- ──
- いまでは、こうして
大きくて立派な新工場が建っていますけど、
はじめから
「いける」という感触があったわけでは
ないですよね、やっぱり。
- 石渡
- ええ、震災前と同じ規模で再建するのか、
ちょっと小さくするか‥‥
その点について、ずっと葛藤していました。
やはり、市場や販路が戻ってくるのにも
時間はかかるでしょうから、
まずは、小さくはじめたほうがいいという
考え方もあったんです。
- ──
- ええ、なるほど。
- 石渡
- すごく悩んだんですけど、ちょうどそのころ、
ミュージックセキュリティーズの
セキュリテのファンドがスタートしたんです。
- ──
- 2011年4月、震災の直後でしたね。
- 石渡
- 石渡商店が参加したのは5月なんですが、
ありがたいことに
10ヶ月くらかけて満額になりました。
- ──
- たしか、石渡さんのところは
募集金額が、大きかったんですよね。
- 石渡
- ええ、1億円で、最高額でした。
お金のことも
もちろん、本当にありがたかったのですが
ファンドをはじめてから
はげましのお手紙や、電話やメールなどを
全国から、たくさんいただいて‥‥。
- ──
- それは、お知り合いから?
- 石渡
- いえ、存じあげない方からも、たくさん。
それがうれしくて、はげみになりました。
- ──
- そうやって
資金的なサポートと精神的な助けを得て、
震災前と同じ規模で、
会社を再びスタートさせた‥‥と。
- 石渡
- やるのであれば、同規模の工場を建てて、
震災前の雇用を維持しようと思いました。
というのも、
サメは気仙沼の基幹産業でもあるので、
うちの再建の規模によっては、
他の企業にも、
いろいろと影響が及んでしまうんです。
- ──
- つまり、石渡さんが小さくはじめちゃうと、
石渡さんから生まれる仕事も、小さくなる。
- 石渡
- そうです。だから、そこはがんばって、
いけると思った部分は、
いままでどおりの規模ではじめました。
- ──
- 従業員さんの数も‥‥?
- 石渡
- ええ、もちろんいまでは
震災前よりも、増えていますけれど。
- ──
- 震災後は、
従業員さんを探すことからはじめた、
というお話でしたが、
みなさん、ご無事だったんですか?
- 石渡
- 残念ながら、1名、亡くなりました。
みんなが被害状況を把握してる間に、
子どもを迎えに行ったんです。
海沿いを通って‥‥
たぶん津波に巻き込まれるかたちで。
- ──
- ああ‥‥。
- 石渡
- そのお子さんは、
いま、お母さんのごきょうだいのところで
暮らしているようです。
- ──
- 新工場が建ったのは、震災翌年でしたけど
それまでは仮工場でしたよね?
再建したとはいえ、仕事だって、
そんなにたくさんはなかったと思うんですが
従業員さんには、ひまを出さずに?
- 石渡
- ええ、2012年の9月にここが建ちましたが
その前は
2011年の7月に仮工場をプレハブで建てて。
従業員は、解雇しませんでした。
5~6人にはサメの仕事をやってもらいつつ、
他の人には、ガレキの撤去作業などを。
- ──
- その間、お給料も出して。
- 石渡
- 満額は出せませんでしたが。
- ──
- でも、すごいことです。
- 石渡
- プレハブで再開したころは
商売の規模自体はちっちゃかったんですけど、
震災と中国の景気の影響で、
ふかひれの値段が高騰していたんです。
ある種のバブルみたいな状態になっていて。
- ──
- でも、仮工場といっても
ふかひれ自体は、どうされてたんですか。
- 石渡
- ふかひれという商品は
海外の工場で加工する工程もあるので、
気仙沼で捕れたものが、
いったん海外へ運ばれ、
3~4ヶ月で、また戻って来るんです。
なので震災当時、海外にあった原料で、
まずは商売が始められたんです。
- ──
- なるほど‥‥。
- 石渡
- まあ、それも、繋ぎの繋ぎだったんですが、
そうでもしないと、
どんどん気仙沼以外に水揚げされてしまう。
すこしでも早く、
気仙沼で商売が再開したんだということを、
世の中に知らせたかったんです。
- ──
- スピード感のある決断をされたのは、
そういう理由だったんですね。
- 石渡
- 震災の年は、本当に、濃かったです。
選択肢が、目の前にいくつもありました。
- ──
- 規模は縮小せず、スピードは速く。
重大な決断が
日々、いくつもあったと思うんですけど、
社長であるお父さんや
弟さんはじめ他の従業員のみなさんとも
相談しながら、意思決定して。
- 石渡
- ええ、そうですね。
あとは、親戚が税理士をやっているので、
その面から助言してもらったり。
- ──
- 自分だけでなく、
まわりの人たちも道を模索している状態では
どういう決断をしたらいいか、
まさに五里霧中といった感じなんでしょうね。
- 石渡
- あの状況は‥‥たぶん、昭和30年代に、
わたしの祖父である初代が
気仙沼へ来たときの状態みたいなんだろうな、
ということを思いました。
おじいさんのときの時代は、
本当に、先行きが見えなかったわけですけど、
それは震災後の私たちと同じだな、と。
- ──
- 何十年も前のおじいさんと、
今の自分たちが、重なった。
- 石渡
- ええ。いまは、インターネットで
どんなことでも調べられる世の中ですけど、
これから起こることは
どこにも、書いていませんからね。
- ──
- ええ‥‥なるほど。
- 石渡
- だから、そういう意味で言うと
祖父が「ここは宝の山だ」と言った言葉が、
これからの気仙沼にも
当てはまるんじゃないかって思うんです。
観光にしても、食品にしても、
まだまだ、何か新しいことができそうだし、
「みんな、宝探ししてるんだ」って。
- ──
- そう思われますか。
- 石渡
- ええ、そんなふうに考えると、
こころがワクワクしてくるんですよ。
それは、強がりじゃなく、ほんとに。
<続きます>
2016-02-23-TUE
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