画家・山口晃さんに訊く「絵描きの技術論」 技術とは なぜ 磨かれなければならないか。

百貨店圖 日本橋 新三越本店 2004 紙にペン、水彩 59.4 × 84.1cm 株式会社三越伊勢丹 蔵
©YAMAGUCHI Akira Courtesy Mizuma Art Gallery
第1回 磨くほど透明になってゆくもの。



── 山口さんの
「お好きな絵、おもしろいと思う絵」って
どのような絵でしょうか。
山口 「明快でありながら、わけがわからない」
という絵なら、たまらないですね。
── わかりやすいのに、わからない?
山口 一見して「何だこれ?」と思うんですけど
その「何だこれ?」が
一本道で、別のどこかへ通じていそうな絵。
── ははあ。
山口 この道を進んでいけば
何かいいものを見せてもらえるんじゃないか?

そう思わせてくれる絵には、ドキドキします。
── 「何だこれ?」とは「驚き」でしょうか、
それとも、また別の何か‥‥でしょうか。
山口 一言では「とらえどころのなさ」でしょうね。

わたくしたち人間が
何らかのものを認知する、認識するときには
いろんな「収まりどころ」があります。
── ええ。
山口 とかく、人間が表現行為をなそうというとき、
そのような
「ああ、はいはい、これね」
とか
「知ってる知ってる、こういうことでしょ?」
みたいなところへ、収めてしまいがち。
── つまり「想定の範囲内」に。
山口 それだと、ちと、おもしろくありません。

だから
「知ってる知ってる、
 こういうこと‥‥じゃないじゃんこれ!」
みたいな表現に出会うと
たいへん、ゾクゾクといたします。
── それはつまり、先ほどからお話に出ている
「違和感」や「引っかかり」でしょうか。
山口 そうであると言っても、いいと思います。

「あれ? 今まで見てきた絵と
 なんか、どこか違うぞ‥‥」というね。
── それは、古い絵からも感じますか?
山口 むしろ、室町時代の絵くらい古いほうが、
「どうして、こう描いたんだろう?」
という違和感を感じることが多いですね。
── それは、たとえば?
山口 空の「雲」とか。
── ‥‥に、違和感?
山口 むかしの屏風絵や絵巻を見ますと、
空の「雲」が「ものすごーく低いところ」に
描かれていたりするんです。
── 低いというと‥‥。
山口 なんか、もう、
見た感じ「5メートル」ほどの高さに。
── そんな低いところに。
山口 どうして、こんなふうに描いたんだろう?

これはもう、完全に「違和感」ですが
よくよく考えた結果、
当時は「地図」として描かれていたから
ああなったんだなと。
── どういうことですか?
山口 俯瞰図というのは、絵師の頭のなかのものを
再構成しているんですよね。

何かを見ながら、描いているわけじゃなくて。
── なるほど、神さまでもない限り、
俯瞰的な視野なんて
持てるはずないですものね、その時代には。
山口 だから、とにかく視線は「上から」になる。

さらに「地図」として
すべての要素を表現しようとするから、
4000メートルちかい
富士山の全貌が描かれているのに、
2メートルくらいの
花屋の看板も同時に見えている‥‥ような、
そういう絵になってしまうわけです。
── 高さのスケール感が、
現実に比して、おかしなことになっている。
山口 がゆえに、雲が5メートルくらいの高さに
浮かんでもしまう、と。
── なるほど‥‥。

山口さんがイメージをふくらませるときって
直感の役割が大きいでしょうか?

それとも、わりと論理的だったりしますか?
山口 むかし、それこそ画学生だったころには
「これは描こう」という要素を
あるていど、文字に落としていたんです。
── リストアップされていた、と。
山口 それほどきっちりしたものでもないんですが
まずは言葉に置き換えて、考えていました。
── これとこれは、なきゃいけない‥‥みたいに。
山口 でも、やっていくうちにわかったのですが、
言葉に置き換えてしまうと
「つり上げるもの」が少なくなるんですよ。

その、わたくしの‥‥頭のなかから。
── つり上げるもの?
山口 つまり、言葉や文字で把握してしまった時点で
絵が、一定の範囲に収束してしまうんです。
── それは、「わけのわからないようなもの」が
出てきづらくなる‥‥という意味ですか。
山口 意図としては、「正確さ」を期するがために
言葉に置き換えていたんですが
そうするとイメージが痩せてしまうんですね。
── はー、そういうものですか。
山口 そこで、なるべく正確さをキープしつつも、
イメージの豊かさを損なわないために、
「直感の精度」を上げようと
そういうふうに、考えるようになりました。
── ‥‥直感の精度。
山口 絵のなかに「表現したいもの」を
うまく出せたときって
「これって、何なんですか?」と聞かれても
ちょっと困っちゃうんです。

自分でも、はっきり答えられないというか。
── わけのわからないもの、になっていると。
山口 でも、すべて言葉に置き換えてやっていた
画学生のころは
ひとつひとつ、答えることができたんです。

