おじいちゃんのプランター。
- ──
- いわゆる「プランター」というものは、
芹澤さんのおじいさまが、発明された。
- 芹澤
- はい。
- ──
- ちょっと、意外な感じがしました。
日本人がつくったというのもそうだし、
そもそも「プランター」が
固有名詞だったとは知らなかったので。
- 芹澤
- でしょうね、人口に膾炙してますから。
でも、実際のところは、
「亀の子タワシ」などと同じ日本語で、
祖父の造語なんです。
- ──
- しかも、本家の「プランター」って、
百均で売っているような
単なる「プラスチック製の鉢植え」とは、
構造が、ちがうんですよね。
- 芹澤
- はい、水と空気を循環させる仕組みが、
きちんと備わっています。
その仕組みは、祖父が、
種苗会社の「サカタのタネ」さんや
農大の先生と協力して、
約6年かけて、開発したものなんです。
- ──
- へえ‥‥。
- 芹澤
- 詳しい説明は省きますが、
プランター内に新鮮な空気を取り込み、
不必要な水は抜く。
プランター内の土と水の割合を
実際の地層と水脈の割合と同じに保つ、
そういうシステムなんです。
- ──
- 知らなかったです。
ただのプラの長い箱じゃなかったんだ。
- 芹澤
- そうですね、あの長方形の箱のなかで、
「小さな自然」を再現する、
ということが、
祖父の描いたコンセプトでした。
- ──
- これまでずっと、何でもかんでも
「プランター」って呼んでましたけど、
間違ってたってことですね。
芹澤さんのところの「プランター」は、
価格も「2000円前後」して、
安いのにくらべたら値段も数倍するし。
- 芹澤
- もちろん当時も、
陶器でできた素焼きの鉢のようなものは、
たくさんありました。
でも、水と空気の循環システムを備えた
「プランター」は、
わたしの祖父である芹澤次郎が
発明したものです。1955年‥‥でした。
- ──
- なるほど、そういう時代に。
- 芹澤
- 会社自体は、1949年に設立しました。
芹澤プラスチック工業という名前で
立ち上げたんですけど、
それから6年、試行錯誤を繰り返して。
- ──
- で、「1955年」に、ようやく完成。
そもそもおじいさまは、
なぜ、そういうものをつくろうと?
- 芹澤
- 祖父は、戦争から帰ってきたあと、
祖母とふたり、
静岡の田舎から、渋谷の道玄坂上まで、
リヤカーを引っ張ってきたんです。
- ──
- 一旗揚げようと。
- 芹澤
- ええ、2年くらいかけて。
- ──
- 2年。えらい時間かかってないですか。
- 芹澤
- のんびり来たんだと思います(笑)。
途中、
調布に住んだりしたとも聞きました。
- ──
- なるほど。
- 芹澤
- そうやって各地を転々としながら、
やっと渋谷の道玄坂上にたどり着いて、
でも、代官山が越えられなくて、
「じゃあ、ここでいいか」って言って、
その場で創業したと聞いてます。
- ──
- 「プランターの会社」を。
- 芹澤
- たぶん、終戦直後の時代には、
何をつくっても、発明になったんです。
物が何にもない時代でしたから。
- ──
- でも、そこで「プランターだ!」って、
どうして思ったんでしょうか。
- 芹澤
- 戦後の復興期から
1964年の東京オリンピックにかけての時期、
東京の街は、
ものすごい勢いで都市化していました。
ビルが建ったり、
大きなマンションができたりしていく反面、
「自然」や「緑」というものが、
祖父の目にまったく映らなくなっていって。
- ──
- そもそも「焼け野原」だったわけだし。
- 芹澤
- そう。
静岡から出てきた祖父としては、
人が、花や緑と触れ合う機会を失うのは、
一大事だと思ったみたいですね。
- ──
- そこで「プランター」をつくろう、と。
- 芹澤
- 当時、代々木周辺を中心に、
どんどん団地が建設されていたんですが、
最初の動機は、
そこで花や植物を育てられるようにって。
そうやって、1955年に
ようやくプランターを完成させて、
その後、前回の東京オリンピックのとき、
東京中に広まったんです。
- ──
- おお。
- 芹澤
- 渋谷を中心に、沿道やお店の軒先が、
祖父のプランターで彩られていきました。
折しも、カラーテレビが出てきたときで、
東京の街に咲く花の鮮やかさが、
日本中、
ひいては世界中の人たちに伝わりました。
- ──
- 色つきで。ようするに、
おじいさんのプランターのようなものは、
世界的にも、なかったんですか?
