糸井 |
今日は吉本さんに、
ちょっと相談したいことがあるんです。
ぼくは芝居が大好きなんです。
だけど、できないんです。
好きなのにいつもできない。
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吉本 |
うん。
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糸井 |
芝居の「できる」「できない」って、
いったい何が決めるんでしょうか。
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吉本 |
結局、芝居というものの目的は、
見せることですよね。
いくら芝居をやっても
誰も客席に入ってなかったら
それは意味がないよ、ということになります。
だから、観客を必要とします。
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糸井 |
うん、うん。
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吉本 |
それに対応するのは、ドラマです。
ドラマ化があるから、演劇ができます。
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糸井 |
はい。
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吉本 |
見る人がいなけりゃ意味がないということは、
ドラマ化しなきゃ意味がうまく出てこない、
ということになります。
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糸井 |
はい。
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吉本 |
だけど、芸術の本質といえば、
「人が見る見ない」は関係ないんです。
演ずる人がその人であって、
自身を納得させることを
そのドラマでできればそれで充分、
芸術は成り立つんです。
誰も見る人がいなくても、読む人がいなくても、
芸術はそれで成り立っているのです。
つまり、自分に問いかけるものができていたら、
それがいい芸術と言えちゃうし、
悪かったら、それはどこがよくたって、
どんなに流行ってたってダメです。
根っこと幹さえあれば、
植物が自生していけるのとおなじように、
その人の根っこさえあれば完成です。
見る見ないは人の勝手、
その見方も勝手なんです。
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糸井 |
ああ、見方って、とても勝手ですよね。
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吉本 |
そう。こう見なくちゃいけない、
ということはないんですよ。
見る人も、その人なりに感銘すれば、
芸術の役目は終わりです。
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糸井 |
つまり、芝居は観客を必要とする。
だけど、観客が見ているその枝や花は、
芸術にとっては二次的な問題だと。
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吉本 |
そうです。
演劇だけじゃない、踊りもそうだし、
歌もそうです。
声をもって人を魅了できなければ、
ということがほんとうなんですが、
そこに物語性が入ったり、
見る人のそれぞれの経験とどこで出会うか、
という問題を気にします。
そこが使命だと思われがちですけども、
それはちがうんで。
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糸井 |
役者にとっては
人がつくった台詞を言うだけのことですが、
ほんとうは、役者の存在そのものが、
根と幹ということになるわけですね。
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吉本 |
そうなんでしょうね。
踊りなんて、
見てくれなきゃ何の意味で踊ってるんだ、
ということになっちゃうんだけど、
ほんとうに大切なのは、踊ってる人そのものです。
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糸井 |
重要なのは、演じることじゃなくて、
その人がそこにいて、
存在してることの確かさですね。
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吉本 |
それに近いような咲き方で
花が咲いたら、
それは芸術としては申しぶんない。
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糸井 |
「上手下手を超えて、いいね」
と言われるのはそういうところですね。
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吉本 |
そうなるわけです。
フッサールとかハイデッガーとか、
いわゆる現象学というのは、
それを細かくしていったんですよ。
芸術を、見ていることを主体に考えれば、
誰が見たって、花が散るところは花が散って、
風に吹かれてるところかは風に吹かれるだけ、
変わりはないよ、と言いたいところだけど、
人がおなじことを考えて見ているかどうか、
外からはわからないんです。
その人だけが納得する見方で、
「ああ、恋人と一緒に見てたよなぁ」とか、
「あんとき、子どもと一緒に遊んでたなぁ」とか、
思っているかもしれない。
それは、千差万別なんですよ。
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糸井 |
はい。
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吉本 |
自分のいちばん切実な思い出を
思い浮かべてるかもしれないし、
これから先のことを考えてるかもしれない。
万人ちがうわけなんだけど、
ただ、
「花が咲き、それが散ってきれいだなぁ」
と言うぶんには、
誰だっておんなじになってしまって、
しかもだいたいまちがいなんです。
そこまでつっこむ見方が
いわゆる現象学なんですよ。
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糸井 |
すると、
芝居ができないと思っているぼくは、
葉っぱやら花やらの部分を
「できない」と思うあまりに、
根っこと幹があやふやになってるから、
ダメになっちゃってるんでしょうね。
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吉本 |
そうだと思います。
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糸井 |
きちんと自分自身をもって
ヘタにすれば、できる‥‥。
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吉本 |
と思います。
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糸井 |
吉本さん、ぼくは今日は、
人生が変わるくらい、
驚くくらい、わかりました。
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吉本 |
いやいや(笑)。
ぼくもそうだったですからね。
そういうことにはじめて気がついたときは、
やっぱり、わーって思いました。
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糸井 |
ああ、そうなんですね。
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吉本 |
見方がまるで変わったと思います。
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糸井 |
ぼくは、もう一度
「芸術言語論」に助けられたという思いです。
実は明日、あるところで
芝居しなきゃいけないんです。
いつも後悔するんですけど、
引き受けちゃったもんですから。
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吉本 |
ああ、そうなんですか。
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糸井 |
問題はテクニックじゃない。
肚(はら)ですよね。
肚が据わってるかどうか。
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吉本 |
そうなんですよね、肚なんでしょうね。
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糸井 |
「何度もやってるとできるようになる」って
よく言いますけど、きっとそういうことですね。
得意なことをしてるときには、
幹と根がしっかりしている
ということなんでしょう。
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吉本 |
ぼくもしばしばそういうことで、
失敗してきました。
いまだって、
人の芸術は幹と根が本格なんだと言いながら
テレビ見るとき、
自然に枝ばっかり
目が行っちゃってるじゃないかって。
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糸井 |
ああ(笑)。
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吉本 |
いちばん気の毒だなと思うのは、
ソプラノ歌手みたいな人で、
この人は何をうなってるんだと、
思っちゃうことがあって。
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糸井 |
はははは。
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吉本 |
だけど、音楽をよく知ってる人は、
それを批評だと取るんですよ。
音楽の演奏家はすべてそうで、
批評という概念なんです。
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糸井 |
うーん‥‥そうか、つまり、
クラシックの音楽家は
音楽を再現して、味わって、
批評してるんですね。
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吉本 |
そう。それで、自分の習慣も
ちゃんと入れてるんですよ。
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糸井 |
そうか‥‥人がつくった歌を
歌うってことは、
批評だとも言えるんですね。
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吉本 |
そうなんです。
だから、いいソプラノ歌手ほど、
その人自身の、批評が入ってるんです。
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糸井 |
そうですね。そうだなぁ。
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吉本 |
ただ、声だけはソプラノが出るけど、
たいしてほかのことは出ない人が歌うと、
やっぱり、なんじゃこりゃ、となっちゃいます。
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糸井 |
根と幹がなくなっちゃってるんですね。
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吉本 |
ええ。それは、
もっと先のことを
歌ってるんじゃないかと
いうふうになっちゃいます。
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糸井 |
極限的なことを言えば、
音痴でも人を感動させることはできますね。
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吉本 |
できると思います。
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糸井 |
きっと、役者の台詞についても
おんなじことが言えるんだなぁ。
いやぁ、ほんとうにありがとうございました。
吉本さんに何度か助けられましたけど、
また助けられました。
明日が来るのが怖かったんですけど、
生きる希望が湧いてきました。
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吉本 |
いやいや(笑)、
ぼくも、いつもいつも、そうです。
芸事というのは何でもそうでしょうけど、
幹と根にいちばん近いところから発したものが
花になったり、風に吹かれた葉っぱになったりと、
そうやって見えるところまでいけば、
いちばん、完璧にいいんだと思います。
(月曜日に、つづきます) |