1965年(昭和40年)、旅に出ました。
目的地はニューヨークと中南米でした。
当時は「アメリカに行くと、20年先の日本が読める」
なんて言われていたんですよ。
とくにアートの世界で。絵画でも、音楽でも、
この先どうなるのか、だいたいの傾向がわかるって。
それで、行ってみたいなと思ったんです。
私、プレインカ(*)の
デザインが大好きなんです。
中南米の出土品の布に、すごく惹かれていて。
それを見てみたかった。
プレインカのものも、ニューヨークに行けば、
メトロポリタン美術館とか、
ほかにもいくつか見られるところがありますから、
まずはニューヨークを目指したというわけです。
そこに行けば、手仕事の未来がいったいどうなるのか、
その難問をとくヒントがあるかもしれないと思って。
*プレインカ
インカ帝国に統一される以前、紀元前1000年ごろから
西暦1400年ごろまでのアンデス地方にあった
いくつもの文化の総称。
年代や地域によってさまざまな文化があり、
それぞれに異なる特徴をもつ。
そして、まずニューヨークに行って、
そのころの現代工芸家の作品なんかを見たんですけれど、
ちっともおもしろくないんです。
プレインカや、アメリカの先住民族である
ネイティブアメリカンの仕事を見ると、
そっちのほうが、ずっとよかった。
1000年も前のものでも、
私にとっては、それが新しくて。
アメリカの現代作家がやってることのほうが、
古くさいものに見えたんです。
つぎにニューヨークからペルーに飛びました。
そのあとボリビア、メキシコとグァテマラへ。
地図を見て「ここからこう行けばいいな」って、
現地で計画をして。
「そんな道のりで行く人いない」って言われましたけど。
ペルーでは、プレインカを、
ちゃんと見ることができました。
天野博物館(*)に行ったときは、
天野芳太郎先生から話をうかがいましたよ。
博物館を開館した翌年だったんですね。
天野先生は、夢とロマンの塊のようなかたでした。
いろんなお話をしてくださいました。
先生が傾倒したという、トロイの遺跡を発掘した、
ドイツ人商人のシュリーマンのこと。
“ペルーのシュリーマン”と
呼ばれるようになったご自身が、
自ら発掘したインカの時代が、
いかに人間が平等な社会だったか。
熱心に、一所懸命に話してくださって。
たくさんのものを、そこで見せていただきました。
*天野博物館
日本の実業家、天野芳太郎そのあと、マチュ・ピチュのあるクスコの街から
ボリビアまで、鉄道で行きました。
インカ帝国を作った人たちの末裔は、
今、どうしているのか、手仕事はどうなっているのか、
見てみたかったんです。
ボリビアでは、インディオたちが、
単純な機を受け継いで、手織りのものをつくっていました。
でも、人の表情がね、生気がない。
虐げられた、過去の栄光とは全く無縁な人たちで。
たしかに手紡ぎで手織りだけれど、
それは、貧しいからやってるっていうことでしかない。
何かね、とっても、つらい感じ。
気の毒だなと思いましたね。
メキシコでは、現代の手仕事を見たかったんです。
民芸の宝庫、って言われてる場所ですし、
メキシコ独特の明るい色彩が大好きだったんです。
とくにオアハカ(*)は、
民族衣装の刺繍や織物がすばらしい。
フリーダ・カーロ(*)のふるさとですしね。
*オアハカ
メキシコ南部の都市。*フリーダ・カーロ(1907~1954)
メキシコの近現代絵画を代表する画家。
幼年期の病気や17歳のときの事故の後遺症に苦しみながら
絵画や壁画を制作、高い評価を得る。
情熱的な生涯は書籍や映画にもなり、
最近では写真家・石内都さんが
フリーダの遺品を撮影する
ドキュメンタリー映画が公開されている。
メキシコでは、ほかにもいろいろなところを
回りましたけれど、満足はできませんでした。
メキシコの手仕事全体が、
土産物ふうになってしまっていたんです。
アメリカが近いせいか、
すでに工業生産の時代に入っていて、
もう、本物の手仕事っていうのが、少なくなっていた。
いちおうポンチョのような形はしていても、
全部が手づくりじゃなくて、
機械も使ってるのかな、っていうような。
もちろん中にはいいものもあって、レボソっていって、
幅広で、紺と白の細かい絣の、
