昼間の島は夜とはちがって、
ムーミン一家に知らん顔して
背をむけているように思われました。
あたたかい夜のあいだは、
みんなの方をむいていましたけれど、
昼は海のむこうの方をむいているのでした。

                    『ムーミンパパ海へいく』
           (トーベ・ヤンソン著  小野寺百合子訳)より
重松
ムーミンたちってさ、
座敷童子(ざしきわらし)みたいなものかもしれないね。
柳田國男の『遠野物語』とか。
そうだ、水木しげる先生なんか、
案外、南方系のムーミンと
会ってるかもしれないよね(笑)。
森下
本当に(笑)!
重松
北も南も同じように、森の文化って、
まさに見つけるものだし、
また見られているものだしね。
だから楽しいというか。
海の中の生き物ってさ、
あんまり外には気づいてないんだよ。
ぼくたちのこと見ていないよ、魚たちは。
ところが、やっぱり森に潜んでる動物って、
こっち見てるもんね。
だから、やっぱり、森を歩きながら、
「見られてるぞ、誰かに見られてるんだぞ」
という感受性の持ち主の民族や文化と、
「いや、そこは切り開いていって、俺が見るだけだ」
という開拓民の文化と、
その違いってあるかもしれないよね。
森下
森には「気配」がありますね。
重松
おそらく、日本人の根っこには森があって、
ちゃんと見てる、見られてるというのがあったと思う。
ムーミンは、まったく新しいし、
遠いヨーロッパの話なんだけど、
だから全然バタ臭さを感じないんだよ。不思議と。
森下
うん。確かに。
重松
だから、国籍不明というかな、
人間でもないんだけれど、
もうゴッチャになってるじゃない。
なんか人間の延長線上もいればさ‥‥。
森下
そうなんですよね。
重松
ニョロニョロなんてさ(笑)。
森下
そう(笑)、感情もない生き物がいたり、
いろんな生き物が普通に同居してて。
でも、わたしは、そこにも
フィンランドらしさを感じたりします。
重松
うんうんうん。
森下
なんかいろんなものが
適当にぐっちゃぐちゃになってても、
あんまり気にしないで生きてるというか(笑)。
重松
例えばスウェーデンが生んだ児童文学って、
『長くつ下のピッピ』じゃない?
ピッピって近代的なんだよ、すごく。
でもムーミンって、やっぱり前近代。
さっき話したスウェーデンとフィンランドの
国境の町を行ったり来たりしてるとさ、
庭をきっちり造り上げるスウェーデンと、
「まあいいか、森のままで」っていう(笑)
フィンランドの違いは大きいかもしれないね。
森下
そうですね。
重松
ところで、
トーベとお母さんとの関係は、
『トーベ・ヤンソン』でも、
とても大きなポイントになってるんだけど、
わりと母子密着なんですね。
ぼくは男子だから、ちょっとわかりづらいところがある。
けっこう女性が読んだらわかることなのかな、
女性にとっての、お母さんの影響って。
森下
わたし、何歳ぐらいのときだろう。
女子高の同級生と卒業後に話していたのが、
「お母さんがあるとき突然、
 お母さんであることをやめた瞬間ってない?」
っていうことでした。
ずっとお母さんとして来てたのが、ある時突然、
お母さんであるという役割をやめて、
女の人になるんです。
重松
ほう。
森下
トーベとお母さんの中には
なかなかそれが生まれなかったのかな。
わたしも、早い段階で親元を離れてしまったので、
いまだに母は母であり続けてる部分があるんですね。
ただ、地理的にわたしたちは離れているので、
それほど母子密着の感じではないけれども、
親元にずっと暮らしてた子の話を聞くと、
大体子どもが高校を卒業するとか二十歳ぐらいのときに、
一所懸命子どものために何かやるってことをやめる、
お母さんであり続けることをやめちゃった、
そう言っている友達が多かったです。
多分、このふたりはそれがないまま、
ずーっと行ってるんですよね。
重松
本当にお母さんが干渉し続けたのか、
それともトーベがいわゆる自立をしなかったのか。
たとえば結婚という手段で、
離れるチャンスを本当に逃がしちゃったよね。
ただ、お母さんが亡くなった年が
トーベが『ムーミン谷の十一月』を書いた年じゃない?
だから、それと共に終わったわけだよ。
森下
そうなんですよね。
重松
いまのお母さんをやめちゃう話なんかも、
『ムーミンパパ海へいく』みたいだ。
いきなりムーミンママ、キレちゃってさ。
『ムーミンパパ海へいく』