ここは、これこれこういう意味です、
あっちは何々の隠喩で、
そこは、あれを下敷きにしていて‥‥と。
── なるほど。
山口 やがて、その「つまらなさ」に気づきます。

そうじゃなくて、
描いた自分でも困っちゃうくらいのほうが
見るほうの人も
いろいろな「読み解き」ができるんですね。
── 解釈の余地や自由度の高いほうが
たしかに、
観ていて「おもしろそう」な気がします。
山口 ですから、そのために今は
言葉や論理よりも
「びかびかーっ!」っと光ったもののほうを
優先しているんです。
── それが、つまり「直感」ですか。
山口 黒澤明監督が
『七人の侍』の着想を得た瞬間というのは。
── ええ。
山口 「自衛のために侍を雇った農村は
 野武士から略奪されなかった」
という、
文献中の一文を読んだときだったそうです。
── そうなんですか。
山口 その瞬間、あの物語が閃いたんですって。
── へぇー‥‥。
山口 でも、その時点では前後の筋書きもないし、
キャスティングだって決まっていない。

ただ
「自衛のために侍を雇った農村は
 野武士から略奪されなかったという物語」
という、ちいさな塊があるだけの、
あくまで
直感的な閃きにすぎなかったはずです。
── ええ。
山口 でも、いちばん「含んでる」んですよね。

その塊は、『七人の侍』のエッセンスを。
── なるほど!
山口 そこが、いちばん「豊か」なんです。

ですから、その後の作業、
つまり脚本を描いて、キャスティングして
撮影をして、編集して‥‥という
一連の作業は
その「直感的な閃き」を
3時間半の映画に仕立て上げてゆくための
「つじつま合わせ」でしかない、と。
── はー‥‥塊の周辺を整理する作業、ですか。
山口 つまり、あの『七人の侍』という映画は
こまかい枝葉末節を積み上げて、
ようやく、たどりついた物語ではない。
── 最初に「びかびかーっ!」っと光った
こぼれるほど豊かで
ちいさい粒みたいなカタマリから逆算して
生まれた物語‥‥ということですね。
山口 わたくしの場合も、まったく同じなんです。

最初に「びかびかーっ!」というイメージを
打ち立てられるか、どうか。

ほとんど、そこだけに、かかっています。
── それが、先ほどおっしゃっていた
「直感の精度を上げる」ということですか。
山口 はい。

そして、直感によって得たイメージを
最後まで、絵としてきちんと仕上げる作業は
やはり「つじつま合わせ」にすぎない。
── 山口さんは
本当は「らくがき」がいちばんお好きだと
どこかで読んだことがあります。

ようするに「仕上げない絵」が。
山口 逆に「びかびかーっ!」さえしっかりあれば
そこへ至る「道行き」は、
どんなにブレちゃっても大丈夫なんです。

その「ブレ」が
むしろ「ふくよかさ」になったりしますから。
── その「びかびかーっ!」という直感を
身につけることって、できるのでしょうか?
山口 絶対に身につけられる方法があるかどうかは
わかりませんけど、
そのためにやれることは、あると思います。

ようするに「直感の精度を上げる」ためには
自分のなかに
「基礎資料」が入っていないとダメなんです。
── なるほど、つまり「インプット」ですね。

山口さんの場合なら
「たくさんの絵画を見る」というような。
山口 ええ、絵だけに限らず、
とにかく、いろんなジャンルの本を読んで
お芝居を観て、
映画を観て‥‥といういようなことです。
── なるほど。
山口 日本と西洋の絵というのは
ここで、こうつながっていたのか‥‥とか、
ああ、人間というのは
こんなときに悔しさを噛みしめるのか‥‥とか、
そういう「基礎資料」を貯めておくんです。

アウトプットしてゆくために。
── そのことが「直感の精度」を上げることに
間接的にでも、つながっていると。
山口 わたくしは、そう思いますね。

単なる「見間違え」が
直感的な「びかびかーっ!」のきっかけに
なることもあるんです。
── へぇ‥‥見間違え、が。
山口 見間違えや勘違いというのは、
ものすごく「オリジナルなもの」ですから。

「焼き豚茶って何だ? あ、やぶきた茶か」
みたいな。
── なるほど(笑)、たしかに「やぶきた茶」なら
日本全国で売ってますけど
「焼豚茶」は、味を想像するだに新機軸です。
山口 そういう「見間違え」や「勘違い」によって
新たなイメージを獲得できることがある。
── で、その「見間違え」や「勘違い」などに
「遭遇する」ためにも‥‥。
山口 やはり「基礎資料」が、必要です。
── つまり、山口さんが「透明な技術」によって
表現しようとしているのは
「精度の高い直感」がもたらすもの。
山口 そうであればいいなと、思います。



洞穴の頼朝 1990 カンヴァスに油彩 116.7 x 91cm 撮影:長塚秀人
© YAMAGUCHI Akira Courtesy Mizuma Art Gallery

<つづきます>
2013-04-18-THU