山元町と手をつなぐ。
糸井重里がTwitterを通じて知り合った人が 宮城県・山元町にいました。 何をしたらいいかわからない我々に 「手を合わせに来てください」 という声をかけてくれました。 りんご、いちご、ぶどう、ホッキ貝。 昔ながらの里山が残る、星空のきれいな町。 山元町のこれからに、関わりたいと思いました。

11 未来につづく、いちご。

もうひとつ、
いちごについて動きがありました。
それが「山元いちご農園株式会社」です。
いちごの、農園の、「会社」。
さっそく伺ってみることにしました。

事務所は、山元町内の
ガソリンスタンドにありました。

「ガソリンスタンドの会長さんのご好意で
 間借りさせてもらってるんです。
 会社立ち上げるっていうのに、
 いつも田んぼの中で
 話するわけにいかないからって(笑)。
 あ、あの方が会長さんです。
 物心両面でお世話になっています」

山元いちご農園株式会社は、
岩佐隆さん、岩佐寿郎さん、
丸子直樹さん、丸子伴幸さんの
4人で立ち上げた、いちごの会社。
いちごの栽培、出荷、観光農園の運営をめざし、
この秋から植えつけをはじめます。

なぜ、株式会社というかたちを
とったのでしょうか。

「3月11日でなんにもなくなっって、
 ずいぶんがっかりしたけど、
 会社をつくることで、山元町のみんなの
 拠点になればいいと思ってね。
 まずはそれが動機です。

 今回は4人のメンバーで法人を
 立ち上げることになりましたが、
 決断するまでには、個人個人、
 いろんな思いがありました。

 山元町には16700人が住んでいましたが、
 現在、691名が
 亡くなったり行方不明になったりしています。

 私も、知人や親戚が20人以上、
 亡くなったり行方不明になっていますので、
 3月11日以降、1ヶ月間は、
 遺体の捜索、確認、お葬式、火葬を
 一所懸命やっていました」

岩佐隆さんのご自宅は
山元町の笠野地区にありました。
笠野地区では、
232軒のうち2軒の家が残っただけ。
岩佐さんのご自宅は
海から50メートルの距離に建っていました。

「けっこう広い家だったんだよ。
 残ってるのは“基礎”だけです。
 このあたりはうしろも隣もぜんぶ、
 住宅が並んでたけど、
 きれいさっぱり、なくなってる。
 うちはたまたま玄関に変わった石を敷いてたから
 自分の家がここだとわかるけど、
 そうじゃなきゃ、わかんないです」

堤防までは松林がありました。
林の幅は、2〜300メートルあったそうです。
いまはそれが信じられないほど、まばらです。

「松林、ヒョロヒョロになっちゃったね。
 この松の上を、津波が越えてったんだよ。
 ドッカンドッカン、
 波が堤防にぶちあたる音がして、
 なんだかわかんないものが降ってきたぁ、
 と思ったよ」

丸子伴幸さんは
津波が引いた夜の様子を
こう話してくれました。

「避難して、津波の水が町から引いて、
 自分の家に戻れるようになったとき、
 やっぱりみんな、自分の家に行ったんです。
 迷いながらもたどり着いて、
 まず家がなくなってて、
 みんな驚いて叫んでた。
 叫ぶしかなかったよね。
 人がいないとわかって叫んで、
 人がいたら、そこでまた叫んで。
 その夜は、真っ暗な中で
 人の叫ぶ声だけが、ずっと聞こえていました」

避難所で過ごすうち、
このまま山元町が
荒廃していくだけでいいのだろうかと、
岩佐隆さんは考えました。

「ここは、もとあった我が家のいちご畑です。
 水が入っててどうしようもないし、
 災害危険区域に指定されて
 ここでは畑はつくれないかもしれません。

 私は50年以上、
 この山元町で暮らしてきました。
 やっぱり、この町では
 農業を復興させることが
 地域全体の復興につながっていくと思います。
 他所に土地をさがすんじゃなくて、
 地域の中で再生していきたい。
 お金かかったって、山元町でやることが大事です。
 
 だけど、こんなように何もない状況では
 資金面もひっくるめて
 個人で農業を再生できる状況ではありません。

 震災後1〜2ヶ月くらいまでは
 今日も明日も捜索と遺体確認の日々で、
 あらたに農業をやりたいという人は少ない。
 お金かけてハウスを建てるということになれば、
 手を挙げる人はもっと少なくなるんです。

 ずいぶん呼びかけましたけど、
 賛同してくれる人はなかなかいなかった。
 今回いっしょにやる4人は
 なんとか山元でいちごをもう一度つくりたい
 という気持ちがありました。


 だったら経営的に成り立つ形にして
 会社をつくろうじゃないか、ということになって、
 6月20日に法人を立ち上げました。
 事業申請するのは、なかなかたいへんでね。
 町、農協、普及センター、県、
 いちごを事業の形で立ち上げる話には
 みんな乗ってくれなかったんですよ。
 なんでかって?
 それは、あまりにも事業規模が大きいからです。
 『被災した農家がやるにはちょっと』と言われました。
 『あと3年くらい待ったらいいんでねぇの』
 とも言われました。

 3年待ったら、農業する人たちの意欲もなくなるし、
 そもそも、その3年間、どうすんの? と
 私は言いました。
 生活もあるのにさ。
 そしたら、まじめな顔で、こう言うんだよ。
 
 がれき拾いをはじめとする、
 国の指定事業があるから、
 そういうところに行って、
 毎日7000円でも1万円でも、稼いで、
 それで3年間待つようにすればいいんだ、と。

 国が指定事業でやってくれるのは、
 半年、1年、長くて2年、その程度でしょう。
 それからあと、自分たちは、いったいどうすんの?
 いまの気持ちをみんな、3年の長いあいだ、
 持っていられるだろうか?