1965年に出版されたムーミンシリーズの8作目。
ある日突然、灯台守になることを決めたパパについて
ムーミン一家は海を渡り岩だらけの島に行く。
森下
そうそう(笑)。
重松
ママが絵を描くじゃない、壁に。
あれって、挿絵画家だった
トーベのお母さんの投影だと思う。
だからね、やっぱりいろいろあったんだよな。
森下
確かにそうですね。わたしも、これを読むまで、
トーベとお母さんはもっともっと仲良しで
ずっと生きてたのかと思っていました。
実はそうじゃなかったっていうのが
ここにけっこうありありと出ていましたよね。
重松
森下さん、この大仕事が終わったわけですよね。
評伝を書くとか翻訳するというのは、
その人の人生をもう一回生き直すようなものですよね。
森下
はい。
重松
どうでした? トーベ・ヤンソンの人生って。
森下
何度か泣きましたね。
すごく苦しくなる場面が何度となく。
重松
そうか。
今後の森下さんは、やっぱりフィンランドで?
森下
はい。
重松
もう骨をうずめる?
森下
骨をうずめるような気がします。
わたしがトーベから教えてもらったことは何かなと思うと、
ムーミンの世界を切り刻むことではなくて、
ここで経験したことで
生きていくことなんだろうなと思って。
あの島での1週間の経験もそうだったけれど、
森の中にいることの楽しさとか、
自分で何かを見つけたり、
そうしたら好奇心でムーミンのように
バーッと走って行っちゃう感じとかの
心地よさを知ってしまったし、
これがわたしの生き方なのかなと思っているので、
生きる現場としてフィンランドがいいかなと。
そしてそう思っているだけではなくて、
やっぱりもっともっとトーベ・ヤンソンのことを
これをきっかけに伝えたいという気持ちが
大きくなったんですね。
トーベ・ヤンソンが関わった、
彼女に近かった人たちの証言って
実はもっとあったりするので、
それも知っていただきたいし、
やっぱりパートナーだった
トゥーリッキ・ピエティラのことも
もっともっと知っていただきたい。
さっき百の孤独の話が出ましたけれども、
やっぱりコーディネーターとしても
重松さんのあの言葉じゃないけれども、
孤独が極まったときに生まれる言葉って、
誰が聞いても共感できたる言葉だったりする。
それはわたしにはできないことなんですね。
いまだに自分にはそういう自信はないし、
自分はそういう人間ではないような気がするけれども、
例えばあのときにね、重松さんが一言、
そういう言葉を言ってくださったように、
コーディネートという仕事をすることで、
いろんな表現をする人たちが
いろんな言葉を紡いでくれたら嬉しいなと。
重松
そうだよね。コーディネートって、
おそらくそれは案内じゃなくて、
出会わせることだと思うんだ。
ある種のミクソロジーというか、
カクテル作るみたいにさ、
これとこれを混ぜ合わせたら
どんなものになるかっていうのってあると思うし、
映像の世界の人にはむしろ、
言葉を引き出そうとしてみたら面白いだろうし、
言葉の人間には、
その言葉を超えた世界に連れていったときに
何を出すかっていうのって、あると思うんだよ。
森下
そうなんです。そうなんです。
もうわたし、あの本当に重松さんの一言なんて、
もうそれだけであの北風がもうパッとわかるし、
それだけじゃなくて、こういう言葉というのは
フィンランドの人たちが聞いたときに、
「あ、今まで自分が言葉にできなかった、
 その風景なんだよ」って理解されるということが
はっきりわかったんですよね。
トーベ・ヤンソンもそうだけれども、
わたしはやっぱりフィンランドに
こうやって今生かされていて、生活させてもらってて、
そこの魅力を、いろんな表現する人たちに来ていただいて、
コーディネートさせてもらって、
そういう形でフィンランドの世界が紹介できたら、
みんなのムーミンを読む読み方も変わるかなって
ちょっと思ったり。
重松
うん。で、それにね、これは本当に、
生前のトーベを知ってる人が
今からどんどん年を取っていき、
亡くなる人も増えるわけで。
だから、本当に時間との勝負の部分も出てくるからね。
こればっかりは、
後追いではもう間に合わない部分ってあるんだよね。
森下
本当にもう90歳とかそういう方々なんですよね、
トーベにかわいがってもらっていた人たちも。
重松
そう。そのトーベの愛というのが、
その下の世代にどんなふうに行ったのかなって。
よくさ、最近、甥っ子や姪っ子をかわいがる
おひとり様って多いじゃない。
森下
はい(笑)。
重松
トーベもやっぱり姪っ子を。
森下
はい、ソフィアに対する
ソフィア・ヤンソン

