- ──
- 俳優の才能って、
どういうものだと思われますか。
- 池松
- 時代によってちがうと思います。
- ──
- なるほど。
- 池松
- あるいは、俳優の才能って、
人間の才能のことだと思います。
ぼくは、「技術」というものを
信じていない‥‥というか、
技術だけでやれるものを、
否定してきたようなところが
あるんですね。
- ──
- ええ。
- 池松
- 技を磨くことは大事だし、
なんであれ「職人さん」に対しては
強い憧れもあるんですが、
一方で、このコップを
いちばんうまく演ずることのできる俳優が、
いい俳優だとは思ってなくて。
- ──
- はい。
- 池松
- それよりも、いまの時代を見つめて、
あるいは未来を見つめて、
人間を創造することのほうに、
俳優の才能は、あると思っています。
- ──
- やっぱり、そこなんですね。
- 池松
- ぼくは、俳優というのは、
いちおう、
表現者のはしくれだと思っていて。
- ──
- いやあ、そうでしょう。
- 池松
- とすれば、自分は、
何を世の中に届けられるだろう。
そういうふうに思っていますね。
- ──
- そこに、「俳優の才能」はあるし、
何を届けられるかは、
その人間の才能や魅力でもあると。
- 池松
- 映画の良し悪しにかかわらず、
そのなかで
うまく演じることばっかりが、
俳優の才能ではないと思います。
映画の黄金時代ならいざしらず、
日本映画の衰退期に
俳優をはじめてしまったぼくは、
どうしたってそう思います。
- ──
- つまり‥‥。
- 池松
- 演ずることが俳優のゴールじゃなく、
やっぱり、
届けることがゴールだと思いながら、
ずっとやってきました。
- ──
- なるほど。
- 池松
- だからこそ、
俳優が届けるものを選ばないことは、
ちがうと思っているんです。
- ──
- つまり「何を届けられるか」‥‥に
出演映画を選ぶ基準がある。
- 池松
- いま、俳優という存在が、
大きな声を持ってしまっているなら、
届いてしまうものに対して、
演じる側の責任が、あると思います。
- ──
- 自分が届けたいものと、
作品の届けたいものとありますよね。
- 池松
- 賛同できるかってことですね、要は。
ぼく、1歳と3歳の姪がいるんです。
- ──
- ああ、かわいい盛りですね。
- 池松
- あの子たちも多かれ少なかれ、
いまの時代の映画を浴びて、
影響を受けて、育っていくわけです。
そう思うと、つまらないと感じてしまう
テレビとか作品に対しては、
どうしても憤ってしまうんです。
- ──
- こんなの観たらどうすんだ‥‥と?
- 池松
- はい。
- ──
- では「届いた」という感覚って、
俳優さんの側にはどうあるんですか。
- 池松
- なるほど、おもしろいですね。
難しいけど、少なくとも言えるのは、
届いたという感覚は、
数字と比例するものではないですね。
- ──
- そうですか。
- 池松
- ようするに、カップラーメンが、
いちばんおいしいラーメンじゃないですよね。
- ──
- いちばん売れているラーメンではあるけれど。
- 池松
- もちろん、映画というものは
人間の発明や英知かもしれないけれども、
同時にビジネスですから、
観られてなんぼだとも思っているんです。
誰かひとりの心に届いたらいい、
そんな映画をやっちゃいけないと思うし、
そういうのがやりたいなら、
どこかの路上でやればいいと思います。
- ──
- ええ。
- 池松
- でも、『無伴奏』のことを、
あれだけ好きですって言ってもらったの、
ぼくは、はじめてなんです。
- ──
- あ、そうですか。
- 池松
- 映画の公開から
3年とか4年、経ってる作品ですが、
はじめてでした。
そういうときは、
「あ、この人の何かになったんだな」
と感じられるし、
何かが届いたんだなあって思えます。
- ──
- なるほど。
- 池松
- ただし、そういう直接的な言葉が
なかったとしても、
映画館に出向いて、
観てくれた人の顔を見ればわかる。
自分にも、経験があるんです。
- ──
- 自分に届いた経験?
- 池松
- そう、すごい映画に出会ったとき、
いつもは
こんな背中が丸まってるのに、
映画館を出たら、
胸を張って帰っていってたりとか。
人間の足取りを変えてしまったり、
それくらいの力が、
映画にはあると思っているんです。
- ──
- 観てくれた人を見れば、わかる。
- 池松
- はい。わかります。
<つづきます>
2019-09-29-SUN