 そういうことを考えると、
 復興のためにいちはやく
 個人が事業を起こすのが
 いま我々が考えられる
 いちばんいい方向じゃないでしょうか。
 だって、みんなが参加できるからね。
 家族経営でやってた農業を、雇用に変えていく。
 そうすれば、地域の雇用の受け皿にも
 なり得るんですよ。
 農業で被災した人、農業じゃなくて被災した人、
 どのくらい受け入れられるかはわからない。
 でもそうすべきだと思います。
 
 それじゃあ今度は、会社が倒れたって困る。
 自分たちの経営で
 成り立つようにしていかなきゃいけない。
 
 そこからは4人して、
 こんな(笑)、会社なんて立ち上げるのは
 はじめてだから、そっちこっち歩かせてもらって。
 被災農家が何十億も借金できるわけでもないし、
 被災地域の農業対策金が交付される
 『東日本大震災農業生産対策交付金事業』に
 入れるかどうか、かけあったわけです。

 そんな、会社を立ち上げるほどのお金、
 俺もいままで考えたこともなかったんだよ。
 億っていう金がどのくらいだか見たことねぇ。
 人にも言われます。
 『あんたたち、億がどのくらいの量だか、
  わかってんの?
  簡単に億って言うけども』ってね」

この事業にかかわる4人のうち、
丸子直樹さんと丸子伴幸さんはご兄弟。
それぞれ30代の若い世代です。

「もっともっと、若い人たちが
 みんなまとまって立ち上げていかなきゃダメだ、って
 一所懸命お話ししてきたんだけど、
 農業というと、家族経営だから、親がいるんですよ。
 みんなでまとまって会社つくったり
 共同でやる、ということに違和感があるんです。

 それに、この話は借金のことでもある。
 自分たちが借金するわけじゃねぇ、
 会社が借金するんだから、
 乗ってもらって構わないんだよ、って
 いくら説明してもわかってもらえることは少なかった。

 あたらしい畑のための土地も、
 そっちこっち見たんだけども、なかった。
 だから、自分たちが持ってた土地をまず利用して
 広げていくことを考えました。
 ここです。昔、米をつくってたところ」

 波かぶって、がれきがたくさんあったんだけど、
 それをスコップ団というボランティアの人たちが
 きれいにしてくれてさ。
 え? スコップ団、行ったことあるの?」

そういえば、スコップ団の方から
私たちが参加したすぐあとの週に、
いちご農園のスコップをした、と聞いていました。

「そりゃあ、奇遇だね。そうかぁ。
 とにかく彼らにはお世話になりました。
 いちごがなったら、ぜひ来てほしい。

 この土地で、路地で栽培できればいいけど、
 津波で土がやられてるので、
 高設型の畑にしようと考えています。
 畑を高設型にしてハウスを建てるから、
 その部分だけで1億円くらい、
 投じることになりました。

 あたらしく、みんなで会社で
 いちごをやろうっていうんだからね、
 これまでとおんなじことはしないつもりです。
 土を使わずに、ヤシガラを中心とした素材に
 苗を植え込んで、EM菌で育てます。
 ふつう、いちごは青いうちに摘んで、
 流通してるあいだに熟すんだけど、
 うちはそうはしないつもりです。
 ちゃんと熟すまで待って摘んで、
 採れたてを食べてもらう。
 熟すまで畑にいたいちごは、おいしいんだよ。
 甘さも香りも、まるでちがうから。
 たのしみにしててよ」

「山元いちご農園株式会社」の苗は
現在2万6000本。
のべ50人のボランティアの人たちが
小苗をポットに植えつけしてくれたそうです。
その、苗の置き場所に
メンバーの岩佐寿郎さんがいらっしゃいました。

「いまは、苗の置き場所も、トラックも
 みんな借り物。
 みなさんに援助してもらいながら
 やっています」

「山元いちご農園株式会社」のいちごが実るのは、
来年の春、2月か3月あたりだそうです。
品種は「もういっこ」と「とちおとめ」。
赤く色づくまで畑にいた、香りと甘さが自慢の、
山元町の未来をつくっていくいちごを
たのしみに待ちたいです。

東京に戻り、
この原稿をまとめていたちょうどそのとき、
「山元町の1330世帯 移転対象に」
というニュースを知りました。
山元の町の、3分の1にあたる1900ヘクタールが
災害危険区域に指定されるというのです。

いろんな人たちの顔が浮かんできて
しかたなかったです。

(近いうちに、また、つづきます)

 
山元いちご農園株式会社を応援する  ファンドができました ミュージックセキュリティーズ

「山元町でなんとかもう一度いちごをつくろう」
という決意を固めた、岩佐さんたち4人の
山元いちご農園株式会社を応援する
ミュージックセキュリティーズによるファンドです。
出資口数2口以上でいちごパックが送られてきたり、
いちご狩りへの招待を受けられます。
くわしくは、こちらをごらんください。

2011-11-07-MON
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