- 芹澤
- そう聞いています。
だから、東京オリンピックをつうじて
祖父のプランターを知った
世界の人々が
「おお、東京の花壇はムーバブルか!」
と驚いたとか。
- ──
- あらためてですが、
開発をはじめた1949年当時って、
生きるために必要なものへのニーズが、
まずは、あったと思うんです。
でも、おじいさまが情熱をかたむけたのは、
言ってみれば、
腹の足しにならないものだったわけで‥‥。
- 芹澤
- やっぱり祖父は、東京の人たちが
花や植物に触れる機会を失うという事態に、
本質的な危機感を抱いたんです。
そういう状況は、
人間本来のありようから外れてしまうって、
憂いていたんだと思います。
- ──
- なるほど。
- 芹澤
- また、都内の小学校に採用されることも
決まっていたんですが、
とくに子どもたちのためにということを、
考えていたんだと思います。
- ──
- たしかに、学校でよく見る感じがします。
おじいさまのプランター。
- 芹澤
- それこそ「学校」に関していえば
ある時期までは、
わたしたちセロン工業のプランターしか
置いていなかったはずです。
- ──
- あ、そうなんですか。
- 芹澤
- うちの近くの蕎麦屋さんもそうですが、
昔ながらのお店の軒先にあるのは、
祖父のつくったプランターが多いです。
かなり年季が入ってますけど、
30年40年選手で、がんばっています。
- ──
- その後、時間が経つにつれ、
いろいろなメーカーで、つくられはじめて?
- 芹澤
- そうですね。とくに高度経済成長期以降は、
さまざまな企業が、
今でいうガーデニングや
ガーデニングエクステリアの分野に
参入してきたので。
- ──
- プランターという言葉も、一般化し。
- 芹澤
- ただ、わたしたちは「命のゆりかご」って
呼んでいるんですが、
「その名に値するプランター」は、
祖父が情熱をかけて開発したもの以外には、
存在しないと思っています。
- ──
- なるほど。
- 芹澤
- 土に水と空気をきちんと循環させるという
設計思想でつくられたものは、
祖父のプランター以外にはありません。
仕組みはコピーできるかも知れないし、
プランターという言葉も真似はできますが、
祖父が抱いた思いや、
そもそもの考えはコピーできないです。
- ──
- そうですよね。さかのぼってはね。
- 芹澤
- そういう意味で、
その根本の思想を抱いて形にした祖父は、
やはり偉大だったと思います。
- ──
- いまでは、プランターという言葉は、
他のメーカーさんも使っているんですか?
- 芹澤
- 古くからあるプランターメーカーさんは
うちに気を使ってくださって、
あんまり、そう呼んでいないと思います。
わざわざ「コンテナ」と言ったりして。
- ──
- でも、その歴史を知らなければ‥‥。
- 芹澤
- そうですね、一般名詞だと思って、
使ってらっしゃるケースも、ありますね。
- ──
- ですよね。
- 芹澤
- でも、祖父としては、
ライフスタイルに落ちるところまで、
自分のプランターを
普及させたかったんだと思うんです。
ですから、
「あ、プランターって固有名詞なんだ」
と意外に思われるほど
人々の生活に馴染んできたことは‥‥。
- ──
- ある意味で、おじいさんの気持ちでも
あるかもしれない、と。
- 芹澤
- はい。
<つづきます>
2018-12-05-WED
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN