糸井 |
ぼくは、おもにツイッターを通じて
佐々木さんのことを知っているわけですけど、
最近、佐々木さんがおっしゃっている
「当事者主義」っていう視点が
おもしろいなあと思っているんです。
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佐々木 |
ああ、はい。
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糸井 |
つまり、当事者として発信することで人は動く。
逆に第三者的な場所、安全圏に身をおいて
当事者としてではなく発信することは
むしろ危険な行為だし、信用もされない。
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佐々木 |
そうですね。
それまでのぼくは、
ずっと「ネット対マスコミ」という感じの
対立軸で話してたんですけれど、
いまはもうそういう軸ではなくて、
「当事者であるか」という点が
すごく重要になってきていると思うんです。
そのきっかけになったのは、
やっぱり、3.11。
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糸井 |
はい。
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佐々木 |
ぼくは4月に入ってから
はじめて被災地に入ったんですが、
そこで気づいたことは、
「自分に語れるものがなにもない」
ということだったんです。
陸前高田とか、気仙沼とか、
荒れ果てた景色が広がっているんですけど、
自分がそこでなにか語れるかっていうと、
語れるものはほとんどない。
そこにいる人に取材して書くっていう、
いわゆる従来の新聞社の手法は
あるかもしれないんですけど、
それをやっても、たぶんなにか違うだろうなと。
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糸井 |
いちおう、それで形にはなるんでしょうね。
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佐々木 |
はい。
よくある新聞の雑感記事には
なるかもしれないんですけど、
それをやろうとは思わなかったし、
実際にそれをやってる新聞やテレビの姿勢には
すごく疑問を感じていた。
ところが、河北新報。
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糸井 |
はい。
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佐々木 |
仙台に本拠地のある河北新報の記事が
すばらしいんです。
どこがいいかというと、
一般的な新聞の記事というのは、
特異な例を取りあげたがるんですよ。
「そんな人、滅多にいないだろう」
みたいな人を探してきて、スポットを当てて、
これがいかにもいまの世の中を示している、
っていうふうに記事にする。
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糸井 |
ああ、そうですね。
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佐々木 |
そういうやり方って、
マスコミの常套手段なんですけど、
河北新報がやってたのは、
ぜんぜんそういうことじゃなかった。
社会面でほぼ毎日連載してた記事があるんですけど、
これがね、ほんとにふつうの人が、
そのときどうしていた、何を感じていた、
ということを書いている。
すごいドラマがあるわけでもなく、
津波に遭ったけれど助かって、
いまはこういうことをしています、
っていうことを、日々、ずっと記録し続けてる。
この記事が非常にすばらしかったんです。
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糸井 |
なるほど。
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佐々木 |
で、その取材チームの中心人物である
寺島さんという名物記者の方に、
お会いしてお話をうかがったんですが、
ああいう記事を書ける理由として、
当たり前のように、
「それはぼくらが被災者だからですよ」って、
おっしゃったんです。
それでぼくは、なるほどと感動してしまって。
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糸井 |
ああー。
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佐々木 |
河北新報の記者は、ほぼ全員が東北の出身。
だから、自分自身ももちろん被災者だし、
自分の家族、親族、あるいは友人、知人、
どこかに、必ず死者がいたり、
行方不明の人がいたり、
避難してる人がいると。
そうすると、取材に行ったときに、
とても、他人事のようには聞けない。
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糸井 |
はい。
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佐々木 |
取材するときに、ふつうだったら、
「どうでしたか」ってところからはじまるんですけど、
もう、被災者と話した瞬間に、
「実はわたしの父もね」とか、
「わたしの友人がね」とか、
そういうやり取りがはじまって、
そのなかで記事を書いてる。
そういうやり方をすると、
いままでのような第三者的な立ち位置からの
記事というのは、書けなくなってしまう。
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糸井 |
うん、うん。
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佐々木 |
でも、それって、ほんとはね、
いままでの新聞のセオリーでは、
やってはいけないって言われてたことなんです。
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糸井 |
つまり、個人の主観ではなく、
第三者として客観的に書きなさいと。
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佐々木 |
そうなんです。
ぼくは1988年から12年半くらい
毎日新聞で新聞記者をやってたんですけど、
とにかく、客観しろ、中立であれ、ということを
基本的な教えとして叩き込まれました。
もちろん、取材対象の気持ちを理解するのは
とても大事なことなんだけれど、
あまりにも対象に入り込んでしまって、
合一してしまってはいけない、
ということを、ずっと言われてたんです。
でも、河北新報の記者たちがやってることは
まったく逆なんですね。
それで、ぼくは寺島さんに、
「それってもう、客観中立報道じゃないじゃないか」
って訊いたんです。
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糸井 |
それは、佐々木さんとしては、
どっちの気持ちで訊いたんですか?
「客観中立報道になってなくて、
ダメじゃないですか」っていう
気持ちで訊いたのか、それとも‥‥。
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佐々木 |
いえ、そういったセオリーを超えて、
すごくいい方向に来てるんじゃないですか、と。
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糸井 |
つまり、その在り方がいいなと思って。
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佐々木 |
そうです。
というのは、ぼくも常々、
客観中立なんてありえないと思っていたので。
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糸井 |
ああ、なるほど。
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佐々木 |
客観中立がありえないのに、
その幻想にすがってる新聞社は
おかしいじゃないかと言い続けていた。
だからこそ、そこに踏み込んでる
河北新報はすごいなと思った。
幻想とかセオリーを乗り越えて、
すごいところに行っちゃってるじゃないですか。
そういうつもりで訊いたんですよ。
そしたら、ちょっと息をのんで、
「おっしゃるとおりです」と。
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糸井 |
うん、うん。
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佐々木 |
やり取りを通してぼくが思ったのは、
おそらく、これからメディアが発信するものは、
それがマスメディアなのかネットメディアなのか
というようなことはどうでもよくて、
その立ち位置が問われるようになる。
そういう時代に、いま、来ているのかなと。
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糸井 |
あああ、なるほど。
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佐々木 |
たぶん、これまでは、ずっと、
「他人事みたいな感じ」があったと思うんですよ。
政治に関しても、経済に関しても、社会問題に関しても、
「他人事みたいな感じ」を多くの日本人は感じていた。
その「他人事意識」が、
図らずも震災を機会に大転換して、
ついに払拭される可能性がある。
そう感じたら、すごくジーンとしてしまって。
そこから、「当事者としての立ち位置」が
問われる時代なんだって考えはじめたんです。
マスだろうが、ネットだろうが、
当事者意識のない人はもう影響力を持たない。
逆に、当事者意識を持って報道する、
あるいはブログで書く、ツイートする人こそが、
今後の社会を担うんじゃないのかなと。
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糸井 |
そうすると、その問いかけは
自分にも向けられるわけですよね。
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佐々木 |
そうですね。
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糸井 |
震災が起こる前の自分と、
いまの自分が比べられるというか。
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佐々木 |
はい。
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(つづきます) |