トーベの弟ラルスの娘。
現在、ムーミンキャラクターズ社の
クリエイティブディレクター兼会長をつとめている。
子どもの頃からトーベのアトリエで時間を過ごすことも多く、
夏の暮らしをはじめ、トーベとの多くの時間を共にしてきた。
アトリエに行くと必ずお菓子をもらえたこと、
島で遊べは本気になって一緒に遊んでくれたことなど、
思い出も多い。
トーベの小説『少女ソフィアの夏』は、
彼女をモデルにした小説と言われている。
重松
そうそうそう。だから、
働く女性、働くおひとり様は、
まずみんなリトルミイに行くのは当然なんだけども、
この本によって、トーベそのものにも向かってほしい。
「あ、わかる」っていう声、あるんじゃないかな。
「孤独には百の顔がある」なんて、
本当にわが意を得たりっていう人っていると思う。
「わたし、そのうちの30ぐらい知ってるかも」
とかね(笑)。
そうそう、それから、
1971年に来日したときの話が出てて、
何が嬉しかったかって言ったら、
8ミリフィルムのカメラを日本で手に入れているんだ。
コニカだよね。
それがその後の彼女にもうひとつ映像という、
新しい表現のジャンルを広げたわけじゃない?
ああ、戦後の日本のそういう精密機器が、
トーベ・ヤンソンに新しい表現の自由を与えたんだな、
と思って、ちょっと日本人として誇らしかった。
「ごめんね、スノークのお嬢さんの名前変えちゃって」
っていうのはあるけど(笑)。
森下
重松さんにも見ていただきたいかも!
世界旅行を8ミリで撮り続けたフィルムが
映画になっているんです
『トーベ・ヤンソンの世界旅行』

トーベとトゥーティ(トゥーリッキ・ピエティラ)は、
晩年自分たちで撮り続けた8ミリを使って
「映画を作る」という新しい遊びに没頭します。
旧友の娘で映画監督のカネルヴァ・セーデルストロムに声をかけ、
8ミリを再編集し、ノンフィクションからフィクションの
映画を作ることにします。
脚本はトーベ・ヤンソン。
最初の作品は8ミリを手に入れた日本から始まる世界旅行の作品。
7ヶ月に及ぶ旅の記録をカネルヴァが編集し、
それを20以上の歳を重ねたトーベとトゥーティが見ながら、
ああでもないこうでもないと自由気ままにおしゃべりし、
その声を映像に重ねていきます。
トーベとトゥーティがこの映画は3部作にしようと提案し、
のちにクルーヴハルでの島暮らし、
そしてヨーロッパ旅行についての映画を制作します。(森下)
重松
やっぱりあるんだ!
森下
トーベとトゥーリッキ、
おばあちゃんになったふたりが昔のフィルムを見ながら、
「あ、これはあれよね」っていうような。
そこに日本も出てくるんです。
2014年の北欧映画祭で
日本でも上映されたことがあるんですけれど、
権利の関係で、販売はまだできないらしいんですね。
いつか、重松さんに見ていただく機会をつくりたいです。
重松
ありがとう。
本当に、ちょっと日本が登場するだけでも
嬉しくなりますね。
‥‥そんなところかな。
森下
はい、ありがとうございました。
重松
いいえ。そうそう、面白いのがね、
今、知り合いの娘さんが、高校3年生で、
留学でカナダに行っているんですよ。
ノバスコシアのハリファックスっていう、
大西洋岸の小さな町なんだけど。
森下
ノバスコシア、『赤毛のアン』の。
重松
北のほうだから、冬になるとさ、太陽がすぐ沈むわけ。
寂しいだろうと思ってさ、
「いつがいちばん寂しい?」って訊いたら、
「11月」っていうんですよ。
森下
そう!
重松
森下さんも以前そうおっしゃってたよね。
12月になって雪が積もると、
その雪明りがあるからいいんだけど、
11月の雪が降る前って暗いんだよね、町が。
それがいちばん憂鬱だって言うから。
「きみも北国の感受性を
 だんだん持ちつつあるなあ」とほめてあげちゃった(笑)。

「ところで何かものたりないとお思いにならないこと?
 ここでは森のざわめきがきこえませんわね」
                   ──ムーミンママ

                    『ムーミンパパ海へいく』
           (トーベ・ヤンソン著  小野寺百合子訳)より
(おわります。ご愛読ありがとうございました!)
2015-03-16-MON