糸井 |
掛園さんは、いくつもの幸運が重なって、
いま見たら
あんまり高いとも言えない、魚市場の上で‥‥。
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掛園 |
いっしょに避難していた人に
漁協の幹部のかたがいらっしゃったんです。
わたしといっしょにいたとき
実は、奥さんと連絡がついていなかった。
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糸井 |
ああ‥‥。
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掛園 |
あとから、そのお話を聞いたんですが
そのときは、
一切そういう素振りを見せなかったんです。
内心、いかばかりかと思いました。
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糸井 |
本当ですね。
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掛園 |
市の職員も
避難所でみんなの世話をしていたんですが、
自分の家族がどうなってるのか、
わからない人ばっかりだったんですよ。
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糸井 |
そうですよね、その時点では。
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掛園 |
わたしも、市役所の前にできた避難所で
一晩「椅子の上」で寝ましたけど、
職員は離れられませんから
椅子に座ったままで、寝てるんですよね。
本当に、大変な仕事だと思いました。
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糸井 |
どこかで「これは、自分の役割だ」と
決めてらっしゃったんでしょうね。
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掛園 |
朝は炊き出しで、避難所でおにぎりを配る。
夜は夜で、椅子で寝て。
彼ら彼女らだって、被災者のはずなんですけど。
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糸井 |
震災直後に被災者の世話をしていた人たちは、
みんな、同じ被災者なんですよね。
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掛園 |
はい。
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糸井 |
掛園さんには
「被災者」としての意識は、あるんですか?
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掛園 |
ふだんは「ない」です。
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糸井 |
ない。
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掛園 |
本当に、ふとしたときに
「あ、そうか、オレも被災者なんだ」と
思うことは、あります。
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糸井 |
それは、どんなときですか?
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掛園 |
地震が揺れたときのようすや
津波が来たときの
自分や、まわりの人たちの気持ちなどを
「なんとか伝えたい」と思うとき。
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糸井 |
やっぱり、あくまで「新聞記者」なんだ。
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掛園 |
ぼくもね、
そんなにマジメな記者ってわけじゃあ
ないんですけど‥‥
新聞記者としての「自己意識」というよりも
染みついた「習い性」みたいなもので。
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糸井 |
そうですか。
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掛園 |
震災の翌日は、
3万5000歩くらい歩いたんです。
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糸井 |
あ、車が使えませんものね。
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掛園 |
仙台から、応援の若い記者が来たんですが‥‥。
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糸井 |
その人はどうやって?
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掛園 |
内陸の一関からは、車で入れたんです。
携帯電話も、そこまで行けば通じましたし。
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糸井 |
へー‥‥。
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掛園 |
で、震災当日の原稿を送って、
帰ってきたのが夜の8時ごろだったんです。
若い連中と「ああ、腹が減ったね」と。
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糸井 |
そこだけ取り出したら、
ふつうの会話ですね。
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掛園 |
そう、でも食糧なんて持ってない。
だから、避難所に行って
「何か食べる物、ありませんか?」
と聞いたんです。
われわれも、被災者ですから。
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糸井 |
ええ、ええ。
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掛園 |
夕食には間に合わなかったんですけど、
ケーキを1個ずつ、もらいました。
やっぱりね、おいしかったですよ。
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糸井 |
3万5000歩のあとの、ケーキ1個。
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掛園 |
ようするに、
その瞬間まで「新聞記者」だったんです。
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糸井 |
人の気持ちって‥‥不思議です。
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掛園 |
記者の仕事が一段落したら
「ああ、腹減った」と、思い出したんです。
いつもはそんなことないんですよ。
震災の惨状と緊張が、そうさせてたんです。
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糸井 |
いっぺんにいくつものことできないけれど、
優先順位は「記者」だったんですね。
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掛園 |
はい、そうでした。
自分が新聞記者だなんだって
ふだんは意識してないつもりなんですが‥‥。
「何かを伝える」という、
そういう場所にいないと落ち着かないんだと
思いましたね、自分は。
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糸井 |
なるほど。
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掛園 |
以前は、それこそ最低1日に1本は
原稿を書いてましたし、
自分の書いた記事の載ってない新聞なんて
「気持ち悪かった」んです。
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糸井 |
そうですか。
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掛園 |
まぁ、仕事ばっかりしてたわけじゃないし、
優秀なわけでもないんですけど(笑)。
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糸井 |
失礼ですが、掛園さんはいま、おいくつ‥‥?
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掛園 |
67歳です。
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青木康晋・
仙台総局長 |
朝日新聞の記者は
1800人くらいいるんですが、最高齢の記者。
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糸井 |
あ、そうなんですか。
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掛園 |
本当は60歳で定年なんですけど、
嘱託で契約更新して。
朝日新聞では
67歳までやれることになっていますから、
本当なら、夏に卒業だったんです。
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糸井 |
じゃあ、悠々自適のはずが‥‥震災で。
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掛園 |
ええ、特別に長くやらせてもらってます。
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青木康晋・
仙台総局長 |
1800人のなかの最高齢の記者が
八戸から気仙沼へ転勤してきて、
最初のひと月間、
毎朝5時に起きて、魚市場行って、
魚屋さんと知り合いになっていったんです。
なかなか、そんなことはできません。
毎日毎日、2カ月近く。
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糸井 |
ご本人は
好きだからだって言ってますけど‥‥。
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掛園 |
いやぁ、本当に自分は魚が好きなんですよ。
この魚は、どの船から上がるのか、
どんな漁師さんが釣ってくるのか‥‥。
気仙沼の魚市場に並んでいる
魚の名前がわからないのは、歯がゆいんです。
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糸井 |
そういう気持ちがあるからこそ、
避難場所も「魚市場」だったんでしょうね。
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掛園 |
あ‥‥そうかもしれない。
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糸井 |
だって、ぜんぜんなじみがなければ、
思いつかないと思うんです。
「魚市場の駐車場に登ろう」‥‥だなんて。
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掛園 |
そうかもしれないです。
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糸井 |
だから同時に、掛園さんは
気仙沼の魚たちから
「生きろ」って言われたんだと思う。
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掛園 |
‥‥気仙沼にとっては、魚がいちばんです。
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糸井 |
気仙沼のエンジンなんですね、魚市場って。
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掛園 |
だって、わたしが気仙沼に転勤になったら
友だちがみんな、
あそびに来たがるんですよ。
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糸井 |
ほう。
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掛園 |
目的はね、フカヒレ。
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糸井 |
ああ‥‥うまいもの食いたいんだ。
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掛園 |
そうです。
フカヒレの料理を出すお寿司屋さんがね、
いま跡形もないけど‥‥あったんです。
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糸井 |
ええ。
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掛園 |
そこで飲み食いをして、
翌朝、帰る前に魚市場を見せるわけですよ。
すると
「ああ、これが気仙沼なんだね」と言って、
納得して帰っていくんです(笑)。
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糸井 |
やっぱり、よそにはない「資源」なんですね。
気仙沼にとっての「海」って。
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掛園 |
ええ、そう思います。
<つづきます> |