糸井 |
すべての人が隣人となった
現代という時代では、
隣人のことを考えはじめると
頭と身体が音をあげてしまいます。
そこで、ふつうは
寝ちゃったり、停止しちゃったりするんだと
思うんです。 |
吉本 |
そうですね。
「それでいいじゃないの」という
考えもあるでしょう。
「お前の友だちだって、
しょっちゅう寝てるじゃないか」
「それはそれで、
ひじょうに健康なことで、いいよ」
というふうに評価するべきでしょう。
しかし、そういう面があるとともに、
「それではお前もそうだろう」
と言われたら、
「いや、ちょっとだけ違うんだよ」
と言ってみるんです。
「目を覚ましている時間が
ちょっとだけあるんだよ」
ということが、少なくとも言える、
口で言うかどうかは別で、
言えるだけのことは持っている、
それだったら理想的なんじゃないでしょうか。
「昔を考え今を知り」
というふうにお説教をしている人は
いっぱいいます。
でも、それはもう違うんです。
そういう段階は、もう、通り過ぎちゃったんだ。
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糸井 |
そうですね。
いまは、それは通用しないです。 |
吉本 |
例えば、昔だったら
「お前、年寄りは大切にしろ」と言われれば、
すぐ通じたり反発したりできたんだけど、
今は、まっすぐにそんなことを言われても、
誰も見向きもしないです。
ですから、違う言い方で
同じことを言わなきゃいけないんです。
年寄りを大切にしろ、なんていうことは、
現在の日本にとっては、ほんとうは
そうとう大問題なんですから。 |
糸井 |
だからこそ、よけい
説教で通そうとしたらダメなんですね。 |
吉本 |
そうなんです。
「昔の人は『親に孝行、朋友相信じ』
と言ったもんだ」
と説教したって
封建的だと言われておしまいになります。
そうなっちゃ、これはダメなんです。
間違っちゃいけないです。
それじゃあ、どういうのがいいんだというと、
「親に孝行しろって、
ほんとうはなんなの?」
ということについて、
自分なりの判断ができていないといけない、
ということなんです。
社会の現状と、
昔の人がどういうことで「親孝行」を
言い出していたのかを
考え合わせるんです。
そうすれば、たぶん
間違いない判断ができるという気がします。
それがやっぱり、
ひとつの望みですよね。 |
糸井 |
‥‥望み。
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吉本 |
僕らが考えるべき、あるいは
考えている望みです。
そうなればいいし、
自分もそうなれたらいいという、望みです。 |
糸井 |
つまり、なかなか、
ものを買うみたいに簡単に、
そういう考えに
なれるものではないということですね。 |
吉本 |
そうです。それは、いちおう
面倒くさいことです。
いや、面倒くさいということは
ないけども(笑)。
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糸井 |
ぜんぜん近道じゃないんですね。
でも、ひとつの道を言うとしたら、
確実に、ひとつの道であると言える、と。
(続きます)
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