shino | それで、そのままプラハ生活 3年目に入るのはいいけれど、 さすがになんにもしないままではいられなくて。 というのもチェコの知り合いたちが、 ──それは、私が日本にいる時に チェコの作家の展覧会するお手伝いをしてたから、 かなり、チェコの芸術の世界で 上の人たちとお付き合いがあったんですが。 |
── | アーティストたち? |
shino | そうです。国宝級のアーティストたちや、 学芸員、大学の教授とか、 そういう方たちとの交流があったんですね。 その方たちが、 「shinoはいったいいつになったら仕事するんだ?」 って言い出したわけ。 |
── | ああ〜。 |
shino | で、私は、「しないの」って。 「私は何もしないために来たの」 って言ったんだけど、 共産主義がまだ色濃く残ってた時代だから。 |
── | 「働かざる者食うべからず」。 |
shino | そう。それで、趣味なんていうのは、 絶対許されないわけ。 遊びとかいうのはもう! |
── | あ、共産主義が終わっても、 そういうところは、違っていたんですね。 |
shino | 「そんな道理が通るか」みたいに すごく説教されまして。 それでもう、私が知らないところで、 有無を言わさず、ワークショップに 突っ込まれちゃったんです。 |
── | ワークショップというのは、 一般の人が体験する、 カルチャースクールみたいなことではなくって、 アーティストを招聘して開く、 アーティスト同士がしのぎを削る、 「作品づくりの場」ですよね。 |
shino | そうです。 つくらなくてはいけない。 発表しなくてはならない。 |
── | じゃあ、捨てたはずのガラスを、 またやらなきゃいけなくなっちゃった。 |
shino | はい、やらなきゃ いけなくなっちゃったんですよ。 |
── | でも、ワークショップなら場所があるでしょうが ガラスをつくるのは、 設備も必要ですよね。 |
shino | それが、運がいいのかと思うんですが、 人のスタジオを借りられたんです。 |
── | というのは? |
shino | スタニスラフ・リベンスキーと ヤロスラヴァ・ブリフトヴァーっていう 泣く子も黙るようなチェコの芸術家夫婦が いるんですね、 1970年の大阪万博のチェコパビリオンに、 22メートルだったかな、 「生命の川」という大きなガラスの作品をつくって、 それがソ連の武力統治に反抗する声明だというので チェコで幽閉されちゃったっていう、 すごい作家が。その方が、 「shino、いつでも好きな時に スタジオを使っていいよ。 ものをつくりなさい」 って言ってくださったんです。 それは、世界中のガラスのアーティストが、 「そんなことをリベンスキーから 言われたやつはいない」 って言っていうぐらいの すごいことだったんですね。 なのに、私、「は〜い!」なんて。 |
── | 軽く返事をしちゃったんですね(笑)。 どんなスタジオなんですか? |
shino | そこはね、ご主人が絵を描き、 奥様が実際のガラスをつくるため、 原寸のモデリングをしていくんです。 会社の会議室くらいの 粘土の彫刻をつくったりしている。 すごいんですよ、本当に。 で、その横で私は 手のひらにおさまるくらいの ものをつくってました。 そういう、とても恵まれた 経験をしていたんです。 |
── | なかなか、ビーズのチョーカーに たどりつかないですね(笑)。 |
shino | もう、近づいてますよ(笑)。 当時、チェコ人のボーイフレンドがいて、 その子にアフリカショップをやってる友達がいて、 遊びに行ったとき、 チョーカーと出会ってしまうわけです。 |
── | やっとつながりました。 |
shino | それで、1本、自分用にチョーカーを買って つけていたら、 そのボーイフレンドが器用な子で、 クリスマスにつくってくれたんです。 そうしたら、それが メチャクチャかっこよかった。 で、「私もつくる」って、 2人でつくり始めたんです。 |
── | それが、ビーズのチョーカーなんですか。 |
shino | ビーズです。 それが今の母体になっています。 |
── | そうなんだ。てっきりチェコの ガラスビーズを使いたくて、 向こうに行ったとばかり思っていました。 |
shino | たしかにチェコのガラス産業っていうのは 地場産業みたいなものだから、 器もビーズも、つくるガラス工場は あるていど決まっているんですね。 もともとガラス関係で出入りをしてたから、 わりとスムースに チェコのビーズを手に入れることはできます。 けれどその前に、だいたいチェコの家って、 どこの家でも押入れとかタンスとか探すと、 お母さんが昔使ってたとかいうビーズが 1袋ゴソッと出てきたりするんです。 まずはそれを貰って、つくり始めました。 最初はアフリカから発想しているから、 わざと汚したりして古びをかけてて、 とんでもないものをつくっていました。 それを自分用につけてたら、友達が見て、 「欲しい、欲しい」って。 「じゃあ、欲しい人には売ってあげる」 みたいにして、 1年かけて、20本ぐらいつくりました。 日本の友達はものつくりをしてる人が多かったから、 それをつけてギャラリーに行ってくれたのね。 それを見たギャラリーの人が 「それは誰がつくったの?」って、 だんだん、そんなふうに、 広まっていったんです。 |
── | そこからいまのshinoさんにつながるんですね。 |
