天童 |
世界で起きていることと、
自分たちの身近で起きていることが
リンクしている回路を見つけることができれば、
「世界で起きているほんとうにつらいことは、
特別なことではない、
手の届かない問題でもない、
自分たちの家庭の中で起きている
つらいことと、質としては同じなんだ」
とわかるし、
世界に対するモノの見方が変わってくるはずです。
ものの見方が変わってくることが、
自分たちの生きている地平を、
もうひとつあげてくれるのではないか、
幸せに対する価値基準も変化して、
もっと落ち着いたものになるんじゃないか、
と考えました。
新しく書きなおした
『家族狩り』では、そうやって、
「自分たちの生きている地平があがって、
風景が変われば、前のような息苦しさではない、
違う生き方が見つかるんじゃないか」
というところまで、
読者に提示したいと思ったんです。
「世界と家族と個人がつながっている回路」
を見極めていくことで、
もうちょっと生きやすくなるような、
今までとは違う風景に出会えるはず。
そういう風景を、ぼく自身も見たかったし、
読者にも、見せてあげたかったんです。
そういうのが、
今回の『家族狩り』を書く際の、意気込みでした。 |
ほぼ日 |
天童さんにとって、小説の中で
「世界と家族と個人がつながっている回路」
を見極める手がかりって、何でしたか? |
天童 |
「否認」です。
「否認」って、
心理学の分野の専門用語なんですけど、
「児童虐待が起きているのに見ようとしない」
とか、そういうことです。
例えば、自分の連れあいが
子どもを虐待していることを、
薄々感じてはいるけれども、
直視するとつらいから
「虐待はない」と思っちゃうことだとか……。
その「否認」は、学校でいじめが起きたときに、
教師がやっていることでもあるんだけども、
「ほんとに見つめるとつらいし大変だから」
ということで行われている「否認」は、
世界的にも、
国連のような場所も含め、
どこででも、さまざまな局面において
起きている現象だと思います。
自分たちの家族の中でも「否認」は起きているけど、
世界に向ける目にだって「否認」はある。
今、多くの人は、
「世界で飢餓があること」
を知っているし、
「紛争が起きていること」
も知っているはずですよね。
イスラエルやパレスチナで
起きていることについても、
イラクでもめていることでも、
詳しくは見ようとしないけど、
「何かしら事情があって自爆テロがあるらしい」
とか、そのぐらいのことなら、
誰だって知っているでしょう。
だけど、
「そういうことばかり考えるとつらいし、
生きていくのには苦しいじゃないか」
ということで、
「否認」して見ないようにしてしまうわけですよね。
でも、その「否認」は、
自分の身近なところでも、
結局、起きてしまうんですよね。
そのクセがついてしまう。
だから、隣でつらい思いをしている人のことも、
見なくなっちゃうわけです。
でも、つらいことって、
常に他人にばかり起きるわけじゃないですよね。
自分にも、起こるんですよ。
あるときに、自分の家族や親しい人が、
何かの事件に巻きこまれることなんて、
誰にでもありうることなんだけど、
そのときになってから
「おーい!助けてくれ!」と声をかけても、
隣の人は見てくれない。
それまで自分が見ないようにしてきたように、
隣の人も、見ようとしないんです。
だから、そのときになって、
「誰も自分を見てくれていない」とか、
「家族や自分は孤立している」と言ったとしても、
それは、自分のとってきた無関心の態度が、
巡り巡って自分にかえってきて、
苦しんでいるのかもしれないわけですよね。
だから、大切なことは、きっと、
「つらいけど、目をあげて、
あるいは目を横にふって、
何が起きているのかを公平に見ること」
なんじゃないか、とぼくは思うんです。
世界で起きている飢餓や紛争は、
なんで起きているんだ?
それをちゃんと見ていこうとする姿勢って、
自分の身近なところにも
フィードバックされるんですよね。
例えば、隣で痛がっている人にも、
視線が向けられるようになります。
精神的に足を踏まれている人がいれば、
それを見て「痛そうだな」とも思えるし、
「ちょっとおまえ、足を踏むのをやめろよ」
と言ってあげることができる。
言ってあげることができると、
今度は、自分が足を踏まれたときに、
言ってもらえることにもなるんですよ。
「大きな世界でも、ちいさな社会でも、
あまりにもつらいからって、
わがごとだけにとじこもっていると、
巡り巡って、自分をもっと
苦しめることになりかねないよ。
自分の大切な人、子や孫の代に
かえってくることかもしれないんだよ」
そういう気持ちは、
書きはじめる最初からありました。
だから、敢えて物語の中では、
シンボリックにするためにも、
さまざまな人が傷を受けたり、
つらい事件が起きたりするんです。
だから今回の『家族狩り』を読んで、
「つらいことばかり起きてるなぁ」
「出てくるのは、傷ついている人ばかりだな」
って思うとしたら、
実はその人は、その時点で目をふさいでいる、
とも言えるんじゃないでしょうか。
ふつうに目をあげて見れば、
傷を受けていない人なんていない。
自分自身のことを考えたってそうでしょうし、
例えば、何気なく隣で暮らしている人でも、
隠されてた事情をちゃんと聞いてみれば、
「こんな小説なんか甘ちゃんだよ」
っていうぐらいの傷を受けていたりする──。
そういう人は、実はいっぱいいるんです。
自分の傷をね、過小に評価してる人って、
意外に少なくないと思ってます。
傷の重さは、本来比較できないものです。
当人に痛いものは、他人から
大したことがないように見えても、痛いんです。
その痛みを自分自身、
ちゃんと、これは傷なんだと見つめて、その目線を
陸続き海続きの地域で生活している人々へ広げて、
同じように眺めて見れば、ほんとに
きびしいことばかり起きている世界なんですよね。
ぼくは、もうひとつの現実として、
小説を考えて構成しています。
いま現在自分たちの暮らしている世界と酷似した、
皮一枚の差の
「もうひとつの、あり得た世界」
みたいなものを作っていこうとするんです。
今回の『家族狩り』でも、次の風景を見せるために、
いちばん適するかたちの
「もうひとつの現実」を作っていくもんですから、
今の時点では
「現実を見れば、これは甘いぐらいだけど、
読者にはこれでも厳しいよね」というものを、
シンボライズして表現することになりました。 |