── | おかえりなさい、shinoさん。 チェコに住んでるshinoさんは、 実は今までにも「ほぼ日」に 何度か登場してくれているんですよ。 古くは鼠穴時代のダイニング部、 それから、ハラマキの 中央ヨーロッパ普及委員長。 そして一番最近は ほぼ日感激団の「屋根裏のポムネンカ」ですね。 やっと本業をご紹介できる日が来ました。 |
shino | ありがとうございます。 |
── | 11月2日から、大橋歩さんの イオグラフィックギャラリーで チョーカーの個展をなさるというので、 これは紹介しなくちゃと思って。 すごくざっくり、経歴を教えてください。 |
shino | はい。私、ガラスをずっとやってまして。 |
── | ガラスっていうのは、器ですか? |
shino | 器も、器じゃないものも。 10代の頃に、ガラスを吹いてたんです。 けれども私が10代の頃は ガラスの教育機関っていうのが 日本には、あまりありませんでした。 ガラスの工場は、もちろんあったけれど、 工場に行って「吹かせてください」 なんて言っても吹かせてくれないですよね。 それで、アメリカの サマースクールに行ったんです。 それで、現代ガラスアートの最前線を知り、 カルチャーショックを受けて帰ってきました。 そこで知り合った日本人が自分たちでなんとか 学ぶ場所をつくろうと始めたので、 最初はそれを手伝って。 そこから10年間、 ワークショップをやってたんです。 海外から先生を呼んで。 |
── | いい先生を呼んで、自分も学び、 人にも教え、みたいな形なんですね。 でもガラスを吹く場所はどこに? |
shino | 長野県の美麻村にあった、 美麻遊学舎っていうところにその知り合いが 小さなスタジオをつくって。 ‥‥その10年で、 ガラスのネットワークができたんですが、 その終わり頃に 日本がバブル時代に入りました。 1億円村おこしというのを 竹下さんがやった時期なんですね。 |
── | ああ! |
shino | それで、地場産業がない村は、 その土地に資源がなくてもできる、 人工素材のガラスに目をつけるんです。 そしていろんな所に ガラスのスタジオをつくっちゃったんですね。 |
── | なるほどね。どこでもできちゃうわけですね。 |
shino | どこでもできちゃうんですよ。 たとえば伊賀焼は伊賀の土が必要だけれど、 そういう意味では、 ガラスはどこから持ってきてもいい。 そういうふうにお金をかけたスタジオが たくさんできていくなかで、 私たちのやってたところっていうのは、 ものすごくお金がなく、 スポンサーもなくやっていた。 ガラスって、テクノロジーと共に 発達していく素材ですから、 そんな時代になったら、もう限界だから やめましょう、ということになりました。 でも、私達がやっていたことは、 情報の発信でもあったので、 じゃぁ次はメディアだということで‥‥。 |
── | はい。 |
shino | 雑誌をつくり始めたんです。 私たちはアメリカのガラスアートに 影響を受けてやっていたものだから、 バイリンガルで。 |
── | なんていう雑誌だったんですか。 |
shino | 『グラスワーク(glasswork)』です。 京都を拠点に、5年間、やりました。 でも最後の1年間は、チェコと京都を 行ったり来たりしながら編集していました。 |
── | その、チェコとの縁は、どんなふうに? |
shino | 最初に訪れたのは商用でした。 あるギャラリーの人が、 私のもっていたアメリカのネットワークと、 そのギャラリーのもっている ヨーロッパのネットワークをドッキングさせたら、 ものすごく便利なんじゃないかと、 私をヨーロッパ出張に誘ってくださったんです。 そこで完全にハマってしまって。 |
── | ハマったというのは、 チェコのガラスに? |
shino | いえ、チェコそのものに。 |
── | え? |
shino | チェコに、ハマってしまったんです。 |
── | チェコそのものにハマっちゃった? |
shino | そうそうそう。 その当時はまだチェコスロヴァキアでしたけど。 |
── | へえ〜! |
shino | ちょうどその頃、 もう私は「ものをつくるのをやめる」って 言い出したのね。 29歳の時のことです。 ちょっと、いろんなことに疲れてしまい、 1つずつ、自分の好きなことを捨てていった。 それでも最後まで ものをつくることはやめなかったんだけれども、 あとは、ものをつくることしか 残っていないというときに、 アレクサンダー・カルダーの 展覧会を観に行きました。 |
── | モビールの人ですね。彫刻家。 |
shino | そうそう。それで、実は、 カルダーは自分の普段づかい用の キッチンツールとかもつくっているのを知って。 |
── | へえ〜! |
shino | 「ほぼ日」の人は きっと好きだと思う! |
── | へえ! |
shino | で、それを見た時、もう目からうろこで、 私は、社会に発表するものづくりは、 やめてもいいや、と思ったんです。 発表するということに すごくしがみついてたんだけど、 もう、やめてもいいやって。 要するに、自分が毎日つくるご飯だったり、 自分が自分のためにつくるセーターだったり、 そういうもので自分のクリエイティビティは 守れると思ったの。 |
── | カルダーが自分のためにつくっている 台所用品を見て、そう思ったんですね。 |
shino | そう、だから、 「もう、や〜めた!」って言って。 |
── | ガラスを、やめちゃった? |
shino | そう。全てやめました。 |
── | わあ。 |
shino | 入っていた展覧会の予定もキャンセルして。 そのとき、まわりの人たちのなかに、 あなたはしばらく海外で 暮らしたほうがいいんじゃないかって 言ってくれた人がいました。 最初は、シアトルに行くように 回りが動いてくれたんです。 つくっていた雑誌や本の拡販の仕事もあったし。 けれどいろいろな事情でそれがダメになり、 じゃあ、どこか他に行こう、ってなった時に、 「よし、プラハだ!」って。 |
── | チェコにハマってた、という理由で? |
shino | よく聞かれるんです、 17年も住みつづけているけど、 そもそもなんでプラハなの? って。 なぜかっていうと、そこには 「昭和」があったからなんですよ(笑)。 |
── | 「昭和」って?! |
shino | 新幹線は要らないけど、 ちんちん電車は必要という暮らし。 |
── | うんうんうん。 |
shino | 自分の家に電話はなくていいけど、 公衆電話くらいはあるという暮らし。 |
── | いろんなものから縁を切って旅立つにあたって 便利すぎる場所じゃないところという意味で、 でもまったくのむかし風の 暮らしでもないということころで、 当時のチェコのテクノロジーは ちょうどいい按配だったんですね。 |
shino | そう。そして、まだなんかすごく小さいことで 人を幸せにしてあげられるなっていう雰囲気が 当時のチェコにはありました。 チョコレート1枚でも みんなが幸せになれる、みたいな。 |
── | もう自由国家になっていたチェコですよね。 |
shino | はい。初めて行ったのが1990年の1月。 革命があったのが89年の11月です。 |
── | ほんとうに、直後ですね。 |
shino | はい、それで、住むって決めたのが91年です。 もう楽隠居で行こうかと。 |
── | 楽隠居。 当時の物価は相当安いでしょうけど、 どういう計画を立てたんですか。 |
shino | その頃は、まだ雑誌をつくってたので、 2ヶ月向こうにいて 1ヶ月日本に帰ってきて編集の仕事をしました。 日本でもらったお給料で むこうで十分暮らせたわけです。 |
── | すごい。ある意味、 若いですよね、発想がね。 でも、いつまでも、 続かないんじゃないですか。 |
shino | そうそう。 それでも2年は過ごせるだろうと、 30歳にして、考えていました。 だけど、2年経ったら 全然帰る理由も見つからなかった。 まだ物価も安かったし、 それで、家に電話をかけて、母に、 「2年経ったんだけど、 まだ帰るのやめようかと思う」 って言ったら、 「そうね」って言われて(笑)。 |
── | ありゃ(笑)。 |
shino | なんにも引きとめられなくて。 「どこにいても同じよ」って。 |
── | いいお母さんだ。 |
shino | そうなの。それで、 (その2に、つづきます) |