HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
はたらき方をさがす旅。皆川明さん+松家仁之さん+糸井重里 鼎談
松家
糸井さんが「はたらきたくない」と
思っていたとうかがって、
自分もむかし、
そう考えていたことを思い出しました。

ぼくが学生だった当時(1980年ごろ)は、
就職活動解禁日が大学4年の10月1日で、
夏休みが終わるあたりになると
みんな一斉に髪を切って、スーツを着て、
会社訪問を始めました。
あ、ぼくらは「長髪の時代」の
最後の若者だったんです。

ぼくはみんなのそんな動きに耐えられなくて、
社会に出て、はたらきたくもなくて、
10月1日の解禁日にあわせて
生まれてはじめての海外旅行で
ニューヨークに行き、
そのまま1か月半、逃げていました。
糸井
やりますね(笑)。
松家
はい(笑)。案の定、ぼくは
大学5年生になりました。
その後、ちょっとした縁があって
出版社でアルバイトをしたのですが、
そのときに
「こういう仕事なら自分でもできるかな」
と思って、次の10月1日に、
新潮社の会社説明会に行きました。

ぼくはなんにも知らなくて、
「会社説明会は、会社の説明を聞くんだろう」
と思って行ったんですが、そうじゃなかった。
説明なんか5分で終わって、
すぐ面接会場へ行かされました。
卒倒しそうなぐらい驚きました。
糸井
そうか(笑)、なるほど。
松家
当時はまだ出版社も余裕があって、
「ダメそうな奴だけど、変だから採っておくか枠」
みたいなのがあって、
ぼくはその枠のぎりぎりで拾ってもらいました。
そのあとで11月1日に正式な採用試験を受けましたが
総務部長に呼びとめられて、
「君、君!
 念のため言っておくけど、筆記試験、
 君は合格点に達してなかったからね」
と言われてしまいました。
糸井
はあぁ。
松家
その年は、新潮社がはじめて
面接だけでも一部採用してみるという、
試験的な年でもあったんです。
4年生で受けていたら落ちていたでしょう。
つまり、ラッキーが3つぐらい重なって
ぼくは入社できたんです。
糸井
それは世の中にとっても、ラッキーなことでしたね。
松家
いやいやいや(笑)。
でも、糸井さんと同じく、
自分がいざはたらきはじめてみたら、
ずいぶんおもしろかったんです。

大学4年生のころは「もうお手上げ」みたいな
感じでニューヨークに行ったのに、たまたま拾われて
なんとかはたらきはじめて、あっという間に、
あれもやりたい、これもやりたい、
という状態になりました。
もしも拾われなかったら、
どうしていただろう、と自分で思います。
糸井
でも、松家さんなら、違う場所でもちゃんと
歩いてたと思いますよ。
ぼくはそういうとき、
ジョン・レノンという人のことを考えてしまうんです。
ビートルズの曲を聴いてると、
ジョンという人は
何をやってもこうだったんだろうな、と思います。

ポール・マッカトニーもそうなんですが、
「曲つくって」「バンドで演奏して」
というふうに見えるけど、
あの人たちのやっていたことは
アイディアだらけです。
「こういうこと、やったらいいんじゃない?」
と、たえずみんなに提案してた。
あの時代ならバンドだったけど、
いまなら電気オートバイとか、
つくってるかもしれないよ。
松家
皆川さんは、いかがでしょう?
はたらくという言葉のイメージが、
若いころにはありましたか?
皆川
さきほどおっしゃったとおり、
ぼくは結局、ちゃんと就職して
会社員としてはたらいたことがないんです。

文化服装学院の夜学に通っていたときは
縫製工場でアルバイトしていました。
そのあと、西麻布のオーダーの店の
ショーウィンドウのオブジェをつくる仕事もしました。
その店のショーウィンドウを見て
ディスプレイしてみたい、と思って
「ディスプレイさせてください」って、
飛び込みで入ったんです。
糸井
うん、うん。
皆川
そこでオブジェをつくって展示しているうちに、
「きみ、何してんだ?」
と訊かれたので、
「文化の夜間に通ってます」と答えました。
すると、
「じゃ、うちも服屋だから、手伝いなさい」
と言われて、仕事の手伝いをはじめました。

そこはオーダーメイドの店だったんで、
仮縫いのために、お客さまのところへ行きます。
ある日、目白のお客さまを訪ねました。
その帰り、クラフトのギャラリーがあったので
立ち寄って、芳名帳に名前を書いていると、
「きみ、何してるの?」
と訊いてくる人がいました。
「今日は洋服の仮縫いで来ました。
 ふだんは型紙を引いてます」
と答えました。するとその人が
「近所の知り合いのブランドが
 そういう人を探してるから手伝いなさい」
とおっしゃるので、
こんどはそっちへ行って手伝うことになって‥‥。
糸井
歩いてるうちに人生が変わってくるんだ(笑)。
皆川
そのブランドは、3人くらいで営む
ちいさな会社でした。
そこで知り合った機屋さんや染め屋さんにも
ぼくはよく通うことになって、
いろんなことを教わりました。

染め屋さんで染料を計っているときに、
たまたま魚市場の求人広告を見つけて、
「じゃ、魚市場行ってきます」と言って
魚市場ではたらくことになりました。
周りの人から「何々しなさい」と言われて
「じゃ、やってみます」と応えた、
ぜんぶがそんな感じです。
糸井
思えば皆川さんは、すべてにおいて
その部分は単独で動いているんですね。
皆川
あ、そうですね。
糸井
旅で、ミナ ペルホネンの原点になった服を
見つけたという話なんかも、
もしも皆川さんが友だちと一緒にいたら、
通りすぎていたかもしれないですね。
ひとりの時間には、考えの「溜め」もあるし、
逆に、軽率に何かから捕まえられちゃうこともある。
ひとりの時間がきちんとある人は、
どこかで何かを成してると思うんですよ。
松家
ひとりで考えたり、
言葉で解消されない何かを
ひとりで感じたりしないと、
育つものがないのかもしれませんね。
糸井
松家さんも皆川さんも、
ひとりでどこかに行くタイプの方々です。
そんな人たちはやっぱり
いまの道に進んでいなくても
「何かやってただろうな」
と思います。

ぼくたちの先輩に、
横尾忠則さんと赤瀬川原平さんという
ふたりの天才がいます。
ふたりとも若いときに、
やたらいろんなとこへ誘われています。

赤瀬川さんはずっと
貧乏だということをネタにしてましたけど、
読売アンデパンダン展だとか、
あるいはオノヨーコさんのグループや
ハイレッド・センターも、
ぜんぶ誘われてやっているわけです。
「お前、いっしょにやろう」と声をかけられたんです。

横尾さんは、ほんとうは
郵便局に勤めたかった人ですけど、
たまたま画廊に入ったら、
「やらないか?」と言われたらしいです。
みんな、路傍の石のように自分を語るけど、
もともと「目がつくような石」なんですよね。
松家
皆川さんに声をかけた
いろんな人たちも
「こいつは、できる」と思ったんでしょうね。
糸井
うん。少なくとも、話しかけたくなる
何かがあったのです。
松家さんにも、面接で受かる何かがあったんですよ。
運命はただのくじ引きじゃないんです。
そう思わないと、
やっぱり納得いかないです。
「ぼくは何もない若者だった」
というのは、やっぱり、
嘘だと思うんだよね(笑)。

(つづきます)
2016-06-28-TUE
©HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN