山元町、亘理町を管内としている
JAみやぎ亘理から、
いちごづくりがはじまりました、という
連絡をいただきました。
山元町から4人、亘理町から4人。
津波でいちご畑が流されたいちご農家のうち
8軒が集まり、
国や町の支援を得て
山側の土地5.4ヘクタールを整地し、
いちごハウスを建てはじめたのだそうです。
これまで海沿いでいちごを育てていた方々が、
仮設住宅や借家から、
遠い人になると約10キロの離れた場所から
車で「通勤」して、いちごを育てることになりました。
スコップ団に参加して以来、久しぶりに訪れた山元町。
津波の被害をのがれた田んぼでは、
稲が実りの季節を迎えていました。
JAみやぎ亘理の島田孝雄さんを訪ねると、
さっそく畑を見に行くといいよ、と
教えてくださいました。
「あの方たちも、ほんとうは自分の家で
畑を再建したかったと思います。地元でね。
けれども、見通しが立たないので
暫定的にでも
あそこでがんばろうということだと思います。
あの8人がさきがけとなって、
なんとか成功してもらえれば、と思っています。
11月になれば、農家のみなさんに
いちごの母苗を配るのですが、
『来年はうちもやりたい』という声も出てきている。
私たちが当初考えていたよりも
手を上げる人が多くなってきました。
そういう意味では、8人の方々のがんばりが、
来年のいちごの作つけにつながっていくと思います」
我々は、その
「あたらしいいちご畑」に行ってみることにしました。
そこで、山元町の
岩佐芳一さんにお会いしました。
「ここじゃ、浜でやってるのとは勝手がちがうんだ。
土の質がちがうから、こないだの台風の雨の水が
引かないんだからね。
勾配があるから、耕すのもうまくいかない。
従来だと、いまはいちごの花が咲いている時期で、
みつばち入れて受粉させている状態なんだけども、
作つけもまだです。
でもね、もうすぐ定植できるんじゃないかな?
うちらは、山元町の
新浜(しんはま)というところにいました。
自宅のほうは、すっかり
なんにもなくなったんだよ。
うちらの集落は約60軒あるんだけども、
残ってる家はほとんどないです。あるのは土台だけ。
鉄筋コンクリートでつくった
『新浜別荘地』というとこがあるんだけども、
そこしか残っていません。
うちは、新築して3年と8ヶ月だったんだよ。
母屋、長屋、作業場と、3つ建てたんだけども、
3年と8ヶ月の夢だったよねぇ。
作業場に、トラクターからコンバインから
ぜんぶ入れてたのも流されてね。
いま、ちょうどお昼休みでさ、
となりの地域の人が来たんだけども、その人も
『おらのハウスもなんにもなくなった』って言ってた。
福島県と宮城県の県境にある
いちごの農家は、ほぼ壊滅です。
うちの地区じゃ、死亡者数は40人以上になった。
うちの親戚は14人。みんな津波で亡くなった。
ここの畑には、毎日車で来るんだけど
しばらくは黒い服、積んで来てたんだよ。
隣づきあいがあって、みんなよく知ってたから、
1週間にふたつずつくらい、
葬式だのなんだの、あるわけよ。
いまは落ち着いてきてっけどね、
うちらの集落ではまだふたり、見つからないの。
5歳の子どもと、
63歳の、おれより1つ上の人。
だけどもね。
下だけ向いたってしかたねぇから
やっぱり上向いて歩かないと。
誰かが助けるなんて、ほんとはできねぇから、
自分でやらないといけねぇから」
あたらしく、ここの地域に畑を持とうと
思われたきっかけは?
「津波に遭って、
避難所に、みんないたわけさ。
みんなして沈んでたんだよね。
そのときに、テレビの取材が来たんだよ。
若い人たちを集めて意見を聞く番組だった。
若い後継者たち、14〜15人、いたのかな?