地味なショールなんですけれど、
フリンジのところが立派で、
全部、編み込んであるんですね。
それなんかは、ほんとに感激して。
ユカタン半島のギリギリのところまで行ったら、
すぐ隣の国がグァテマラなんですよね。
メキシコの手仕事に
満足できなかったこともあったんでしょうか、
やっぱりグァテマラにも行ってみたいな、
って思ったんです。
そのとき、帰る予定の2か月には、
なっていたんですけれど、
でもなんだか、このまま帰るのが悔しくて。
だって、すぐそこなんですもの。
「やっぱり行こう。2週間ならいいかしら」。
日本に電話がかけられなかったので、一方的に、
有無を言わせず、っていうことになってしまいましたけど、
電報で、「2週間延びます」って、それだけ打って。
そのときの私は、何かわからないけれど、
新しいもの、自分の未来につながるものが
見つかるんじゃないか、っていう瀬戸際だったんですね。
「帰ってから、怒られてもいいわ」
っていう気持ちになってました。
穴埋めはあとでする、ということで。
そして行ってみて、すごくよかったんです。
グァテマラには、手仕事が、
ある程度しっかり残っていました。
ひとつの集落の人たちの服装が、全部おんなじ。
大人も子どももすごくカラフルで、絵みたいなんですよね。
たとえば白と赤のストライプに、
さらに細かい模様が入ってるいるとか。
そして、山を一つ越えると、
その配色が紫と緑に、パッと変わるんです。
そんな民族衣装が生きてるのは、すばらしいことです。
実際に使ってるから、古びないんですね。
それぞれの集団の伝統的な
色彩やデザインに決まりがあって、
それをベースにして長く伝わってきているから、
流行に惑わされたりせずに、守られてきた。
「やっぱり、ここまで来てよかった」
って、とても満足でした。
手仕事の未来は、どうなるんだろう、という問いを抱えて、
この旅をして、なんとなく感じたことがありました。
それはね、誰かがつくった「作品」ではなく、
名前のない人がつくる、
そういうものに希望があるんじゃないかな、
と思ったんです。
手仕事の将来が、暗示されてるような気がしましたね。
そうやって持って帰ってきたプレインカの布を、
全部、再現してみたんです。5年ぐらいかけて。
というのも、ちょっと見ただけでは、
どうやって織ったのか、染めたのか、
まったくわからない布がたくさんあったんですよ。
たとえば四隅が耳になるように織ってあったり、
絞り染めなんかでも、
考えられないようなできあがりになってるものがある。
文献なんかないですから、ほつれたところや、
端のほうからちょっとずつほぐしてみたりして。
そうすると糸の動きが見えてきて、
織り方が推測できるんです。
やっぱり、すごく複雑でした。
でもそれは、織機で織るものとして考えるから、
複雑なんです。
ほとんどを手作業でやれば、できることなんですよ。
手仕事の自由さを、見せつけられました。
たとえばひとつの布の中で、
途中から組織を変えることなんて、
簡単にできちゃうんです。
糸や織り方を変えたりして。
今の技法、織機を使う方法ではあり得ない。
でも、手仕事ならできる。
ただ、膨大な時間がかかるんですよね。
人間の思考っていうのは、
機械を通すと薄まっちゃうんですよね。
布であれば、織機があることによって、
その中でできる紋様でやりましょうという
束縛ができてしまう。
ダイレクトに、思いとか考えがモノへ移らない。
だから、道具が少なければ少ないほど
創造的なものがつくれる。
できないようなことを平気でやれるんですよ。
手仕事は、そう、機械を越えちゃってるんですね。
どんなことでも、時間さえかければ平気でできる。
たいへんな時間がかかるけれど、ものすごく自由。
機械っていう、便利で、速くて、合理的なものと、
対極にある。
再現する作業から習ったのは、それですね。
「ああ、何でもできるんだ。ただし、時間がかかる」。
インカの布を再現してみて、それをきっかけに、
古いものから現代のものまで、
民族染織の研究を始めました。
中南米は魅力的で、その後も行きましたけれど、
なにせ遠い。
時間も、お金もすごくかかるし。
そこで、今度は、インドに行ってみたんです。
(つづく)