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仙台で介護の仕事をしています。
11日は、手帳を開く余裕は
もちろんなく、
13日になり、はじめて書きました。
以前見た、何かの映画
(天変地異が起こる内容)の
とても恐ろしいシーンを
思い出したことを書いています。
そのくらい現実とは思いにくい
できごとだったんだと思います。
(49) |
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北九州市に住んでいます。
その日の手帳には
何も書いていません。
びっくりしすぎたのだと思います。
次の日は朝刊を貼り付けています。
切り抜きと呼ぶには大きすぎる、
ほぼ「一面」を折りたたんで貼りました。
当時は地震があったばかりで
「大変だ〜」としか
思ってなかったようで、
そのあとの本当の大変さが
まだ想像できていませんでした。
(ちゃこすけ) |
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その前の年末に退職して、
茨城・水戸の自宅にいた時期に
地震が置きました。
家の中のものがひっくり返り、
テーブルの上で水に濡れた手帳は、
あとで乾かしてはみたものの、
何も書く気になれませんでした。
「きっと後で思い出したくなるから
書いておかないと」と思っても、
なかなか気持ちを変えられず、
春はじまりの新しい「ほぼ日手帳」に
乗り換えてしまいました。
もちろん福島、宮城、岩手の
被害に比べたら、
水戸の被害は小さいものでしたが、
それでも、自分の生活には
大きな影響がありました。
(ノウゼン No-Zen) |
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あの日は歩いて帰宅しました。
手帳には「スニーカー」や
「iPhoneを充電できるもの」など、
「あったら良かったのに」と
切実に思ったものが
書いてありました。
ほかにも、「でも良かったのかな」と
書いてありました。
あの交通渋滞で救急車両が
立ち往生したのではないかと
気になって、
無用な帰宅は避けるべきだったのかも
と思って書いた一言です。
(daisy) |
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あの日の「ほぼ日手帳」には
地震の発生時刻や、
ライフラインが止まったこと、
避難状況などが、
いろいろと書いてありましたが、
一番印象に残ったのは、
たまたま残っていたご飯で作った
「具がないおにぎり」のことを
書いてあったことです。
(five) |
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宮城県在住です。
あの日は、自宅が壊れ、
介護を要する家族を抱え、
避難する足もないまま
動揺していました。
ラジオから聞こえてくる
「余震に注意してください」の言葉。
この後の手帳を見ると、
動揺がそこかしこに表れています。
あれから何ヵ月もたち、
自分も家族も元気です。
今はあの日のことは振り返らずに、
淡々と毎日を過ごしていきたいです。
(agasa) |
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震災の後、何が起きたのか、
何を書けばよいのか、
心の中を整理できず、
何も書けませんでした。
当日に書いたのは、
職場から3時間歩いて帰宅したことと
日帰り出張の夫が大阪で泊まることに
なったことくらいです。
次の日になっても書けることは
少なかったのですが、
でもここで書いておかねば‥‥と
思い追記しました。
(おおしま) |
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あの日の手帳には、
「関東で大きな地震があったらしい。
◯◯ちゃんたちは大丈夫かなぁ?」
と千葉に住む、義理の姉たちの
名前を書いています。
京都は全く揺れを感じなかったので、
この日はまだ事の大きさを
実感していなかった気がします。
翌日からのほうが記載が多いかな。
(えがこ) |
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岡山在住です。
この時期は毎日お昼に
りんごを食べていて、
手帳にはその日の値段が
書いてあります。
いまはじめて気づいたのですが、
それまでのページは
黒いボールペンなのに、
震災の日から1ヶ月間は
グレーのボールペンになっています。
強い色で自分のことを書くことが
できなかったようです。
「私の暮らしは
どうして変わらないのか」
数日間はずっとぼーっとして、
画面を見て無感覚で泣いていたように
記憶しています。
(yaya) |
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14:56にダンナさん、
14:57に子どもを預けていた母から
メールが届き、無事を確認したことが
メモしてあります。
TVで目にしたのは津波が田畑を
無造作に飲み込んでゆく光景でした。
衝撃を受け、スケッチしています。
課員を帰宅させ終わったのは
夜中の12時頃でした。
朝一番の電車に乗って実家に戻り、
子どもに会えたときは
本当に嬉しかったです。
(せがわ) |
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その日は映画を見に行っていました。
映画の後にお茶をして、
そろそろ帰ろうとした瞬間、
突然の揺れ。
一瞬、眩暈かと思いました。
手帳にはその日の映画の半券と、
お茶をしたお店のレシートが
貼ってあります。
駅に着いて第二波の揺れ。
電車は止まり、タクシー乗り場に
移動して並びました。
その時の寒さや不安感は
忘れられません。
でも駅前に並ぶ人たちは
みな、冷静でした。
(ゆう@横浜) |
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あの日は会社に泊まりましたが、
「帰りたい」と言った部下を
諌めたことが書いてあり、
意外と冷静に過ごしたようです。
手帳の真ん中には、
歩いて帰った部下の
到着報の時刻が書いてあります。
私の郡山市の実家には
夕方に電話が通じたのですが、
カミさんの福島市の実家とは
つながらず。
保原(現伊達市)にいる
大事な友人とはメールで夜8時ごろに
やり取りできました。
ほかの方とは全く通じなかったので、
奇跡的でした。
(KRS) |
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3月11日、私の手帳は流されました。
いつもは持ち歩いている手帳ですが、
荷物を少なくするために、
家に置いてきていました。
そして、あの地震と津波‥‥。
大事な思い出と一緒に
手帳は流されていきました。
なので、写真は添付できませんが
生きているだけで充分だと
思っています。
これから先、街がどのように
復興するか分かりませんが
日本中の人たちに助けてもらった恩を
胸に、がんばろうと思います。
(スガワラ) |
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久しぶりに去年の手帳を
開いてみましたが、
気持ちがざわざわすることに
驚きました。
当日の手帳には、
地震があったことと、
当地の震度や、
連絡がとれない人のこと、
「姪の通う中学校に
200人くらい足止め」
など、当日起こったことが
書いてありました。
(min) |
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