糸井 | 道歩さん、円さん、 きょうはよろしくお願いします。 |
道歩さん | こちらこそありがとうございます、 よろしくお願いします。 |
円さん | よろしくお願いします。 |
糸井 | さて──、来ましたね、この日が。 |
道歩さん | はい! 来ました。 |
糸井 | あそこにぼくの湯のみが置いてあるんです。 |
道歩さん | これですよね。同じ形。 同じときに父(福森雅武さん)が つくったものです。 |
円さん | あ、これが糸井さんが 使われているものなんですね。 |
糸井 | そう、ぼくが今、 家で使ってるのはそれなんです。 |
ほぼ日 | すべての始まりが、これですよね。 このお店をはじめよう、 っていうきっかけが、この湯のみでした。 |
道歩さん | はい、そうでしたよね。 覚えています。糸井さん、それね、 ぱって手に取って、ほんとすぐに 「これ、ください」って、 ぱっと買われたんです。 |
糸井 | あ、道歩さん、その場にいらした? |
道歩さん | はい、いました。 |
円さん | そうですよね。 カレー皿販売の前じゃないですか? |
糸井 | そう、前です。 つまりこっちの方が カレー皿より時間がかかるんだよね。 1人でやることじゃないからね。 |
道歩さん | そうなんですね。 |
ほぼ日 | 時間、かかりました。 |
糸井 | 今も元気で家にいますよ。 |
道歩さん | そんな気がしますね‥‥。 |
円さん | もうだいぶ変わりましたか? 育つっていう意味ですけれど。 |
糸井 | やっぱり、これを見ると──。 |
道歩さん | 糸井さんが使われているものとは、 違いますでしょう? |
糸井 | そうなんだ。なんていうのかな、 まだ、冷たいよね(笑)。 |
道歩さん | ああ、ああ、ああ。 |
糸井 | うん。あのね、ぼく、 大事になんか使っていないんですよ。 ほんとに普通に、ただ、使ってるんです。 でも、機嫌、いいんですよねえ。 |
道歩さん | うん! よかったです。 よく「気まぐれカメら」に出てくるのを うれしく見てるんです。 |
糸井 | あれ、そう? 載ってますか? |
道歩さん | はい! |
糸井 | あ、じゃ、ただ単に 写っちゃってるんだね。 |
道歩さん | お皿も写ってましたよ。 自分んとこの、すぐ分かります。 |
ほぼ日 | そんなふうに「気まぐれカメら」を ごらんになってたんですね。 うつわって、使っていると、 やっぱり、育つんですね。 |
糸井 | そう。そう! |
道歩さん | ね。 |
ほぼ日 | それは茶渋が付くとか、 そういうことですか? |
道歩さん | それもありますね。 |
糸井 | それから主に ここ(高台)のところだよね。 変わってくる。 |
道歩さん | そうなんです。 |
糸井 | 色とか質感とか。 |
道歩さん | 光沢も変わってきます。 |
糸井 | あと、全体ももっと、 あえて悪く言えば 「きたなく」なってくるんだよ。 |
ほぼ日 | へえ! 土ものって、そこが面白いですね。 |
糸井 | 面白いですよねえ。 |
道歩さん | ねえ、面白いですよねえ、うん。 やっぱり。 |
糸井 | そう、ここから始まったんだよ──。 このお店の前提になるところを ぼくの口から言うと、おおもとは、 みんなが使ってる湯のみって、 代わりばんこに誰がどれを使ってるか 分かんない湯のみなんですよね。 会社で出てくる湯のみもそう。 それが普段目にしてる「湯のみ」なんです。 |
道歩さん | はい。 |
糸井 | 「自分のごはん茶わん」と 「自分の湯のみ」っていうのは、 持っている人といない人がいる。 で、持っている人の中でも、 「これはいいから自分のなんだ」 って思ってる人と、 「何か俺のって決められてるから決まった」 っていう人がいる。 何ていうの、野球の選手が描いてあるような ごはん茶わんって、昔、あったんですよ。 子どものはそれだよ、みたいに。 |
道歩さん | はい、はい。 |
糸井 | で、湯のみについては結構、その家、その家で 誰のだっていうのがあるんだけど、 それを気に入って使ってるかどうかは、 分かんないと思うんです。 で、たまったま、福森雅武さんの 展覧会があったときに行って、 何にも思わずにこの湯のみを見たら、 「俺の」って言って喜んで使う 湯のみにしようって思ったんです。 これを見て。 |
道歩さん | はい。 |
糸井 | 他のでもよかったのかもしれないんです。 けど「縁」だから。 相性みたいなものだから。 これを俺は自分の湯のみにしてみよう、 っと思った。 使ってみて、そういう気持ちになんなかったら それはそれでいいやと思ったんです、実は。 今は気に入ってるけど、 結局使わなかったねっていうのも、 世の中にはあるわけで。 家の中に入って、 ものとして立つんですよ。 で、このお茶わんも実は 家に入ってから立ったんですよね。 展覧会場は選ばれるときの 「こんにちわー」だったんだけど、 家に置かれてからお茶飲んでるうちに どんどんどんどん立ってきた。 |
道歩さん | うん、うん、うん。 |
糸井 | なーんていうんだろう、 好きにならせるものとか 大事にしたいものっていうのを 選ばずに生きてこられるんですよね、人って。 「これでいいや」っていうので。 映画に行こうとか芝居を観ようとか、 飯食いに行こうというときには、 「あそこ、行こうよ」って言うのに、 お茶わん1個買うときに、 なーんか自分に合うのほしいなあって 心から思ったことってなかなかない。 だから少なくとも ごはん茶わんと湯のみは ほしい人がいるんじゃないかな、 俺もそうだったもん、って、 (この年齢になって)今ごろ、そう思ったんです。 で、そこに福森さんがいた。 けれどみんなが福森さんのお茶わんを 使うのってのもおもしろくないし。 |
道歩さん | ねえ(笑)。 |
糸井 | みんながこれ使ったら、 大事にするもなにもないからね。 湯のみもごはん茶わんも 日本中に作ってる人はいっぱいいるんだし、 相性みたいなもので、値段のこともあるだろうし、 「わたしはこれ」っていうのが絶対あるはずだから、 触らないで買うのはあれかもしれないけど、 そこはもう信用してもらって、 「ほぼ日」でやりたいなと思ったんです。 |
道歩さん | はい。 |
糸井 | そんなふうに「育つもの」が 手に入るような仕組みを作れないかねって。 |
(つづきます) |
2011-02-08-TUE |
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