- ──
- あらためて、震災のことを、うかがいます。
地震が起きたときは、たしか海外に。
- 石渡
- はい、商談で上海に滞在していたんですが、
携帯のアラームが鳴ったので
地震が起こったことは、わかったんです。
- ──
- 津波も来そうだ、みたいなことも。
- 石渡
- 震度いくつ、何々沖というアラートが
連続で出てきたので
大きな地震だってことも、すぐわかりました。
ホテルに戻ろうと移動している最中に
嫁さんからの電話が繋がって、
「いま、娘2人とお義母さんと4人で
車に乗っているんだけど、
渋滞で、津波に追いかけられている。
どうしたらいい?」と。
- ──
- わあ‥‥。
- 石渡
- いますぐに車を捨てて
鉄筋コンクリート製の家に逃げろと言ったら、
付近に、たまたま
3階建ての鉄筋の家があったらしく
そこへ逃げると言って、電話が切れたんです。
- ──
- 知らないお宅ですよね、当然。
- 石渡
- はい。その後、ホテルに戻って
何度も電話かけたんですけど、もう繋がらず。
- ──
- じゃ、本当に一瞬、運良くつながって。
- 石渡
- テレビを見ていると、
南三陸町で何万人が行方不明ってニュースが
流れたりしていました。
仙台空港の手前にある
何もない田んぼが津波に呑まれていく映像や、
自分は何もできないのに
テレビの向こうではすごいことが起きていて。
- ──
- 心配だったでしょう。
- 石渡
- もう、全国の知り合いに電話して、
その人を経由して
誰か家族に繋がらないかと思ったんですけど、
ダメでした。
生きた心地もしないような状態のまま
翌日、飛行機を朝の便に切り替えてもらって、
成田に着いたんですが‥‥。
- ──
- ええ。
- 石渡
- 完全に交通が麻痺していました。
我孫子に住んでいる友人が
バイクに乗るのが上手な人だったんで、
「迎えに来てくれ」と電話して。
- ──
- はい。
- 石渡
- その人は、すぐ来てくださいました。
我孫子まで連れて行ってもらい、
レンタカーを借りようとしたんですが、
どこでも借りられず、
仕方なく
見ず知らずの板金屋さんを訪ねて
「気仙沼の者ですが
代車を貸していただけませんか」
とお願いしまして、
なんとか、貸してもらったんです。
- ──
- わあ‥‥板金屋さんの代車。
- 石渡
- その時点で、すでに3月12日の
夕方4時くらいになっていたんですが、
さあ出発だというときに、
福島の原発事故のことを知ったんです。
親戚に「行くな」と言われたんですが、
行かないなんて、できませんでした。
- ──
- そのときは、まだ、
ご家族とは連絡が取れてないんですか。
- 石渡
- 取れてなかったです。
- ──
- 電話で「3階建ての鉄筋の家」に向かった、
ということだけで
具体的には
どこの鉄筋の家か知らないわけですもんね。
- 石渡
- 東北道を北上していったんですが
大渋滞の郡山を抜けて、
だいぶ迂回してようやく秋田を抜けたら
雪で通行止めで‥‥。
22時間くらいかかって、
ようやく、気仙沼にたどり着いたんです。
- ──
- ご家族は‥‥。
- 石渡
- 市内におばあちゃんの家があって
「なにかあったときには、ここへ集まろう」
と家族で決めていたんです。
そこに着いたら、家族みんながいました。
- ──
- みなさん、ご無事で‥‥何よりです。
- 石渡
- あとから、避難した鉄筋の家の写真を
見せてもらったんですが
3階ギリギリまで、水が来ていました。
- ──
- その時点で、
会社の被害状況はわかってたんですか?
