糸井 | 島耕作が勤めている、初芝という会社は‥‥ |
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弘兼 | あ、連載開始当時の松下電器がモデルです。 僕が就職した会社なんですが。 |
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糸井 | つまり『島耕作シリーズ』は、 事実が資料になっているというか、 お勤めになった経験をもとに描きはじめたと。 |
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弘兼 | そうですね。 |
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糸井 | でも、弘兼さんは辞めてらっしゃるのに、 島耕作は相変わらずその会社にいるわけですよね。 どうやってその後のストーリーを 考えていたんですか? |
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弘兼 | それはですね、 同期がどんどん出世していまして、 そこから常に情報が入ってくるんです。 |
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糸井 | ああ、そうか。 |
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弘兼 | 同期が900人近くいたんです。 その次の年は1,000人ぐらい。 |
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糸井 | 1,000人も! さすが松下ですね。 |
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弘兼 | 彼らとは、会社を辞めてからも ずっとつながっています。 僕は社内で宣伝の仕事をしていたんですけど、 わりとすぐに会社を辞めたんです。 それでフリーのイラストレーターをしていたら ステレオ事業部とか洗濯機事業部のやつらが 「取説の絵を描いてくれないか」って 仕事をいっぱいくれましてね。 その一方で漫画を描いて応募したら、 1作目が小学館の賞に入選したんです。 それで小学館の担当編集者に 「漫画専門にやるんなら、 こっちのほうは辞めたほうがいい」と言われて、 広告の仕事を抑えて、 漫画のほうに切り替えていったんです。 |
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糸井 | 弘兼さん、お辞めになったのは何年ですか。 |
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弘兼 | 1973年です。 3年3か月で辞めました。 |
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糸井 | じゃ、勤めていた期間は そんなに長くないんですね。 それなのに、 まるで人はサラリーマン代表みたいに‥‥ |
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弘兼 | 代表みたいに言いますけどね。 でも、ものすごくコスパの高い、 濃い3年でしたよ。 それでいまも収入を生み出していますから。 |
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糸井 | いやいや、今日うちを出るときに、 長袖のTシャツでボーッとした格好をしてまして、 そのまま来ようかなと思いつつ 「弘兼さんはどういう格好してくるんだろうな。 やっぱりあの人は会社員生活が長いから」 と思ってジャケットを着てきたんです。 |
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弘兼 | ああ、なるほどね。 そういうイメージがあるかもしれないですね。 でも本当はサラリーマン生活もたった3年ですから、 聞いた話で話を作ってるんです。 僕が中学生のときに、 隣の席に座っていた隅君というのが、 いま、東京海上ホールディングスの会長なんです。 彼が常務になったとき、 「そうか、じゃあ島耕作を常務にしよう」。 専務になったときは専務にと、彼に合わせて。 |
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糸井 | そんな具体的なモデルが(笑)。 |
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弘兼 | そう。だから、島耕作は わりとリアルな出世をしているんです。 |
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糸井 | 僕は前に京都の駅で、 「おお、糸井!」って言われて、 「誰だっけな、あ、知ってる知ってる」と思って、 そいつは同級生だったんですけど、 「どうしてんの?」って聞いたら 大きい保険会社の名刺を渡されて、 見たら、会長になっていたんです。 出世の過程を見ていないから、 ちょっと驚きましたね。 |
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弘兼 | ああ、いきなり偉くなったときを見た。 |
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糸井 | そうそう。 『島耕作』の場合だったら、 あ、「こういうことがあったし」、 「この件はお手柄だったし」とか、 過程があるんですけどね。 |
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弘兼 | あぁ、そうですね。 まぁ僕も、周りからの情報ばかりをネタにしていますから、 もう本当に、 「講釈師、見てきたような嘘をつき」です(笑)。 それに、子どものころからサラリーマン漫画を 読んでいたのも影響しているかもしれません。 |
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糸井 | お好きでした? |
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弘兼 | ええ。サラリーマン漫画には ペーソスがありますから。 哀しさと楽しさの入り混じりで。 |
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糸井 | 植木等のような。 |
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弘兼 | ええ。植木等は 「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と 歌っていますけど、 当時の昭和30年代のサラリーマンを思うと、 みんなブラック企業のような場所で 死ぬほど働いていたと思うんです。 だから、その裏返しとして 茶化していたんじゃないかな。 本当は一番大変な時代、 いわゆる団塊の世代より前の人たちが 日本を築いていた時代だったんで。 |
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糸井 | 滅私奉公ですね。 |
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弘兼 | はい。日本がグーッと登っていくときだったので、 植木等のような気楽な雰囲気が、 かえって現実離れして楽しかったんでしょうね。 |
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糸井 | だいたい、当時の映画でも サラリーマンは上司の引っ越しの 手伝いとかしていますもんね。 |
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弘兼 | そうそう(笑)。 |
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糸井 | 何と言うか、雇われ人として 公私共に雇われてましたよね。 |
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弘兼 | そうですね。多分大変だった。 だから、森繁久彌さん主演の映画 『社長漫遊記』も、現実離れしたところが かえっておもしろかったんじゃないですかね。 必ず配役は決まってて、 ストーリーも毎回統一されていて。 すったもんだで、最後はみんなハッピー。 |
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糸井 | そうそうそう。 宴会のシーンがどれだけあったか。 |
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弘兼 | 三木のり平が必ず宴会部長。 |
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糸井 | 「宴会部長」って言い方も 一般化してましたよね。 「あいつは宴会部長にしか過ぎないから」と言うけど、 でもいま、企業に宴会部長っていないですよね。 |
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弘兼 | ああ、そうでしょう。 第一、いまは宴会というのを 若い人たちがあんまりしないんです。 飲み会があると欠席率が昔より高くて、 「おまえ、来るだろ?」と言ったら、 「どうしても行かなきゃいけないですか」 と言うらしいんですよ。 そんなやつ呼ばなきゃいいんだけど(笑)、 無理に「来い」とか言って、気まずい雰囲気の 飲み会になったりするらしいです。 |
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糸井 | 弘兼さんは ご自身でも人を雇ってますよね。 |
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弘兼 | うちはアシスタント9人です。 |
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糸井 | それはつまり「会社」ですよね。 |
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弘兼 | 会社ですね。 有限会社ヒロカネプロダクションです。 |
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糸井 | そこでの飲み会というのはどうなんですか。 |
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弘兼 | 最初はやってたんですよ。 しかも、わりと利益がたくさん出てたんで、 毎年夏には海外旅行にも行ってたんです。 そのうち誰かが 「海外旅行休んでいいですか」とか言いはじめ、 「あ、いいよ、いいよ」と言ったら、 どんどん休むんですよ。 みんなもう海外旅行に飽きたと。 それだったら会社の海外旅行に行くより、 自分で1週間の休みを取って 自分の時間を作ったほうがいいと。 あ、いまの若い人はそうだったんだなと思って、 それでやめましたね。 |
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糸井 | 忘年会は? |
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弘兼 | 忘年会は毎年やっています。 スタッフや編集者を50人ぐらい集めて。 うちだけではもうやらないです。 第一、時間がないんです。 |
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糸井 | ああ、そうか。 |
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弘兼 | カミさんが八ヶ岳に持ってる別荘があって、 海外旅行に行かないかわりに 毎年そこでバーベキュー大会をやってたんですけど、 ついに今年は時間が取れませんでしたね。 みんなは休みがあるんでいいんだけど、 僕はもう働きっぱなし。 |
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糸井 | 具体的に手が抜けない仕事を ずっとやってらっしゃるってことですね。 (つづきます) |
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