佐々木俊尚 × 糸井重里  メディアと私。  ──おもに、震災のあと。


第4回 リアルな情報。第4回 リアルな情報。

糸井 話が少し飛ぶんですけど、
いま、メディアに書かれていることばって
すごくおおまかにいうと、
本を読む人に伝わる文体っていうのと、
ふだん本を読まない人に伝わる文体と、
2種類あると思うんですね。
佐々木 ほう。
糸井 ぼくは、以前広告に関わっていたということも
影響してると思うんですけど、
「本を読むことが大好きで
 ものを考えること自体の中に耽溺できる」
という人から、ちょっと距離を置いて
生きてきたつもりなんですよ。
自分自身が本を読むことは嫌いじゃないんだけど、
そこにいたら、本を読む人どうしが
褒めあうものになってしまうなと。
佐々木 ああー、そうですよね。
狭い圏域のなかに留まってしまう。
糸井 そうなんです。
その圏域って、もう、
どんどんどんどん狭くなっているし、
ほんとうに世の中を動かしてる人っていうのは、
もっと違うところで、すばらしい知性を発揮してる。
たとえば、ファッションを
つくってる人の知性っていうのは、
本を読むときの文体や文章じゃないですよね。
佐々木 そうですね。
糸井 そういうものとも自由に
握手できるような文体っていうのがあって、
それを表現できることこそが、
そこで生きてるための
思考をつくるんだと思ってたんで、
そこをずーっと自分としては
鍛えてきたつもりだったんですね。
佐々木 あー、なるほど。
糸井 とくに、今度の震災以後っていうのは、
エリートの文体が通用しなくなった印象があります。
吉本隆明ふうに言うと、
比叡山の文体が通用しなくなった。
佐々木 なるほど。
糸井 逆に、ふつうの人が受け入れないからこそ、
その場所に逃げ込む人も出てきたし。
佐々木 ああー、そうですよね、
アカデミズムに閉じこもるというか。
糸井 そうです、そうです。
佐々木 文体の移り変わりというのは
ぼくも実感したことがあります。
ぼくは、もともと新聞記者出身なので、
古いジャーナリズムの世界で
仕事をしてきたんですけど、
みんながブログとか書くようになった
2005、6年ぐらいからかな?
そこで書かれてることばに
最初、すごく違和感があって。
やっぱり、新聞とか、
旧来の雑誌ジャーナリズムにおける文章と、
ぜんぜん違うんですよね。
糸井 ああー。
佐々木 だから、2006年ごろ、
雑誌の仕事とネットの仕事の
両方をやっていたときは、
それぞれをすごく意識的に書き分けてました。
糸井 なるほど、なるほど。
佐々木 そうしないと、読まれないなという実感があって。
ネットの世界で新聞や雑誌の原稿を書くと、
すごく違和感があるんです。
逆に、新聞や雑誌というメディアに
ネットの原稿を書いても受け入れられない。
それは、何が違うのかっていうと、
いま糸井さんがおっしゃった閉鎖性なのかなと。
新聞とか雑誌とか、
ある種のアカデミズムを持つ文章って、
なんか、閉じた小宇宙、みたいなところがあって。
糸井 そうなんですよ。
佐々木 ひとつひとつが完結していて、
そのまわりをピカピカに磨いて
「できましたよ」っていう感じなんですよね。
だから、完成されてはいるんだけど、
広がりもないし、すごく箱庭的になってしまう。
糸井 それはやっぱり、共通の理解があることを
前提としたところでの会話だから。
佐々木 現代思想とかそうですよね。
糸井 そうそう。
「当然知ってると思いますが‥‥」
みたいなところが前提にある。
でも、実際の世の中は、ぼくも含めて
「そんなの知りません」っていう
人ばっかりが歩いているわけで。
佐々木 ネットは、そこはぜんぜん違いますね。
いってみれば、ネットにあることばって、
途中経過なんですよね。
糸井 ああー。
佐々木 たとえば本、書籍って、これまでは
典型的なひとつの小宇宙だったんだけど、
たぶん、100年後の書籍っていうのは、
おそらく、もっとソーシャルなものに
なっていくと思うんです。
つまり、人とやり取りをしていくこと自体が、
だんだんとなにかの物語を編んでいくような、
そういう世界をつくっていくんじゃないのかなと。
糸井 うん、うん。
佐々木 ブログでも、ツイッターでも、
フェイスブックでもそうなんですけど、
ソーシャルの世界のなかで
なにかについて書くということは、
そこでそれについてほかの人と
やり取りしていくということなんですね。
そうすると、いま書いているこれを読む人が
どういう反応をするだろうか?
っていうのを考えながら書く、
という文体になっていくんですよ。
糸井 そうですね。
それって、つまり、
「話体」なんですよね、近いのは。
佐々木 そうなんですよ。
書籍って、いままでは印刷物だったけど、
徐々にデジタル配信になっていきます。
印刷物というのはグーテンベルク以前は
写本だったわけで、それ以前はというと、
紀元前3000年くらいまでは
「口承」だったわけですよね。
糸井 そうですね。
佐々木 オーラルリテラリー(口承文学)。
あの時代に戻る可能性があるわけです。
糸井 うん。
佐々木 あのころの時代というのは、
ある種、人々の集合的無意識みたいなものが
会話のかたちで編まれて、
気がついたら、ひとつの物語になっていた。
『オデュッセイア』なんかも、
じつはホメロスが書いたんじゃなくて、
そういう集合的無意識の編み出した物語が
文字になったんじゃないかなと思うんです。
ああいった世界に、
われわれの文字文化、物語の文化は、
戻る可能性があるんじゃないかと。
だから、いま糸井さんがおっしゃったような
文体の変化というのは、単なる流行ではなくて、
ものすごく大きなパラダイム転換の
最初の一歩かもしれないと思うときがあるんです。
糸井 だとすれば、これまでは、
その助走をずーっとやってきた気もするんです。
ぼく自身、ある部分ではそれを意識して、
ある部分では無意識でその転換をやってきて、
それが今回の震災があったことで、
古い意味での本を読む人たちの文体と
「そんなの知らないよ」っていう人たちの溝が
ほんとに現実的になったと思った。
佐々木 そうですよね。
糸井 その文体では通じないんだと
いくら言ってもダメでしょうし。
その、グーテンベルク以降っていう言い方をすれば、
一部のエリートが文字文化として培った「知」を
印刷物として広めたことによって
「知」は大衆化したかに思えるけれど、
そこで大衆に受け継がれた「知」っていうのは
じつはほんの一部分なんですよね。
すばらしいダンサーのステップという「知」や、
アスリートの走りという「知」のかたちもある。
そういうふうにね、
大きな「知」のかたまりを考えるなら、
口先とか文字の表現の達者な、
小頭のいい人たちの時代が
長く続きすぎたのかもしれない。
佐々木 そうかもしれないですね。
糸井 自分もそうかもしれないけど(笑)。
だから、かつての自己の否定の意味を
そうとう含めながら、
それをまたこうやってしゃべっていく。
  (つづきます)

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2012-01-27-FRI