山田 |
工場や生産設備を流されたことと同じくらい、
顧客名簿が流されたことも
事業者さんにとっては、大変なことでした。
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山内 |
うち(山内鮮魚店)では
20年ほど前からカタログ販売をしてきて、
ここ4〜5年は
インターネットに力を入れていました。
事務所には
約11万人の顧客名簿がありました。
「まさか、
事務所にまで津波は来ねえ」と思っていたので、
ぜんぶ、流されてしまいました。
でも、ネット販売の係をやっていた息子が
震災後、いち早く発信を再開し、
今は約20000名の顧客名簿ができています。
今年の1月からネット販売を再開し、
おかげさまで、
まあ、順調に進んできています。
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猪尾 |
山内社長、
ファンドについては、当初どう思われましたか。
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山内 |
危ないんじゃないかと心配してました。
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会場 |
(笑)
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山内 |
「ファンド」なんて経験したこともないし、
半信半疑だったんです。
でも、山田康人さんという
本当に一所懸命、
私たちのことを応援してくれる人がいたので。
そのうち
ミュージックセキュリティーズさんからも
猪尾さんと杉山さんがいらして
「ああ、こんなに真剣に考えてくれてるんだ。
だったら
ここは何としてでも、受けてやってみよう」
という気持ちになりました。
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山田 |
地震のときは、どうでしたか?
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山内 |
私は、よゆうを持って行動できました。
毎年、避難訓練をしていまして、
自分が「どう動くか」の
20分間のシミュレーションが
頭の中にあったからです。
避難した中学校から、
津波の一部始終を眺めていましたが
そのときにはもう
すぐにでも自分の会社を再建するぞ
という気持ちになっていました。
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猪尾 |
山内鮮魚店さんのファンドは
順調に、満額となりました。
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山内 |
全国のみなさまからお預かりしたお金は
設備費用などに使わせていただくのですが、
これからの新しい仕事に
つなげていきたいなと思っています。
たとえば今、
農家さんと組む準備をしています。
農産物と水産の取り合わせが、
なにかできないかな、ということで。
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猪尾 |
私が、山内さんにはじめてお会いしたのは、
避難所でした。
山内さんは、避難所のリーダーもなさっていて
ファンドの打ち合わせは
テントの中で、やらせていただいたんです。
そこへ、いろんな人が
ひっきりなしに相談にやってきていました。
本当に、
地域の頼れるリーダーなんだなと感じました。
息子さんが言うには
震災後、「山内社長の元気が増した」と。
「うちの親父、
どうにかしてくれ」みたいな(笑)。
次から次へと
新しい事業のアイデアがあふれてくるし
どんどん
新しいチャレンジをされている姿勢が
本当にすごいと思います。
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猪尾 |
斉吉商店さんでは
ずっと、メインだった商売をやめて、
新しい方向へ
大きく修正したとうかがっています。
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和枝 |
はい。これまでは
「水産加工品を
業務用に、たくさんつくる」
というお仕事と
「個人のお客さまに商品をお届けする」
というお仕事がありまして、
実は、震災の3年くらい前から
個人のお客さまに小売りする商品を
増やしてきていたんです。
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猪尾 |
斉吉商店のブランド商品、ですね。
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和枝 |
はい。以前は「9対1」の「9」が
業務用の加工品だったんですけれど、
少しずつ
パッケージに「斉吉商店」と書かれた商品を
増やしてきました。
これは、軸足を取り替えるということなので、
苦しいながらも
正しい方向に進んでると思っていたところで
震災に遭いました。
震災後は、物理的に
大きな規模で、つくることができません。
というのも
配線、電圧、土地の浸水などの問題があって、
コストもかかりますし、
かなり早い段階で「業務用」を諦めました。
「申し訳ございません、できません」
と言って、お取引先さまに、
お断りをさせていただいたという感じです。
ですから、私たちの代わりに
商品をつくってくださる企業さんに
レシピをお渡しし、製造にも立ち合いました。
そうやって、業務用をやめたんです。
ですから
私たちには、この道しかないんです。
斉吉の名前でつくれるものしか、
もう、できないんです。
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猪尾 |
オリジナル商品で勝負していく、と。
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和枝 |
東北には素晴らしい産物が、いっぱいあります。
でも、今まで、それらは
正しい価値で
流通していなかったんじゃないかと思います。
自分たちの手で
ていねいにつくったものの価値を
私たち
表現できていなかったと思うんです。
これからは、三陸の暮らしぶりや産物を
正しい価値で
知っていただけるよう、
工夫を凝らしていきたいと思っています。
<つづきます> |