- 石渡
- いえ、社長と弟が見に行ったそうなんですが、
「もうダメだ、終わりだ」と。
実際に被災していると
外の状況が、まったくわからないんですよ。
まわりの人たちが
どれくらいの規模で被災しているのか、全然。
- ──
- 自分の身の回りのことで精一杯ですよね。
- 石渡
- 物理的にも、停電でテレビはダメ、
充電が切れたらインターネットも見られない。
そんな状況で、家族でいろいろ話したんです。
うちはスリランカに工場を持っていて、
社長はスマトラ沖地震の津波を見てるんです。
幸い、被災はしなかったんですが。
- ──
- では、そのときの経験から‥‥。
- 石渡
- そう、社長である父親は
「復興するのには5年10年はかかる」
と言って、肩を落としていました。
- ──
- 工場は、お父さんが建てたんですか?
- 石渡
- 初代の祖父が頭で考えて指示する人で、
父が実行部隊だったんです。
ですから、商品にしろ、工場にしろ、
実際につくりあげたのは自分だと、
そのような気持ちだったと思います。
- ──
- 石渡商店さんの被災した建物には
ぼくも、震災の年に訪問させていただきました。
- 石渡
- ああ、そうですよね。
あのとき見ていただいたとおりですが、
川の対岸から工場を見たら、ぜんぶダメでした。
4日後くらいに行ったんですが
まだ火が出ていて、煙も上がっていました。
- ──
- はい。
- 石渡
- 社長は、再建に前向きではなかったんです。
そこで、
弟とふたりで、腹を割って話をしました。
自分たちで会社を継ぐのか、どうするのか。
最終的には、再建しようと決めました。
- ──
- 石渡さんと、弟さんとで。
- 石渡
- ええ、自分たちの勝手な考えでしたけど、
父のところに行って話をしました。
再建するにしても
「誰かに言われたからやった」というのは
嫌なので、自分たちから言い出した、
何もわからないけど、
前に出てがんばるから応援してほしいって。
- ──
- それは、震災から‥‥。
- 石渡
- 1週間後です。
父も、お前たちが言うんであればやろうか、
ということで納得してくれました。
- ──
- まず、何から手を付けたんですか?
- 石渡
- 動ける人間で、従業員を探しました。
ぜんぶで「28名」いたんですが、
避難所がどこにあるかもわからないんです。
携帯なんか、つながらないし。
歩いて避難所を回って従業員を見つけては、
他の従業員に会ったら報告してくれと。
- ──
- 震災直後は、避難所の入り口などに
ものすごい数の
尋ね人の「貼り紙」が、貼ってありました。
- 石渡
- 次に、あるていど連絡網ができたところで
被災した工場に行ってみたんです。
工場につくまでの500メートルが、
もう、2時間半ぐらいかかったんですけど。
- ──
- ガレキの山で、へたしたら
釘とか踏み抜いちゃうような状況ですよね。
- 石渡
- 長靴の底に鉄板を敷いて、歩きました。
掃除をしようと思っていたんですが、
何ていうんでしょう、
私の感覚では、もう何十年も
「石渡商店」という看板を見ていた場所が
一瞬にしてなくなってしまうと‥‥。
- ──
- ええ。
- 石渡
- つまり、つい昨日まで見ていた風景、作業場、
そういったものがなくなって、
想像したこともない光景が目の前に広がると、
自分がどの時代の、どの場所にいるのか、
わからなくなっちゃうんです。
- ──
- そうなんですか。
- 石渡
- でも、瓦礫の撤去をはじめたら
見慣れた包丁やら時計やらが出てくるので、
それで、
だんだん、現実感を取り戻してきたんです。
- ──
- 片付けには、どれくらいかかったんですか。
- 石渡
- まる1年ですね。
- ──
- かつて自分たちの工場が建っていた場所に
苦労して通っては、
いろんな道具や引き上げては、洗って。
- 石渡
- 河川敷にあったんですね、うちの工場。
そこは、気仙沼市の土地じゃなくて
宮城県の土地だったので
ガレキの撤去は、
おそらく最後になるだろうという判断で、
自前のトラクターやユンボで
ガレキをどかして
自力で道をつくったりもしていました。
<続きます>
2016-02-22-MON
© Hobo Nikkan Itoi Shinbun.