糸井 |
話が少し飛ぶんですけど、
いま、メディアに書かれていることばって
すごくおおまかにいうと、
本を読む人に伝わる文体っていうのと、
ふだん本を読まない人に伝わる文体と、
2種類あると思うんですね。
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佐々木 |
ほう。
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糸井 |
ぼくは、以前広告に関わっていたということも
影響してると思うんですけど、
「本を読むことが大好きで
ものを考えること自体の中に耽溺できる」
という人から、ちょっと距離を置いて
生きてきたつもりなんですよ。
自分自身が本を読むことは嫌いじゃないんだけど、
そこにいたら、本を読む人どうしが
褒めあうものになってしまうなと。
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佐々木 |
ああー、そうですよね。
狭い圏域のなかに留まってしまう。
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糸井 |
そうなんです。
その圏域って、もう、
どんどんどんどん狭くなっているし、
ほんとうに世の中を動かしてる人っていうのは、
もっと違うところで、すばらしい知性を発揮してる。
たとえば、ファッションを
つくってる人の知性っていうのは、
本を読むときの文体や文章じゃないですよね。
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佐々木 |
そうですね。
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糸井 |
そういうものとも自由に
握手できるような文体っていうのがあって、
それを表現できることこそが、
そこで生きてるための
思考をつくるんだと思ってたんで、
そこをずーっと自分としては
鍛えてきたつもりだったんですね。
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佐々木 |
あー、なるほど。
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糸井 |
とくに、今度の震災以後っていうのは、
エリートの文体が通用しなくなった印象があります。
吉本隆明ふうに言うと、
比叡山の文体が通用しなくなった。
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佐々木 |
なるほど。
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糸井 |
逆に、ふつうの人が受け入れないからこそ、
その場所に逃げ込む人も出てきたし。
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佐々木 |
ああー、そうですよね、
アカデミズムに閉じこもるというか。
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糸井 |
そうです、そうです。
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佐々木 |
文体の移り変わりというのは
ぼくも実感したことがあります。
ぼくは、もともと新聞記者出身なので、
古いジャーナリズムの世界で
仕事をしてきたんですけど、
みんながブログとか書くようになった
2005、6年ぐらいからかな?
そこで書かれてることばに
最初、すごく違和感があって。
やっぱり、新聞とか、
旧来の雑誌ジャーナリズムにおける文章と、
ぜんぜん違うんですよね。
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糸井 |
ああー。
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佐々木 |
だから、2006年ごろ、
雑誌の仕事とネットの仕事の
両方をやっていたときは、
それぞれをすごく意識的に書き分けてました。
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糸井 |
なるほど、なるほど。
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佐々木 |
そうしないと、読まれないなという実感があって。
ネットの世界で新聞や雑誌の原稿を書くと、
すごく違和感があるんです。
逆に、新聞や雑誌というメディアに
ネットの原稿を書いても受け入れられない。
それは、何が違うのかっていうと、
いま糸井さんがおっしゃった閉鎖性なのかなと。
新聞とか雑誌とか、
ある種のアカデミズムを持つ文章って、
なんか、閉じた小宇宙、みたいなところがあって。
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糸井 |
そうなんですよ。
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佐々木 |
ひとつひとつが完結していて、
そのまわりをピカピカに磨いて
「できましたよ」っていう感じなんですよね。
だから、完成されてはいるんだけど、
広がりもないし、すごく箱庭的になってしまう。
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糸井 |
それはやっぱり、共通の理解があることを
前提としたところでの会話だから。
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佐々木 |
現代思想とかそうですよね。
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糸井 |
そうそう。
「当然知ってると思いますが‥‥」
みたいなところが前提にある。
でも、実際の世の中は、ぼくも含めて
「そんなの知りません」っていう
人ばっかりが歩いているわけで。
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佐々木 |
ネットは、そこはぜんぜん違いますね。
いってみれば、ネットにあることばって、
途中経過なんですよね。
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糸井 |
ああー。
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佐々木 |
たとえば本、書籍って、これまでは
典型的なひとつの小宇宙だったんだけど、
たぶん、100年後の書籍っていうのは、
おそらく、もっとソーシャルなものに
なっていくと思うんです。
つまり、人とやり取りをしていくこと自体が、
だんだんとなにかの物語を編んでいくような、
そういう世界をつくっていくんじゃないのかなと。
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糸井 |
うん、うん。
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佐々木 |
ブログでも、ツイッターでも、
フェイスブックでもそうなんですけど、
ソーシャルの世界のなかで
なにかについて書くということは、
そこでそれについてほかの人と
やり取りしていくということなんですね。
そうすると、いま書いているこれを読む人が
どういう反応をするだろうか?
っていうのを考えながら書く、
という文体になっていくんですよ。
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糸井 |
そうですね。
それって、つまり、
「話体」なんですよね、近いのは。
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佐々木 |
そうなんですよ。
書籍って、いままでは印刷物だったけど、
徐々にデジタル配信になっていきます。
印刷物というのはグーテンベルク以前は
写本だったわけで、それ以前はというと、
紀元前3000年くらいまでは
「口承」だったわけですよね。
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糸井 |
そうですね。
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佐々木 |
オーラルリテラリー(口承文学)。
あの時代に戻る可能性があるわけです。
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糸井 |
うん。
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佐々木 |
あのころの時代というのは、
ある種、人々の集合的無意識みたいなものが
会話のかたちで編まれて、
気がついたら、ひとつの物語になっていた。
『オデュッセイア』なんかも、
じつはホメロスが書いたんじゃなくて、
そういう集合的無意識の編み出した物語が
文字になったんじゃないかなと思うんです。
ああいった世界に、
われわれの文字文化、物語の文化は、
戻る可能性があるんじゃないかと。
だから、いま糸井さんがおっしゃったような
文体の変化というのは、単なる流行ではなくて、
ものすごく大きなパラダイム転換の
最初の一歩かもしれないと思うときがあるんです。
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糸井 |
だとすれば、これまでは、
その助走をずーっとやってきた気もするんです。
ぼく自身、ある部分ではそれを意識して、
ある部分では無意識でその転換をやってきて、
それが今回の震災があったことで、
古い意味での本を読む人たちの文体と
「そんなの知らないよ」っていう人たちの溝が
ほんとに現実的になったと思った。
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佐々木 |
そうですよね。
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糸井 |
その文体では通じないんだと
いくら言ってもダメでしょうし。
その、グーテンベルク以降っていう言い方をすれば、
一部のエリートが文字文化として培った「知」を
印刷物として広めたことによって
「知」は大衆化したかに思えるけれど、
そこで大衆に受け継がれた「知」っていうのは
じつはほんの一部分なんですよね。
すばらしいダンサーのステップという「知」や、
アスリートの走りという「知」のかたちもある。
そういうふうにね、
大きな「知」のかたまりを考えるなら、
口先とか文字の表現の達者な、
小頭のいい人たちの時代が
長く続きすぎたのかもしれない。
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佐々木 |
そうかもしれないですね。
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糸井 |
自分もそうかもしれないけど(笑)。
だから、かつての自己の否定の意味を
そうとう含めながら、
それをまたこうやってしゃべっていく。 |
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(つづきます) |