── | 山口さんの 「お好きな絵、おもしろいと思う絵」って どのような絵でしょうか。 |
山口 | 「明快でありながら、わけがわからない」 という絵なら、たまらないですね。 |
── | わかりやすいのに、わからない? |
山口 | 一見して「何だこれ?」と思うんですけど その「何だこれ?」が 一本道で、別のどこかへ通じていそうな絵。 |
── | ははあ。 |
山口 | この道を進んでいけば 何かいいものを見せてもらえるんじゃないか? そう思わせてくれる絵には、ドキドキします。 |
── | 「何だこれ?」とは「驚き」でしょうか、 それとも、また別の何か‥‥でしょうか。 |
山口 | 一言では「とらえどころのなさ」でしょうね。 わたくしたち人間が 何らかのものを認知する、認識するときには いろんな「収まりどころ」があります。 |
── | ええ。 |
山口 | とかく、人間が表現行為をなそうというとき、 そのような 「ああ、はいはい、これね」 とか 「知ってる知ってる、こういうことでしょ?」 みたいなところへ、収めてしまいがち。 |
── | つまり「想定の範囲内」に。 |
山口 | それだと、ちと、おもしろくありません。 だから 「知ってる知ってる、 こういうこと‥‥じゃないじゃんこれ!」 みたいな表現に出会うと たいへん、ゾクゾクといたします。 |
── | それはつまり、先ほどからお話に出ている 「違和感」や「引っかかり」でしょうか。 |
山口 | そうであると言っても、いいと思います。 「あれ? 今まで見てきた絵と なんか、どこか違うぞ‥‥」というね。 |
── | それは、古い絵からも感じますか? |
山口 | むしろ、室町時代の絵くらい古いほうが、 「どうして、こう描いたんだろう?」 という違和感を感じることが多いですね。 |
── | それは、たとえば? |
山口 | 空の「雲」とか。 |
── | ‥‥に、違和感? |
山口 | むかしの屏風絵や絵巻を見ますと、 空の「雲」が「ものすごーく低いところ」に 描かれていたりするんです。 |
── | 低いというと‥‥。 |
山口 | なんか、もう、 見た感じ「5メートル」ほどの高さに。 |
── | そんな低いところに。 |
山口 | どうして、こんなふうに描いたんだろう? これはもう、完全に「違和感」ですが よくよく考えた結果、 当時は「地図」として描かれていたから ああなったんだなと。 |
── | どういうことですか? |
山口 | 俯瞰図というのは、絵師の頭のなかのものを 再構成しているんですよね。 何かを見ながら、描いているわけじゃなくて。 |
── | なるほど、神さまでもない限り、 俯瞰的な視野なんて 持てるはずないですものね、その時代には。 |
山口 | だから、とにかく視線は「上から」になる。 さらに「地図」として すべての要素を表現しようとするから、 4000メートルちかい 富士山の全貌が描かれているのに、 2メートルくらいの 花屋の看板も同時に見えている‥‥ような、 そういう絵になってしまうわけです。 |
── | 高さのスケール感が、 現実に比して、おかしなことになっている。 |
山口 | がゆえに、雲が5メートルくらいの高さに 浮かんでもしまう、と。 |
── | なるほど‥‥。 山口さんがイメージをふくらませるときって 直感の役割が大きいでしょうか? それとも、わりと論理的だったりしますか? |
山口 | むかし、それこそ画学生だったころには 「これは描こう」という要素を あるていど、文字に落としていたんです。 |
── | リストアップされていた、と。 |
山口 | それほどきっちりしたものでもないんですが まずは言葉に置き換えて、考えていました。 |
── | これとこれは、なきゃいけない‥‥みたいに。 |
山口 | でも、やっていくうちにわかったのですが、 言葉に置き換えてしまうと 「つり上げるもの」が少なくなるんですよ。 その、わたくしの‥‥頭のなかから。 |
── | つり上げるもの? |
山口 | つまり、言葉や文字で把握してしまった時点で 絵が、一定の範囲に収束してしまうんです。 |
── | それは、「わけのわからないようなもの」が 出てきづらくなる‥‥という意味ですか。 |
山口 | 意図としては、「正確さ」を期するがために 言葉に置き換えていたんですが そうするとイメージが痩せてしまうんですね。 |
── | はー、そういうものですか。 |
山口 | そこで、なるべく正確さをキープしつつも、 イメージの豊かさを損なわないために、 「直感の精度」を上げようと そういうふうに、考えるようになりました。 |
── | ‥‥直感の精度。 |
山口 | 絵のなかに「表現したいもの」を うまく出せたときって 「これって、何なんですか?」と聞かれても ちょっと困っちゃうんです。 自分でも、はっきり答えられないというか。 |
── | わけのわからないもの、になっていると。 |
山口 | でも、すべて言葉に置き換えてやっていた 画学生のころは ひとつひとつ、答えることができたんです。 ここは、これこれこういう意味です、 あっちは何々の隠喩で、 そこは、あれを下敷きにしていて‥‥と。 |