shino | ところが、そのあとに、 自分でも予想していなかった あまりに辛い人生がやって来て、 私はいちどビーズを捨てているんです。 でもその話は詳しくは‥‥言わなくってもいい? |
── | はい、大丈夫です。 |
shino | それで、ビーズのほかに、 陶芸もしていて、 ──それはいまも続けているんですが──、 他のガラスづくりもしてたので、 そちらに夢中だった時期がありました。 けれど、しばらくしたら、チェコの友達がまた 「ビーズがこんなにたくさんあって もったいないから、使えば?」って 持ってきてくれたんです。 かと思ったら日本の友人からも、 「もったいないから、 もう一回つくったほうがいいよ」って声が。 「もし今度チョーカーをつくるんであれば、 もう少し万人の人がつけやすいものをつくれ」 ってアドバイスもしてくれました。 |
── | (笑)アフリカじゃなくて、ですね。 |
shino | そう。「このテイストはいいんだけれども、 もう少し幅広い人が使えるもの、 つけたいようなものをつくったほうがいい」 という、すごく適切なアドバイスを してくれたんですね。 それで、なるほどって。 そうすると、私も、 工程的に3分の1で済む。 たくさんの作品を つくることができるようになりました。 そうしたら、私のもともと持っている ポップな路線とうまく合ったんですね、 それで、今に至ります。 |
── | 日本での最初の展覧会は──? |
shino | 2001年に、井上典子さんの「ギャラリー介」で、 ジュエリーの5人展に参加させてもらいました。 ところが私のチョーカーだけが 毛色があまりにも違うので、 DMも、4人の作品が並んで写真に納まっているのに、 私のだけ、ほら、クラス写真で。 |
── | 休んでる人扱い? |
shino | そう(笑)! そんなふうなデビューでした。 けれども幸いお客さまの評判もよくて、 次は2人展、そして個展をと やらせていただいたんです。 ガラス作家の高橋禎彦さんと コラボレーションをしたり、 いろいろな実験をしました。 |
── | ということは、shinoさん、 ビーズのチョーカーの作家としての 日本でのデビューは、40代になってから。 |
shino | まさに40歳ということになりますね。 |
── | ギャラリー介っていうのは 不思議なところでしたよね。 井上典子さんという目利きのおかみさんが、 作家を発掘しては紹介してきたんですよね。 「ほぼ日」で紹介した小倉充子さんも ギャラリー介で個展をしていましたし 「あみぐるみ部」のイベントを やってくださったりして。 残念なことに、いまは、引退なさって、 閉廊してしまったんですけれども。 |
shino | そうしたら面白い引き合わせで、 大橋歩さんのイオグラフィックギャラリーで 小倉充子さんの個展があったとき、 引退していた井上さんが手伝いをなさったんですね。 その時に井上さんはもとより、 ギャラリー介時代のお客様で わたしのチョーカーをつけてきてくれた方が いらっしゃって‥‥ それを見て大橋歩さんが興味をもってくださった。 そこで井上さんが私を紹介してくれて。 |
── | それでこんどの個展が 開かれるに至った、わけですね。 |
shino | 本当に、ほんとうに、 ありがたいことです。 |
── | shinoさんはチェコでも 個展をなさっているんですか。 |
shino | ガラスのインスタレーションは 1998年に北ボヘミア美術館でやってます。 チョーカーはこの夏に、プラハで開きました。 個展ではなくて、二人展や三人展ですが、 もう3回目になるんですよ。 |
── | プラハでやるきっかけは、 やはりまわりのアーティストの友人たち? |
shino | そうですね、日本で ガラス作家の高橋禎彦さんと いっしょにやった経験が、 私にはとても大きくて、 チェコでも誰か組める人をと 探していたときに、 ジュエリーアーティストの ハヌシュ・ラムルっていう 男の子を紹介してもらって。 彼は自然の木の実であるとか、 ほおずきだとか、松ぼっくりだとか、 ライチだとか、そういうものを シリコンで型にとって、 樹脂を流して固め、自分の彫金と合わせて ジュエリーをつくってるんです。 その作品をとても気に入ってしまって、 一緒に作ることになって。 彼の奥さんが刺繍系の作品をつくっているので、 私を入れた3人展が プラハでのデビューになりました。 そうしたら思いがけないぐらい、 ガラス作家のお歴々がみんな見に来てくれて。 |
── | すごい。新人のデビュー展とは思えないですね。 |
shino | はい。それで、みんながもう 信じられないくらい褒めてくれて、 そのなかに、 イヴァナ・シュラムコヴァという すごく仲のいい先輩がいまして。 彼女は私と1つくらいしか違わないのに、 既に世界的に活躍してる作家なんですが、 その彼女が、「2人で何かをやろう」って 次の年に2人展をすることになりました。 そうしたらイヴァナの力もあって また錚々たるメンバーが見に来てくれて。 みんながものすごく褒めてくれながら、 「もうこれは絶対、 つくり続けなければいけない」 って言ってくれて。 |
── | ああ、おもしろいです。 人の人生をかんたんに 「おもしろい」って言うのはなんですけれど、 おもしろかったです。 イオギャラリーの展示も、 とても楽しみです。 |
shino | 初めて見てくださるかたも多いと思うので シンプルなものを中心にしながら、 チェコのふるいおもちゃを組み込んだ チョーカーも出しますよ。 ぜひ見てくださったら、うれしいです。 |
── | ありがとうございました! |