仲間なんですよね。
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糸井 |
うん、そうですね。
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佐々木 |
個々に、当事者意識を持って、
自分たちが好きなものとつながる、っていう。
そういう、小さな当事者がたくさん集まって、
大きな社会につながっていく感覚が
いますごく出てきている気がして。
そういう「中間共同体」について考えるのが
最近のテーマのひとつなんですよ。
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糸井 |
「中間共同体」。
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佐々木 |
わかりやすくというと、日本という国で、
「日本」と「私」という関係だけだと、
社会がつながらないんですよ。
それだとあまりにも遠すぎるんです。
だから、そのあいだにワンクッション必要で、
それが中間共同体とか
コミュニティって言われるもの。
わかりやすい例でいうと、かつての農村ですよね。
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糸井 |
ああー。
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佐々木 |
日本っていうのはむしろどうでもよくて、
俺はこの村の住人で、村の寄り合いに出て、
この村のなかでこう働いてるぞ、
みたいな感じだったわけです。
でもそれが、太平洋戦争が終わって、
農地解放されて、
農村からどんどん若者が出てきて、
農村が空洞化していくと。
そのときに都市部にみんな出てきて、
行き着く場所がなくて
困ってるときに出会ったのが、
企業という中間共同体だったんですね。
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糸井 |
うん、そうですね。
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佐々木 |
あるいは宗教だったり、政党だったり、
学校だったり、ある種の主義だったり。
とにかく、自分が日本という社会に
直接対面するのではなくて、
そのあいだにワンクッション、
仲間意識を持てる空間が必要なんですけど、
いま、それらがどんどん壊れて
リアリティーを持てなくなってるんですよ。
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糸井 |
ああー。
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佐々木 |
で、実はインターネットみたいなものが、
それを代替できるんじゃないのかっていうことを
ずーっと考えてるんですけど、
一方で、インターネットなんて、
実際のセーフティーネットには
ならないじゃないかという気もする。
というのも、本来の中間共同体というのは、
身体をこわしたり、親族が死んだりしたときに
頼ることができるような存在であって。
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糸井 |
インターネットでのつながりには、
そういう「実」がないんですね。
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佐々木 |
そうなんです。
ただ、深い情報でつながってると、
強い共鳴が起こりますから、
なんらかの社会的なクッションには
なるかもしれない。
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糸井 |
自分の経験からいうと、
1000人っていう単位になれば飯が食えるんですよ。
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佐々木 |
ああ、そうですか。
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糸井 |
つまり、1000人の町があったら、
そこでいちおう、金物屋をやっても、
レストランやっても、お客は来る。
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佐々木 |
そうですね。
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糸井 |
たとえば、
アフリカの音楽が好きな人たちの集まり、
みたいなものがあるとしても、
1000人の規模になればなにかができるんですよ。
それをメシのタネにする人もいるだろうし、
そこで消費することをたのしむ人もいる。
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佐々木 |
『キュレーションの時代』で
書ききれなかったことなんですけど、
キュレーターがきちんと機能すると、
その周辺に小さなビオトープができるんですよ。
でも、それをきちんと把握するのが難しい。
だから、糸井さんの言う「1000人の集まり」が
潜在的にはできていたとしても、
見つけて、はっきりとつなげるのは、
なかなかできない場合が多いんです。
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糸井 |
それはねぇ、おそらく、
言いだしっぺになる覚悟がないと
見つからないんですよ。
それもやっぱり、当事者意識ですね。
で、「俺が」があると、
「俺も『俺が』って思ってたんだよ」
って人と、つながれるんですよ。
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佐々木 |
なるほど。
(つづきます) |