そのなかでいろんな話が出たのさ。
いちごづくりやりたいという人もいた。
で、さて、やっぱり‥‥となるわけさ。
だけど、ハウスを建てるだけでも
いっさいがっさいで2千万くらいかかってくる。
家も流され農機具も流され畑も流され
さて、それで
『やるべ』といっても
なかなか資金がうーーーーーん、つらいからね。
で、そんなことで、何日か経ったわけなのね。
だけど、もう一回チャレンジしたいってことを
息子から言われたのさ。
そうすっとさ、親父として、そんなこと言われたらさ。
俺はリタイヤ組だと思ってたし
やる気はなかったけども、
息子たちがやりたいということであれば、と
4人の親父たちが集まって、
農協行って、農政局行って、
国の補助、町の補助、何かないか
とにかく話を訊いてみよう、
ということになったわけさ。
やっぱりね。避難所にいても、
頭のはじっこから、
いちごが離れないのよね。
いちごはいま、本来であれば、
こういう時期なんだよなぁ、と。
農機具も何もかも流されちゃったけど、
流されなかったのは、
自分たちの腕や技術です。
津波であろうが泥棒であろうが
自分らの腕は持っていかなかったんだよ。
だから息子たちも、
もう一度やりたいと思ったんじゃないかな」
岩佐さんのハウスはまだからっぽの状態。
これから苗を定植します。
「ほんとうはいまごろ花が咲いてて、
早ければ10月末には収穫になる。
いちごってのは、最初から
ケーキに乗るきれいなやつは実らないんだよ。
はじめは、でっかいいちごがなる。
12月くらいになってきて、
バランスのいいいちごができてくる。
だから今年は無理だなぁ。
うまくいけば、クリスマスに、
最初のでっかいいちごがなるよ」
おいしいいちごを育てるためには
いろんな過程で、高い技術が必要です。
ハウス設営、温度管理、水やり、植え込み、受粉、
花が咲いたら、小さい針で葉をめくり
花芽を顕微鏡で確認します。
病気やウィルスを防ぎ、
いちご本来の味を出すための
細い判断が重要になってきます。
今回は、もちろん
苗もあらたに入手しなくてはなりませんでした。
「苗は全滅。だから、栃木県から来たの。
とちおとめ。
あれは6月15日だったな、
栃木まで行って、
いちごのランナー(新しく芽吹いた苗)を
いただいてきた。
とちおとめというのは
栃木県でつくったいちごだから
栃木の県知事のハンコをもらわないと
宮城に持ってこれないのよ。
だから、栃木県と宮城県で話し合って、
農協通してもらって、苗をいただきました。
いま、毎朝、定植苗に水かけてるよ。
枯らしたら、苗をくださった人にも、
ここの土地を提供してくださったみなさんにも
もうしわけないからさ。大事に育てなきゃ。
ここはもともと、田んぼだったんだな。
向こうは桑畑。あっちにまだ桑の根っこがあるけどね。
それが、遊休地になってた。
このあたりの集落のみなさんの理解があって、
重機もってきて、掘り起こして、平らにしてもらった。
みなさんの協力がなかったら
このハウスは建たなかったでしょう」
今後、ご自分のハウスについては
ご家族のみなさんで
作業を進められるのでしょうか。
「そうそう。
ここから先は畝を作るのも何もかも、
ぜんぶ家族の作業だね。
ハウス本体を建てるまでは
山元町から来た4軒の共同作業だったの。
この夏、みんなでずっとハウスを建ててました。
30度超え続きの暑い日も、毎日毎日」
岩佐さんは、生まれてずっと
山元町にお住まいなんですか?
「うちはずっと山元町です。
『ご自宅』の大邸宅は、ご存知、流されて、
いま仮設の、四畳半二間の大邸宅にいます。
これは、何に載るの?」
インターネットの、
ほぼ日刊イトイ新聞といいます。
パソコンは‥‥
「うん。息子のパソコンも
ぜんぶ流されたからな。
いつか見るよ。うん。
いつか、見せてもらいます」
これからも、ときどき、
うかがわせていただいてもいいでしょうか。
「うん、またおいで。
農協通じて、ボランティアの人たちも
たくさん来てくれてるんだよ。
いちご収穫の頃にも、また来るといいよ。
前はね‥‥12月になると
11トントレーラーが毎日来て、出荷してたんだよ。
出荷先は、札幌、旭川、室蘭。
いちごは飛行機のコンテナで、千歳に行っちゃうの。
うちらは飛行機なんて、
年に1回、乗るか乗らないかなのに、
いちごは毎日、な?
自分らより大事なくらいなの。ははははは」
いつか、11トントレーラーで、
ケーキの上に乗せるいちごが
毎日畑を出ていくようになるといいな、と
岩佐さんは笑顔を見せてくれました。
とても日に灼けた、背の高い、岩佐さん。
かっこいい方でした。
岩佐さんにお別れを言って、
帰り道、我々はこんな話をしました。
「岩佐さんの、あの日の灼け方」
「うん‥‥。きっと
この夏のあいだじゅう、
一所懸命ハウスを建ててらしたんですね」
「あとね、Tシャツがね」
「うん」
「いちごの色だったね」
「うん」
山元町のいちごづくりには、
もうひとつ、別の渦が
生まれようとしていました。
次回も、いちご農園についてお伝えします。
(つづきます) |