── | なるほど。 |
山口 | やがて、その「つまらなさ」に気づきます。 そうじゃなくて、 描いた自分でも困っちゃうくらいのほうが 見るほうの人も いろいろな「読み解き」ができるんですね。 |
── | 解釈の余地や自由度の高いほうが たしかに、 観ていて「おもしろそう」な気がします。 |
山口 | ですから、そのために今は 言葉や論理よりも 「びかびかーっ!」っと光ったもののほうを 優先しているんです。 |
── | それが、つまり「直感」ですか。 |
山口 | 黒澤明監督が 『七人の侍』の着想を得た瞬間というのは。 |
── | ええ。 |
山口 | 「自衛のために侍を雇った農村は 野武士から略奪されなかった」 という、 文献中の一文を読んだときだったそうです。 |
── | そうなんですか。 |
山口 | その瞬間、あの物語が閃いたんですって。 |
── | へぇー‥‥。 |
山口 | でも、その時点では前後の筋書きもないし、 キャスティングだって決まっていない。 ただ 「自衛のために侍を雇った農村は 野武士から略奪されなかったという物語」 という、ちいさな塊があるだけの、 あくまで 直感的な閃きにすぎなかったはずです。 |
── | ええ。 |
山口 | でも、いちばん「含んでる」んですよね。 その塊は、『七人の侍』のエッセンスを。 |
── | なるほど! |
山口 | そこが、いちばん「豊か」なんです。 ですから、その後の作業、 つまり脚本を描いて、キャスティングして 撮影をして、編集して‥‥という 一連の作業は その「直感的な閃き」を 3時間半の映画に仕立て上げてゆくための 「つじつま合わせ」でしかない、と。 |
── | はー‥‥塊の周辺を整理する作業、ですか。 |
山口 | つまり、あの『七人の侍』という映画は こまかい枝葉末節を積み上げて、 ようやく、たどりついた物語ではない。 |
── | 最初に「びかびかーっ!」っと光った こぼれるほど豊かで ちいさい粒みたいなカタマリから逆算して 生まれた物語‥‥ということですね。 |
山口 | わたくしの場合も、まったく同じなんです。 最初に「びかびかーっ!」というイメージを 打ち立てられるか、どうか。 ほとんど、そこだけに、かかっています。 |
── | それが、先ほどおっしゃっていた 「直感の精度を上げる」ということですか。 |
山口 | はい。 そして、直感によって得たイメージを 最後まで、絵としてきちんと仕上げる作業は やはり「つじつま合わせ」にすぎない。 |
── | 山口さんは 本当は「らくがき」がいちばんお好きだと どこかで読んだことがあります。 ようするに「仕上げない絵」が。 |
山口 | 逆に「びかびかーっ!」さえしっかりあれば そこへ至る「道行き」は、 どんなにブレちゃっても大丈夫なんです。 その「ブレ」が むしろ「ふくよかさ」になったりしますから。 |
── | その「びかびかーっ!」という直感を 身につけることって、できるのでしょうか? |
山口 | 絶対に身につけられる方法があるかどうかは わかりませんけど、 そのためにやれることは、あると思います。 ようするに「直感の精度を上げる」ためには 自分のなかに 「基礎資料」が入っていないとダメなんです。 |
── | なるほど、つまり「インプット」ですね。 山口さんの場合なら 「たくさんの絵画を見る」というような。 |
山口 | ええ、絵だけに限らず、 とにかく、いろんなジャンルの本を読んで お芝居を観て、 映画を観て‥‥といういようなことです。 |
── | なるほど。 |
山口 | 日本と西洋の絵というのは ここで、こうつながっていたのか‥‥とか、 ああ、人間というのは こんなときに悔しさを噛みしめるのか‥‥とか、 そういう「基礎資料」を貯めておくんです。 アウトプットしてゆくために。 |
── | そのことが「直感の精度」を上げることに 間接的にでも、つながっていると。 |
山口 | わたくしは、そう思いますね。 単なる「見間違え」が 直感的な「びかびかーっ!」のきっかけに なることもあるんです。 |
── | へぇ‥‥見間違え、が。 |
山口 | 見間違えや勘違いというのは、 ものすごく「オリジナルなもの」ですから。 「焼き豚茶って何だ? あ、やぶきた茶か」 みたいな。 |
── | なるほど(笑)、たしかに「やぶきた茶」なら 日本全国で売ってますけど 「焼豚茶」は、味を想像するだに新機軸です。 |
山口 | そういう「見間違え」や「勘違い」によって 新たなイメージを獲得できることがある。 |
── | で、その「見間違え」や「勘違い」などに 「遭遇する」ためにも‥‥。 |
山口 | やはり「基礎資料」が、必要です。 |
── | つまり、山口さんが「透明な技術」によって 表現しようとしているのは 「精度の高い直感」がもたらすもの。 |
山口 | そうであればいいなと、思います。 |
洞穴の頼朝 1990 カンヴァスに油彩 116.7 x 91cm 撮影:長塚秀人 © YAMAGUCHI Akira Courtesy Mizuma Art Gallery |
<つづきます> |
2013-04-18-THU |