第10回
役者で、やっていけるのだろうか?
役者で、やっていけるのだろうか?
糸井 |
そもそも、石坂さんがいた 慶応の劇研というのは、 名うてのサークルなんですか? 帝京高校サッカー部みたいな。 |
石坂 |
どうかなぁ。 「生意気中の生意気」という評判だったんです。 六大学で大学演劇祭みたいなのを やるじゃないですか。 みんな、それ相応の劇をやっているのに、 ぼくたちだけサルトルの 『出口なし』なんかを やっちゃったりするんですよ……。 やってる方も、誰も、わかっていないよ? |
糸井 |
(笑)特に背伸びがはげしい集まりなんだ。 |
石坂 |
それで他の大学みんなから 非難されていて…… 東大ですらけむたがる(笑)。 「俺たちすらやらないものを、 おまえら、なんでやるんだよ」みたいな。 高校の演劇部にしても 他の高校はみんな かわいらしいものをやっているのに、 フェレンク・モルナールの 『リリオム』なんてやっちゃうわけだから。 |
糸井 |
(笑)あいたたた……。 それは主に、石坂さんが悪かったんですか? |
石坂 |
いやいや、そうじゃないです。 伝統です。市川猿之助さんから続く伝統。 みんな、そういうやつばっかりだったんだ……。 でも考えてみると、 大先輩の猿之助は、 ずっと生き残っていて…… だからぼくには、あの方が今、 ああいうスーパー歌舞伎をやっている気持ちを わかりますもの。 もともと、そういう人だったんです。 猿之助さんは、三越劇場を借りて 『宝島』をやったり…… ふつうは、なんとか公会堂とか 区民会館だとかじゃないですか。 でも猿之助さんは 三越劇場を借りてやっていた。 まぁ、ぼくらの頃は断られましたけど。 |
糸井 |
その後は、劇団四季に入るんですか? |
石坂 |
大学時代も、 四季の芝居に出させてはもらいましたけど、 ちゃんと入ったのは、 大学を卒業してからです。 大学二年の頃あたりに、 タイムリミットが迫ってきたわけです。 この道で食えるか食えないのか……。 まわりは 「どうするんだい? 勤めるのか?」 と言うし、親父は親父で 「勤めるなら今からコネを探さなきゃいけない」 みたいな言い方をするし。 でも、私としては、 とても会社員は勤まらない、 とか思っているうちに、時間が過ぎていった。 |
糸井 |
学生時代に、 それだけおもしろいことを 経験しちゃったら、 今さら、勤められないですよね。 |
石坂 |
そうだね。 だから、もうこうなったら この道でいいやと思ったんです。 最初は、大学を辞めようと思いました。 実際、一年間は学校に行かないで、 仕事をやっていましたが…… 『ウルトラQ』のナレーションだとか。 それほど急に ガッと脚光を浴びることはありませんでした。 それだけで 食えるまでにはいかなかったんですね、やっぱり。 それで最終的には、もう一年 学校には行ったほうがいいと考えなおしました。 親父のためにも、 卒業はしたほうがいいか、みたいな感じになって。 ……それで大学時代の最後の年、 『太閤記(一九六五年のNHK大河ドラマ)』 に出ることになったわけです。 その前から、テレビでポツポツと 主役をやるようにはなっていたんですけど。 |
2015-05-05-TUE
タイトル
テレビという神の幼年期。
対談者名 石坂浩二、糸井重里
対談収録日 2004年12月
テレビという神の幼年期。
対談者名 石坂浩二、糸井重里
対談収録日 2004年12月
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